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起きているのか、眠っているのか。 もはや、その境目さえどうでもよくなっていた。
目を開けば天井。
目を閉じても、同じような白。
違いはなかった。
かつては、ここから出たいと思った。
壁を叩き、喉が裂けるほど叫んだ。
あるいは食事を拒もうとしたこともあった。
けれど、今はそのどれも思い出すだけで疲れる。
叫んでどうなる?
声が枯れて、胸が痛むだけだ。
叩いたところで、この壁はびくともしない。
食べなければ、腹が苦しくなるだけ。
そう気づいてしまった。
いや、気づいたのではない。
ただ「考えること」が面倒になった。
パンが小窓から滑り込む。
反射のように手を伸ばす。
口に入れ、噛む。飲み込む。
味はない。
噛んでいる間、頭の中は空白だった。
かつては「これはパンだ」と思った。
今はもう、それすらない。
ただ「咀嚼」という行為が繰り返されるだけ。
水を飲む。
冷たさも温かさも感じない。
ただ喉を濡らすだけの液体。
――生きるために飲むのか?
そんな問いは、とっくに浮かばなくなっていた。
夢を見る。
知らない部屋。窓の外は夕暮れで、鳥の鳴き声が響いている。
柔らかい布団の上に座っている自分。
頬に触れると、温かい。
夢の中の自分は笑っていた。
誰かが隣にいて、その人と話していた。
けれど、その「誰か」の顔は黒く塗りつぶされていた。
――安心。
言葉にならない感覚だけが残り、目が覚める。
だが、そこにあるのは変わらぬ壁と天井。
布団はなく、冷たい床が背中に貼りついている。
笑っていたはずの口元は、今はただ乾いて裂けていた。
壁の向こうから気配を感じることがある。
誰かがそこに立っている気がする。
最初は恐怖した。
次に怒りを覚えた。
やがて諦めた。
今はもう、何も湧かない。
気配があってもなくても同じ。
ただ「ある」と思えば「ある」し、「ない」と思えば「ない」。
どちらでもいい。
ふと、声を出そうとした。
「……」
何も出なかった。
声帯は震えたのかもしれない。
でも、耳には何も届かない。
もう「音を出そう」と思う心そのものが消えかけていた。
かつて「ボク」と名乗っていた記憶がある。
だが、それが正しいのかどうかもわからない。
呼ばれる名前を忘れ、言葉も忘れ、残ったのはただ「ここにいる」という感覚だけ。
――ボク、という言葉すら要らないのではないか。
そう思った瞬間、不思議と心が軽くなった。
重荷が外れたように。
壁を見つめる。
床を見つめる。
天井を見つめる。
そこに意味はなかった。
でも、意味がなくても構わなかった。
かつては「出口を探さなきゃ」と思った。
今は「探す」という行為そのものが、余計なものに思える。
出口があるかどうかすら、もう確かめなくていい。
この四角の中にいることが、すでに全てだから。
夢と現実がひとつになっていく。
夢の中で白い壁を見ている。
目を覚ましても、白い壁がそこにある。
夢でパンを食べる。
現実でパンを食べる。
差はなかった。
区別する必要もなかった。
すべて同じ。
すべて均一。
ただ繰り返し。
あるとき、パンを床に落とした。
以前なら拾って食べたはずだ。
でも、そのときは手が動かなかった。
数時間放置したあと、腐った匂いが漂った。
それでも、どうでもよかった。
空腹も苦痛も、もはや「感じる」ということが希薄になっていたからだ。
やがて自動的に水を飲んで、気がつけば横になっていた。
身体はまだ生きようとする。
でも、心はそれに従わない。
いや、もう「心」という言葉が当てはまるものは残っていなかった。
どれほど時間が経ったのか。
食事の回数でさえ数えなくなった。
回数を数えるという行為が、意味を持たなくなったからだ。
ただ、与えられれば受け取る。
与えられなければ、そのまま横になる。
それだけで足りた。
いつからか、壁に光が差しているように見えることがあった。
最初は「外の光だ」と思った。
けれど次の瞬間には「錯覚だ」と思った。
そして最後には「どちらでもいい」と思った。
真実を確かめる気力も、意味もなかった。
ふと、気づいた。
抵抗していない。
ここから出たいとも思っていない。
ただ、与えられたものを受け取り、消費し、また眠る。
それだけ。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
声をなくし、言葉をなくし、名前をなくし、抵抗をなくした。
残ったのは――ただ呼吸をする肉体。
そして、その肉体にさえ「自分」という感覚はなくなりつつあった。