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職場の騒動から数日後の夕方。 千里は帰り道で偶然、安藤毅と落ち合った。
かつて異業種研修で顔を合わせたことがある程度の知人だが、
会えば自然と話せる相手だ。
「久しぶりだな、美浜さん。
なんか……顔つきが前より締まった?」
開口一番そう言う毅に、千里はまばたきを一度だけして返した。
「前が緩んでた、という意味ですか?」
「いやいや、そういうんじゃなくて」
毅は笑った。
「頑張ってる人の顔してるってこと」
言葉を濁さずにまっすぐ言うのが、彼の癖だ。
千里は少しだけ視線を逸らす。
「……仕事で、少しありまして」
「“少し”って言うときは、大抵“けっこう”しんどいやつ」
「そうかもしれません」
彼女の返事は淡々としているが、
毅はそれの奥にある湿度を読み取るタイプの人間だ。
二人は横並びでベンチに座った。
冬の風が少し強いが、話すにはちょうどいい静けさだった。
◯
「自分では冷静にしたつもりでも……
周りがどこまで受け止めたかはわかりません」
千里は、自分でも驚くほど素直に言葉がこぼれた。
毅は軽く頷く。
「受け止めたくない人もいるだろうな。
でも、言わなきゃ潰れてたかもしれないんだろ?」
千里は息を吸う。
「ええ。誰が悪い、という話ではないんです。
ただ、曖昧さが放置されすぎていたので……」
「じゃあ、言えてよかったと思うけどな」
毅の声は柔らかいが、甘やかしはない。
この“距離感を間違えない強さ”が、千里には心地よかった。
◯
「美浜さんってさ、
無茶なことは言わないけど、黙って飲み込む人でもないよね」
毅がぽつりと言う。
「……褒め言葉として受け取っていいんですか?」
「もちろん。
俺にはできなかったからさ、昔」
毅の視線は、遠くの歩道のライトに向けられていた。
ほんの僅かに、その横顔に影が落ちる。
千里は口を開く。
「安藤さんは、前よりずっと“聞ける人”になった気がします」
「聞ける人?」
「相手の言葉の後ろに、何があるかまで読む人です」
毅は軽く息を吐いて笑った。
「それ、かなり励みになるな」
二人は互いに笑ったが、
その笑顔には“疲れをごまかすための明るさ”はなかった。
ただ、
これまで重さを抱えてきた者同士だけが作れる
静かな余裕があった。
◯
帰り際、毅がふと立ち止まる。
「無理すんなよって、言うつもりはないけどさ」
「言わないんですね」
「言ったら、逆に負担になる人もいるから」
千里は小さく頷く。
「ありがとうございます。
……また、そのうち話を聞いてください」
「呼ばれたら行くよ。
別に深刻な話じゃなくてもいいし」
二人はそれ以上何も言わず、それぞれの方向へ歩き出した。
千里は歩きながら、胸の奥にひとつ呼吸が入るのを感じる。
(……少し、軽くなったかもしれない)
風が冷たい夜だったが、
歩く速度はいつもよりわずかに柔らかかった。