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お湯が張られたバスルームには
ほのかに湯気が立ち込めていた。
灯りは少し落とされ
蒸気に濡れるタイルと磨き上げられた浴槽が
柔らかな光を反射する。
まるで、緊張を解いてくれる
小さな聖域のようだった。
「こちらへどうぞ、アラインさん」
時也が丁寧に扉を開けて招くと
アラインは小さく頷きながら
中へと足を踏み入れる。
彼の身体にはまだ疲労の色が残っており
その足取りもどこかゆっくりだった。
「それでは、失礼いたしますね」
時也は迷いなく手を伸ばし
アラインの洋服のボタンを
ひとつずつ外していく。
どこか儀式のような所作。
それはいつもアリアに行っている動作と同じ
敬意を込めた穏やかな所作だった。
アラインの瞳が
じっと時也の顔を見つめていた。
ふざけもせず、茶化しもせず──
ただ、静かに脱がされていくその時間が
なぜか心地よかった。
脱がされたシャツがそっと籠に置かれ
ズボンが優しく滑り落ちていく。
肌に当たる風がひやりとして
アラインは小さく身を竦めたが
何も言わなかった。
湯に身体を沈めると
柔らかな温かさが全身を包み込む。
ふう、と小さな吐息が洩れた。
そんな様子を確認すると
時也はいつものように
着物の袂から襷紐を取り出し
ゆっくりと袖を纏め始めた。
その仕草は、手慣れたものだ。
手桶、マッサージブラシ
柔らかなボディースポンジ──
必要なものがすべて整っているその空間で
準備を始める彼に
ふとアラインが声をかけた。
「⋯⋯時也、なにしてるの?」
「洗う際に
袖が濡れないように纏めるところですよ」
いつも通りの、実直な返答だった。
だが──
アラインの声が、次の瞬間、わずかに揺れた。
「違うよ⋯⋯」
小さく唇を噛んで
浴槽の中から彼を見上げる。
その目は、濡れた睫毛の奥で
まるで迷子の子供のように揺れていた。
「一緒に、入ってよ。ダメ?」
その声は、甘えるようでもあり
どこか脆くもあった。
時也の動きが、止まる。
襷紐を纏めかけたその手が宙で止まり
彼はゆっくりとアラインを見つめた。
そこには、どこか戸惑いと
そっと心に触れようとする真剣さがあった。
そして──
「⋯⋯かしこまりました。
少しだけ、お待ちください」
静かにそう答えると
時也は衣を脱ぎ始めた。
その背中を、湯の中から見つめながら
アラインはぽつりと囁いた。
「⋯⋯調子に乗っても、いいって⋯⋯
言ったのキミだから、甘えたくなったんだ」
湯気に包まれた空間に
その声がふわりと溶けていった。
そして
絹がふわりと滑る音が
浴室の静けさに柔らかく溶け込んだ。
薄布のように軽やかな着物が脱がれ
床に落ちる音もまた
そっと水面に波紋を描くような
穏やかさだった。
明かりに照らされ、時也の背が顕になる。
白磁のような肌。
そこに刻まれた一筋の影さえも
清らかに思えるほど整っていた。
アラインは、湯船に身を沈めたまま
その背をじっと見つめていた。
ほんのりと湯気に霞むその背中が
次第に朧になってゆく。
──いや、違う。
彼の目には
まるでそこに
純白の羽根が生えているように見えたのだ。
まっすぐに伸びた肩甲骨のラインから
柔らかな羽根がふわりと揺れて
光を纏っていた。
誰の目にも映らない──
けれど、確かに〝そこに在る〟ような幻影。
(⋯⋯ほんと、嫌いだな)
アラインは、心の奥で呟いた。
何故、この男は──
こんなにも、真っ直ぐに、疑うことなく
優しさを差し出せるのか。
何故、自らを省みず
与える事を〝当然〟のようにしているのか。
それが、癇に障った。
それが、羨ましかった。
それが──美しすぎて、壊したくなる。
(⋯⋯あの翼、血に染めてみたい。
ボクのこの手で。
誰にも見えない天使の羽根を
折って、千切って、地に叩き落として⋯⋯)
だが──
そんな心の声すら、時也には届かない。
なぜなら
アラインが記憶を改竄しているからだ。
彼には
アラインの内心が
〝穏やかで善意に満ちた声〟としてしか
届かないよう、書き換えられている。
この偽りのやさしさに包まれた天使は
今日も穢れを知らない。
やがて時也は
浴槽の縁に手を添えながら
静かに湯へと身を沈めた。
湯気が二人の距離をゆるやかに繋げる中
彼は微笑みながらぽつりと口を開く。
「ふふ。
誰かとお風呂に入るなんて
僕もあまり経験が無いので
何か⋯⋯新鮮ですね?」
その声音は穏やかで
どこまでも澄んでいた。
アラインを、少しも疑わず
ただ隣にいることを
当たり前のように受け入れていた。
──天使は、気付かない。
隣に座るこの者が、どれほど深く
濁った闇を抱えているかを。
そしてその闇が
どれほど強く
自分の光を求めているのかを。