うぅーん。
目を覚まし、手足を伸ばす。
ベットの堅さもシーツの肌触りも家の物とは違って、少し柔らかい。
そうか、昨日は乃恵と・・・
思い出してから照れてしまった。
自分がこんなに直情型の人間だとは思わなかった。
「おはよう」
客室の備え付けの露天風呂へと続く扉を開け、すっかり身支度の終わった乃恵が現れた。
「ぁ、ああ、おはよう」
平気な顔をして声をかける乃恵に対して、動揺している自分が面白くない。
何で俺の方が照れているんだ。
「露天風呂、とっても素敵よ」
昨晩のことは何もなかったように笑いかける乃恵が、少し大人びて見える。
24歳は十分大人だが、俺の中ではいつまでたっても子供で親友の妹。のはずだった。
それが・・・
「体、大丈夫か?」
珍しく感情に走ってしまったため、乃恵のことを気遣ってやる余裕がなかった。
さすがに乃恵の過去を詮索する気はないが、昨日の俺は優しくなかったと思う。
もしかして幻滅されているんじゃないか、そんなことを思って声をかけてしまった。
「大丈夫」
ちょっとだけ俯き返事をする乃恵。
「ごめんな」
無意識に口を出た。
***
昨日の昼閒、俺は社長の勧めでお見合いの席にいた。
以前から縁談は持ちかけられていたが、その都度『その気がないので』『今は仕事が忙しくて』と断り続けていた。
実際、20代前半の頃は仕事を覚えるのに必死で結婚なんて考えもしなかったし、ここ数年は仕事上の責任も増して時間的にも余裕がなかった。
そんな時、.
「お前もそろそろ身を固めろ」
社長が釣書と見合い写真の入った封筒を差し出した。
「いえ、俺はまだ」
結婚する気はありませんと言いたいのに、
「わしの知り合いのお嬢さんで、きっとお前の力になってくれるはずだ」
「しかし」
会ってしまえば、断れなくなるんじゃないのか?
「そう言わずに、まずは会ってみろ」
「はあ」
返事はしたものの、差し出された封筒に手を伸ばすことは躊躇われた。
社長が勧めるくらいだから、それなりの地位や財産のある家の娘だろう。
でもなあ、本当にその気がないんだが・・・
「徹」
普段会社では『香山』としか呼ばない社長に名前で呼ばれ、顔を上げた。
***
「お前、いくつになった?」
はあ?
いきなり年を聞かれ、口を開けた。
「31ですが」
そもそも、自分の息子と同い年なのは承知のはずだ。
わざわざ聞く意味がわからない。
「将来のことを考えてもいい年だな」
確かに、身を固めてもおかしくない年齢ではある。
世間一般に言う適齢期なんだとも思う。
でも、
「結婚観は人それぞれですので、人がするから右へならえで自分もしなくてはというのはおかしいと思います」
なんとかこの話題から逃げたくて抵抗してみた。
「将来のことって言うのは、結婚のことばかりじゃないぞ。どちらかというと、結婚はおまけだ」
「えっ?」
意味がわからず聞き返した。
「だから、お前もそろそろわしの元を離れる時期だなと言ったんだ」
それって、つまり、
「私を切るおつもりですか?」
衝撃のあまり、冷たい声になった。
この8年、俺は精一杯尽くしてきたつもりだ。
社長との個人的な関係に甘えることなく、常に上司と部下としての境界線を意識して仕事をしてきた。
それなりに貢献してきた自負もある。
それなのに・・・
***
「バカ、なんて顔をするんだ。お前らしくもない」
「すみません」
俺は小学生の頃に親に死なれ、1人で生きてきた。
その間社長にはとてもよくしてもらった。
厳しく大切に育ててもらった。
そのことには感謝もしているし、社長のことは人としても上司としても尊敬している。
もちろんそれは子供が親に対して抱く感情とは少し違うが、本当の意味での家族を知らない俺にとって社長は親のような存在だ。
それをいきなり・・・
「来年始める子会社を、1つお前に任そうと思う」
えっ。
「そんなに大きな会社ではないが、うちの会社からの資金が半分とお前のおやじから預かっていた金で半分。はじめはうちの会社からも人員を送るつもりだし、ノウハウも営業ルートも提供する。ただし、その先大きくするのも潰すのもお前次第だ。何しろ、お前が社長なんだからな」
「社長」
驚きのあまり言葉が続かない。
それに、今まで裏方に徹してきた俺に社長なんてできるとは思えない。
会社経営はそんなに簡単なものではないはずだ。
「今まで8年も、わしの側で経営の現場を見てきたんだ。お前ならきっとできる」
「しかし」
とてもじゃないが、『はい、わかりました』と言える状況ではない。
「まだ時間はある、慌てずゆっくり準備をすればいい。ただ、その覚悟をしておいてほしいと言っているんだ」
「ですから」
それができないと俺も言っているわけで、
「なあ徹」
仕事の場では聞くことの少ない優しい声。
***
「お前のおやじはわしの親友だった」
「知っています」
だからこそ俺をこんなに大事にしてくれていることもよく理解している。
「わしなんかより頭がよくて、優しくて、人としても良い奴だった」
どんなに良い人間でも、妻子を残して早死にしては何の意味もない。
「お前と孝太郎が生まれたときに、俺たちは約束したんだ」
「約束ですか?」
「ああ。『.会社なんて経営していれば、いつ何が起きるかわからない。もしもお互いが早死にすることがあれば子供の面倒をみよう。我が子のように育ててやろう』ってな」
だから、社長は俺を引き取ってくれたのか。
「なのにお前は頑固で、『中学を卒業したら1人で暮らす』と言いだしたときには焦ったぞ」
「すみません」
「まあ、ちゃんと大学を出てうちの会社に入ってきたんだから文句はないだろう」
これは、おやじに対しての言葉だよな。
「えっと話がそれたが、お前のおやじとの約束だ。わしはお前を経営者として育てたつもりだ。お前ならできると思っている。だから、ここを辞めて新会社へ行ってくれ。結婚もそのためだ。相手の家は資産もコネもあるから、きっとお前の力になってくれるはずだ」
やはり、そういうことか。
しかし、おやじと社長との話を聞かされては無碍に断ることはできない。
「会ってみてくれるな?」
「・・・はい」
結婚する気なんて全くないが、俺は受けるしかなかった。
***
「あの子、かわいらしい子だったわね」
テーブルいっぱいに並んだ宿の朝食を前に、乃恵はにっこりと話を振ってきた。
「あの子?」
そう言われて思い浮かぶのは、昨日のお見合い相手。
それ以外に思い浮かぶ人物はいないんだが、
「ほら、昨日のお見合い相手」
やはり。
でも、今ここでその話を持ち出すか?
どちらかというと思い出したくない話題なんだが。
「そんなこと聞いて、楽しいか?」
ムッとして話を止めた。
もちろん、いつまでも避けることができる話だとは思っていない。
しばらくしたら東京に戻って、頭を下げて回ることになるだろう。
でも、今はまだ乃恵との時間を楽しみたい。
俺は、全てを投げ出してここまで来たんだから。
「いくつだったの?」
「え?」
「彼女よ。お見合いの相手。かなり若そうだったけれど、まさか高校生ってことはないわよね?」
「大学2年」
「へえー、二十歳か。若いわね」
「ああ」
いくら避けようとしても乃恵はこの話題を止める気はないらしく、俺はしかたなく付き合うことにした。
***
「社長さんの紹介ってことは、良いところのお嬢さんなのよね、きっと」
「だな」
否定はしない。
俺の将来のためになると社長が判断した見合い相手だ。
「社長さんにも迷惑をかけたのかしら?」
乃恵の言葉に含みを感じて、俺は箸を止めた。
「何が言いたい?」
「昨日のお見合いが仕事絡みだったとしたら、社長さんや徹さんが勤める会社にも迷惑が掛かるのかなって思って」
「乃恵?」
「私ね、徹さんとここに来たことに後悔はないの。たとえ何を言われても、今の生活を失っても悔いはない。でもね、そのことで自分にとって大切な人たちが傷つくところは見たくない」
キッパリと言い切った乃恵は、真っ直ぐに俺を見た。
それは挑んでくる眼差し。
いつもは猪突猛進に周りを見ず突き進んでいくくせに、ふとしたときに的確に周囲を分析する乃恵のアンバランスさが面白い。
こういう冷静で大人な言動で迫られると、こいつは医者なんだなって気がする。
「逃げていても何の解決にもならないぞって言いたいか?」
「ええ」
そうだな。
現実逃避したところで、いつかは逃げられなくなる。
それにしても、
こいつはやっぱり、ただかわいいだけの女じゃないらしい。
***
「安心しろ。元から断るつもりの縁談だったんだ」
「徹さん?」
乃恵が驚くのも無理はない。
そんないい加減な気持ちでお見合いをすれば、相手にも失礼だと思う。
でも、
「俺は誰とも結婚するつもりなんてない。そのことは社長にも伝えてあった」
「じゃあ」
なんでお見合いなんてしたのよと言いたいんだろう。
「何でだろうな」
俺にもよくはわからない。
乃恵に会えなくなって約1ヶ月。
陣の手前連絡を取ることもできない中で、会いたい、側に行きたい思いが募っていた。
そんな矢先に見合いや起業の話が出て、珍しくうろたえた。
いつもどんなアクシデントが起きても冷静に処理する俺が、自暴自棄になってしまった。
「らしくないわね」
「だな」
何をやってもやる気が出ず、何を食べても美味しくなくて、しまいには仕事も私生活もどうでもいい気がした。
その虚無感の理由がわからないまま時間だけが過ぎ、とうとう『とにかく会うだけでいいから』と言う社長の言葉をはねのけるエネルギーもなくなった。
でも、俺は知ってしまったんだ。
昨日、ホテルで乃恵の顔を見た瞬間、自分が何を求めていたのかにはっきりと気づいた。
「乃恵、俺はお前が好きだ」
何の脈絡もなく出た言葉に、目を丸くする乃恵。
俺はそのまま乃恵を抱き寄せた。
***
たった数日前、初めて抱きしめた乃恵がもうすっかり自分の一部のように感じる。
その温もりが愛おしくて、手放したくはない。
イヤ、もう離すつもりもない。
「ねえ、そろそろ起きるわ」
絡まった俺の腕に身動きを阻まれていた野恵が、ベッドから抜け出す。
結局、ここに来て丸2日がすぎた。
土日はいいとして、月曜日を迎えた今朝はさすがに色々と考えてしまった。
今日仕事に行かなければそれは無断欠勤になるわけで、社会人としてなんだかのペナルティーを背負うことになる。
俺は見合いの席を逃げ出した時点で、それなりの覚悟をしているが、そのことに乃恵を巻き込むことが正しいのかはまだわからない。
「今日は勤務だろ?」
「ええ」
「大丈夫なのか?」
「・・・」
そんなこと聞かなくてもわかっているのに。
俺はどんな答えを求めてそんな質問をしたのか。
「体調不良でお休みの連絡だけはしたわ」
「そうか」
「徹さんは大丈夫なの?」
「大丈夫では、ないかな」
でも、覚悟はできている。
たとえどんな結果になっても、何を失っても後悔はしない。
ドサッ。
心配そうに俺の顔を覗き込んだ乃恵の腕を引いてベッドに落とした。
「ちょっと」
焦ったような声で俺を睨みつける。
でも、もう俺は止まらない。
***
10代の若造のように何度も何度も乃恵を泣かせてしまった。
恥じらいながら苦しそうに声を上げる乃恵がかわいくて、また俺を煽る。
そんな時間を繰り返しながら、夜を向かえた。
ここに来てから、携帯には手を触れていなかった。
乃恵は職場に休みの連絡をしたようだが、俺は一切の通信を絶っていた。
もう鈴森商事には戻れないかもしれないと、覚悟を決めた。
兄弟のように育った孝太郎と別れることも、力を注いできた仕事を失ってしまうことも、甘んじて受け入れる。
俺は、実の子のように大切に育ててくれた社長を裏切ったんだ。
それに、乃恵は俺といることで陣との仲を絶たれることになるかもしれない。
俺は乃恵を、乃恵が俺を選ぶために失う代償はとても大きい。
でも、
それでも俺たちは共にいたいと願ったんだ。
ガチャッ。
背を向けて眠っていた俺の後方からドアの開く音がした。
薄明かりの灯った部屋を見渡すと、さっきまで横にいた乃恵の姿がない。
部屋の隅で充電されていた携帯も今はない。
職場か、陣か、もしかして麗子か、相手はわからないが連絡を取りに行ったんだろう。
一切携帯を触らない俺に遠慮して部屋の外まで行くことはないのにな。
俺は気づかなかったことにして、もう一度目を閉じた。
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