その夜の土鍋の中の水炊きは真昼の涙で少し塩気が強かった。ガスコンロの上で煮えたぎる怒りと悲しみ、精力増進のニラと牡蠣が恨めしかった。
(誰の為の精力増進なんだか)
「真昼、なんかこれ塩っぽくないか」
「そうかな」
「うん」
そう言いながら目の前で箸を口に運んでいる夫には幾つの顔が隠されているのだろう。大きなため息が出た。
「なんだよ、辛気臭いな」
「そうかな」
「うん」
(成る程だわ、毎朝早起きして《《橙子先生》》と愛を語っていた訳だ)
考えるだけで虫唾が走った。
(なんの先生なんだか、世も末だわ)
「なんだよ」
「なんでもない」
「牡蠣、美味いね」
「たっちゃんが美味しいとか、珍しいね」
「そうかな」
「うん」
ふと気が付く。
(ちょっと待って。早起きし始めたのはいつから?)
「なんだよ、顔、怖くない?」
「ニラ、足す?」
「いらない」
「そう」
あれは、いつだったか。
「たっちゃん」
「なに」
龍彦はニラが気に入らないらしく箸で避けて牡蠣を摘んでいる。
「お義父さんの代わりにロータリークラブに行ったのっていつだっけ」
「なんで」
「え、頑張ってるなぁーーっと思って」
「二週間に一度だから」
嬉しそうに指折り数えるその回数が《《橙子先生》》との逢瀬だと思うと無性に腹が立った。
「三ヶ月前かな」
「三ヶ月《《も》》頑張ってるんだ」
(へーーーー、そんな前から不倫していたんだ、ふーーーん)
「なに、なんか言葉が刺々しいんだけど」
「そうかな」
(金曜日)
「毎週金曜日だっけ」
「二週間に一度だよ、知らなかったの」
「うん」
(不倫していたなんて全然気が付かなかったよ)
「じゃぁ、今日はロータリークラブの日?」
「来週」
「ふーーん」
(会えない日はオンラインセックスで我慢、か)
ガタッ
龍彦はテーブルの上に箸を置くと無言で立ち上がり、パソコンの前で胡座を組んだ。そして真昼に背中を向けると|徐《おもむろ》にオンラインゲームのコントローラーを握った。
「ちょ、ちょっと!たっちゃんご飯もう良いの!」
「いい」
「ご馳走さまくらい言いなさいよ!」
「ごち」
今朝、扉の隙間から垣間見た嬉々とした表情。携帯電話を握った龍彦は別人のように|溌剌《はつらつ》としていた。
(なんなのよ、もう!)
真昼はその無口な背中に涙が溢れ、土鍋を両手で掴みドス黒い感情を排水口へと捨てた。
それでも日常は容赦無く回り続ける。
「・・・・また、いない」
クイーンサイズの左側に手を伸ばすとそこに人の温もりは無かった。龍彦はオンラインゲームに没頭するとテレビの電源も落とさずリビングのソファーで寝てしまう事が多い。いや、ベッドで眠る事など殆ど無かった。
(・・・・・)
真昼は容赦無く、オンラインゲームのデータが保存がされていない状態でパソコンをシャットダウンする。これで昨夜の戦利品は消滅、領地没収、ざまあみろとほくそ笑むがそれが原因で口論に発展する事もあった。
「なんて事するんだよ!」
「たっちゃん、あんたもう38歳なのよ!」
「これはシリアルナンバー入りなんだぞ!」
「食えもしないシリアルなんかゴミ箱に捨ててしまいなさいよ!」
残業で疲弊し帰宅した真昼を待っていたのは雨でずぶ濡れになった洗濯物とキッチンのシンクに積み重なった飲みかけのコーヒーカップ、リビングテーブルの上には食べ散らかされたポテトチップスの残骸。
「あ、腹へった」
次の瞬間、龍彦が後生大事にリビングに飾ってあった、吼えながら歩く全長40cmのゴジラのフィギュアがフローリングの床に叩き付けられた。
ガオーーー
ゴジラは最後の雄叫びをあげて動かなくなった。
「この暴力女!」
真昼は「不倫男!」と|詰《なじ》りたい気持ちにグッと蓋をして二階の寝室に駆け込んだ。
(なに、この小学生みたいな喧嘩!)
だらしのない毛玉だらけのスェットスーツで顔も洗わずオンラインゲームに時間を費やす龍彦が、どんな顔をして《《橙子先生》》とやらに甘い言葉を囁くのかと腹立たしさを通り越して馬鹿らしくなった。
(私はたっちゃんのお母さんじゃない!)
ベッドの上に大の字になって髪の毛を掻きむしっていた真昼はふと、違和感を感じた。
(・・・先週の金曜日はロータリークラブの日)
クローゼットの隙間から何かが真昼に手招きをした。取っ手に指を掛けて横にスライドさせるとそれが匂い立ち鼻腔に入り込んだ。線香にも似た独特の白檀の香り。
「・・・これ」
ハンガーに掛けられたスーツの袖を一枚、一枚順々に鼻先で嗅いだ。
(これは違う、これも、これも違う)
一番端に隠されるように掛かっていた焦茶のスーツの裾から白檀の香りがした。
(やだ、これ)
しかもそのスーツジャケットは真昼と龍彦が結納を交わした時に着ていた一番仕立ての良いものだった。妻との思い出のスーツを着て龍彦は愛人を胸に抱いていた。真昼の中に怒りの火が点った。
真昼はそのジャケットが掛かっているハンガーをハンガーポールから引きむしると片手に握り締めて廊下を足音を立てながら歩いた。その一歩一歩が激しい怒りとなり、それが沸点に達した時、真昼は思い切り振り被ると力の限りで階段下へと投げ落とした。それは驚くほどの音を立てて落ち、流石に驚いた龍彦がその場に駆け付けた。
「ま、真昼?」
ふり仰ぐと階段の上には仁王立ちで鬼の形相の真昼、足元には皺くちゃになった焦茶のスーツと割れたハンガーの欠片が散乱していた。
「ど、どうした」
「臭かったから!捨てようかと思って!」
「な、なに言ってるんだよ、一番高いスーツだぞ」
「それがどうしたの!」
「どうしたはおまえだよ!」
真昼は震える脚が階段を踏み外さないように一歩、また一歩と降り、龍彦の襟元をぐいっと掴んだ。息が詰まる。
「臭いのよ!」
「クリーニングに出せば良いじゃないか」
「じゃあ、たっちゃんが自分で出して来て!自分で始末して!」
龍彦はその手を振り解くと|咽《む》せながら「あぁ、分かったよ!」とスーツを持ち上げるとパソコンの前に座った。
(臭いの意味すら分かんないの!)
真昼は忌々しい白檀の香りを|纏《まと》う《《橙子》》という愛人に対峙すると誓った。
(たっちゃんを腑抜けにしたその顔を見てやろうじゃないの!)
来週の金曜日、真昼はその場所に向かう。
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