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千里が出社すると、職場は妙に静かだった。 会議のことを誰も口にしない。ただ、何かが“触れた”空気だけが残っている。
三宅リーダーは書類を抱えながら千里に近寄る。
「美浜さん……昨日、ありがとうね。あの、言いにくいことを言ってくれて」
千里は軽く頭を下げる。
「いえ、業務上必要だと思っただけですから」
それ以上は深く踏み込まない。
だが三宅の目には、昨日までとは違う“信頼の線”が浮かんでいた。
◯
その日の午後、柳瀬が千里に声をかけた。
「美浜さん、少し時間いいかな」
会議室に呼ばれると、柳瀬は資料をめくりながら苦笑した。
「昨日は……ちょっと、耳が痛かったよ」
千里は沈黙を選ぶ。
柳瀬は続ける。
「僕ね、本当は……決めるのが怖いんだよ。
誰かを傷つけるかもしれないと思うと、つい、曖昧にしちゃう」
彼の弱さは露骨だったが、初めて“嘘のない言葉”だった。
「だから……美浜さんの意見、助かったよ。
現場が困っているって、やっと実感した」
千里は淡々と返す。
「必要であれば、資料の扱い方や線引きの整理は、私のほうでも補助できます」
柳瀬は少し息を飲んだ。すぐ後に、小さくコクリと頷いた。
“責任転嫁”とは違う、対等な提案だと気づいたからだ。
「……ありがとう。ほんと、助かる」
ぎこちなく頭を下げる姿は、昨日までの“テンプレの優しさ”とはまったく違っていた。
◯
ある日の昼、休憩スペースで岡野が千里の隣に座る。
「……あの時、美浜さんが静かに言ってくれたの、僕、救われました」
千里はコーヒーを口にしながら答える。
「私の発言は業務上のことだけですよ。
あなたの言葉も、必要だったと思います」
岡野は少し照れくさそうに笑った。
「僕、これから言い方だけ気をつけて、でも意見はちゃんと言おうと思うんです。
自分の感情じゃなくて、仕事として」
その変化は幼さを脱ぎ始めるような、静かな覚悟だった。
千里は心の中だけで、小さく息をついた。
(若いのに……ちゃんと考えてる)
表には出さないが、淡い肯定がそこにはあった。
◯
2週間後─
柳瀬課長は、ついに動いた。
「今回の案件の対応範囲、ここに線を引こうと思う」
会議でそう宣言し、資料の一部には“責任の所在”と“判断基準”が明記されていた。
部下たちは驚いて目を見開く。
田上が言う。
「柳瀬さん、明確にしてくれたのは助かります。これなら安心して動けます」
三宅も頷く。
「これなら、無駄な迷いが減りますね」
千里は議事録を書きながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
(やっと、始まった……)
課長は千里の視線に気づいたのか、小さく会釈した。
その顔は弱さを隠さず、しかし逃げてもいない。
◯
この頃から、職場で千里を見る目は変わっていく。
「冷たく見えて、実は誠実な人」
「言葉の裏を読める人」
「自分を守りつつ、人も守る線を引ける人」
そんな空気が自然に流れ始めた。
岸本も以前より丁寧になり、
「これ、自分のほうでやってみます」と言う回数が増えた。
岡野は千里に相談する際、
「負担じゃなければなんですが」と前置きをするようになった。
三宅は、業務の線引きを一緒に作ろうと声をかけてくれるようになった。
誰も千里に甘えなくなった。
同時に、誰も千里を“近寄りがたい壁”としても扱わなくなった。
◯
ある朝、柳瀬課長が小さな言葉をこぼした。
「美浜さん……うちのチーム、多分、前よりちょっと良くなってるよね」
千里は少しだけ考え、静かに返した。
「そうですね。皆さんが、それぞれの役割を意識され始めた気がします」
課長は照れたように笑う。
「あなたの言葉が、いい火種になったよ」
千里は首を振った。
「私の言葉だけでは何も変わりません。
皆さんが“変わろう”としたから、変わったんだと思います」
その言葉は淡々として、冷たくない。
“距離を保ちながら、敬意を示す”千里らしい柔らかさがあった。
課長は短く頷く。
「これからも……頼りにしていいかな」
千里の返事は、ゆっくりとしたテンポだった。
「必要な範囲でしたら。
私は、私の線の中でお手伝いします」
その線は境界でありながら、
以前よりずっと“開かれた線”になっていた。
◯
──静かに、確実に、職場が変わっていく
千里は誰かと強く戦ったわけではない。声を荒げたわけでもない。
ただ、
曖昧さに飲まれず
弱さを否定せず
責任の線を守り
それを淡々と示した
その結果、
職場には少しだけ“余裕のスペース”が生まれた。
課長も、同僚も、そして千里自身も。
静かに。
だが確実に。