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車内はエンジン音だけが低く響いていた。女が落ち着くまで、黙って待った。
震えた肩が少しずつ静まるのを見届けてから、口を開く。
「……なあ。俺のこと、どう思ってるの?」
切り出した。
これを聞かないと、始まらない。
少しの沈黙。
俯いたまま、女の唇がかすかに動く。
「……きらい」
掠れた声。震えが混じっていた。
胸の奥が一瞬、冷たい手で掴まれたみたいに潰れる。
小さく息を吸う音が聞こえた。
「……でも」
ためらい、押し殺してきたものがこぼれるように。
ぽつぽつと、途切れ途切れに言葉が落ちていく。
「……昔から、好きだった。
ある時から荒れて、何かを埋めるみたいに見た目が派手になって、
よくない噂ばかり耳に入るようになっても……
それでも、嫌いにはなれなかった」
顔を上げたその瞳と、目が合う。
涙で濡れた黒目が、逃げ場なく刺さってくる。
「だから、側で応援するしか、なかったの。
だから、抱かれたくなかった。
もう……会いたくなかったの」
――思い出す。
小さなライブハウスで、「ファンです!」と笑って声をかけてきた無垢な少女。
あどけない顔で、真っすぐな目で。
その記憶を、今目の前にいるナチュラルな装いの彼女が呼び戻す。
彼女の告白を聞いて、胸が焼けるように痛んだ。
欲しかったのは、最初からこういう言葉だったのに。
手に入れた瞬間、自分のせいで壊れてしまった。
「……ばっかじゃねぇの」
掠れた声が、震えと一緒に漏れた。
それは彼女に向けた言葉じゃない。
全部、自分に向けた呪いだった。
――欲しかったのは、愛だった。
それなのに。
自分の全てを受け入れてくれるかもしれない人を、
この手で壊してどうするんだよ。
ステアリングを握る指先が、わずかに震える。
泣き出しそうになるのを必死に堪えながら、目だけは前を見据えた。
「……家の近くまで、送る」
吐き捨てるように言った声は、自分でも驚くほど低く掠れていた。
彼女は小さく駅名を告げた。
その声があまりに静かで、胸の奥がさらにざわついた。
駅に着くまでの車内に、会話はなかった。
聞こえるのはエンジン音と、互いの呼吸だけ。
やがて停車すると、彼女はシートベルトを外し、扉に手をかけた。
「……ありがとう。……さようなら」
一瞬だけ、視線が絡む。
けれど次の瞬間には逸らされ、彼女は外へ出た。
ドアが閉まる乾いた音。
残された助手席の温もりだけが、まだそこに彼女がいたことを示していた。
ハンドルに額を押しつける。
視界が滲み、堪えていた涙が一気にこぼれ落ちた。
――欲しかったのは、愛だったのに。
結局、与えられたのは拒絶だけ。
家に帰りつくと、玄関に鍵を落としたまま靴も脱ぎ散らかし、ただ無言で洗面台へ向かう。
鏡に映ったのは――彼女に拒まれた自分の顔。
濁った瞳。
「愛される」ことを欲しがって、結局「恐れられる」だけになった男。
喉が詰まり、かすれ声が漏れる。
「……もう、いい……」
棚から黒染めのボトルを乱暴に取り出す。
安っぽい薬品の匂いが鼻を刺した。
そのままシャワーに飛び込み、泡立つ染料を無造作に髪へ擦り込む。
黒い液が指の間から滴り落ち、排水溝へ吸い込まれていく。
流れるたび、何かを消せる気がして――でも、何も変わらないことはわかっていた。
鏡の中には、黒髪になった自分がいた。
それでも目の奥は、空っぽのままだった。
「……滑稽だな」
濡れた唇から掠れ声が漏れる。
笑うことすらできず、ただそこに立ち尽くしていた。
その日以降、女からの連絡はすべて無視した。
スマホの通知が光っても、指一本動かさなかった。
酒も、やめた。
どんなに飲んでも、どんな女を抱いても――埋まらないと気づいたから。
夜、静まり返った部屋の中で、ふと昔の夜を思い出す。
グラスのぶつかる音、笑い声、強い香水と煙草の混ざった匂い。
自分もその中で笑っていた。
でも、思い出せば思い出すほど、あの騒がしさの中に本当の声はひとつもなかった気がした。
夜は眠れず、朝方に浅い眠りに落ちる。
目が覚めれば無言でPCを立ち上げ、打ち込む音だけが部屋に響いた。
それでも完成する曲は空っぽで、吐き出したはずの感情はひとつも消えなかった。
若井や涼ちゃんから届く連絡は、必要最低限だけ返す。
「了解」「大丈夫」それくらい。
誰とも会いたくなかった。
灰皿に積み上がる吸い殻。
黒髪に染めたはずの自分が、日に日に鏡の中で生気を失っていく気がした。
音楽だけが、自分を繋ぎ止める唯一の糸だった。
――けれど、その音ですら、もう何も埋めてはくれなかった。
数日が過ぎた。
気づけば、10月の下旬――ライブのリハーサルの週になっていた。
重たい体を引きずるように起こし、最低限の支度をして外へ出る。
朝晩の冷え込みが急に強くなった。
外に出ると、街路樹の葉が乾いた音を立てて足元をかすめる。
ああ、季節が変わったんだな、と他人事みたいに思った。
スタジオの扉を開けると、すでに若井と涼ちゃんがいた。
昼下がりの光がブラインドの隙間から差し込み、機材に薄く反射している。
「おはよー」
いつもの調子で2人が声をかける。
その声とほぼ同時に、俺を見て言葉を失った。
「おはよ」
短く返す。
「もとき、髪…黒くしたの?」若井が目を丸くする。
「まあ。気分で変えた」
それだけ言って、ケーブルを繋ぎギターを手に取る。
「なんか、顔色悪いよ。大丈夫?」涼ちゃんが心配そうに覗き込む。
「大丈夫。歌えるから」
自分でも驚くほど乾いた声だった。
それでも、スタジオの空気が一瞬張りつめ、
若井が無言でギターのチューニングを始め、涼ちゃんがキーボードの鍵盤に指を置く。
――埋めてはくれないけど、唯一裏切らないもの。
それが音楽。
向き合えば、必ず音は返ってくる。
それだけが、今の俺を現実に繋ぎ止めていた。
――ちゃんと出る。声も音も。
でも、心だけが空洞。