きっと、山波建設からの電話なら、辛うじて受信出来た気がするけれど、そんなことを想に言ったら「何で?」と聞かれそうで言えなかった。
「お前の携帯にも掛けてみたんだけど……。結葉、番号変えた? 久々にかけたら使われてねぇって言われてびっくりしたわ」
と想が頭を掻く。
自分がかつて使っていた携帯番号を、想がまだ登録していてくれたんだと思ったら、気に掛けてもらえているようで泣きそうに嬉しかった結葉だ。
でも、そんなの、顔に出すわけにはいかない。
「……あ、うん。ごめんね。変えたっていうか……。仕事も辞めて家にずっと居るようになったから必要ないかなって解約しちゃったの」
今現在、偉央が管理しているキッズ携帯を必要に応じて持たされている結葉だけど、そんなのは恥ずかしくて言えなかった。
「そっか。だから電話してこなかったんだな」
ふっと少し寂しそうな顔をして想が結葉を見詰めてきて。
結葉は想の表情に、ギュッと胸が締め付けられる。
「ごめんね。想ちゃん、心配してくれてたのに」
連絡出来なかった非礼を詫びて頭を下げたら、「馬鹿。――んなの俺の自己満で番号渡しただけだろ。気にすんな」って下げたままの頭にそっと触れられた。
その感触に、偉央からの暴力を思い出した結葉は、思わずビクッと身体を跳ねさせてしまう。
「あっ、スマンっ、つい」
それを、不用意に夫がある女性に触れたことへの警戒だと思ったらしい想が、慌てて手を引っ込めて謝ってきて。
結葉は、ただただ昔のように優しいだけの想に、気を遣わせて謝らせてしまう自分のことが嫌になった。
「ごめんね、想ちゃん」
想は結葉を傷つけたりしないのに、条件反射のように怯えた所を見せてしまったことがたまらなく恥ずかしくて申し訳なかった結葉だ。
「バカ。だから謝んなって。人妻相手に軽率だった俺が悪いだけだろ?」
なのにやっぱり想はどこまでも結葉に優しくて。
結葉は久しぶりに感じる他者からの優しさに、ついホロリと泣きそうになってしまう。
「あ、りがと。想ちゃん。――想ちゃんは全然変わらないね」
自分はこんなにも変わってしまったのに。
そう胸の中でつぶやきながら、一生懸命ニコッと笑ったら「なぁ結葉。俺の前では無理して笑わなくてもいいんだぞ?」って吐息を落とされた。
「え……?」
思わず想の方を見つめたら、「俺が知ってる結葉の笑顔はそんなんじゃねぇんだわ」って眉根を寄せられる。
三白眼で目つきが鋭いからどうしても怖そうに見られがちな想だけど、結葉には眼前の幼馴染みが誰よりも優しいお兄ちゃんだと分かっている。
「――想ちゃんには……やっぱり敵わない、な」
泣きそうになるのを必死で堪えながらつぶやいて。
「実は……朝からちょっと体調が良くなくて」
と嘘をついた。
「大丈夫なのか?」
結葉の嘘に、想が思わず立ち上がって結葉の方へ身を乗り出してくるのを、「平気」と制すると、結葉はゆっくりと言葉を紡いだ。
「でも……このところずっとこんなだから……。えっと……申し訳ないんだけど家のことで何かあったら、主人に……伝えて欲しいの」
ふっと視線だけで動物病院のある方を見つめると、想が小さく頷いた。
「いや、前にうちに挨拶に来てくれた時にもお前の旦那さんもそんなこと言ってただろ? だから実は今朝もさ、本当は病院の方へ連絡すっかな?って思ったんだ。けど――仕事中に家のことで連絡されんのは迷惑かなとか余計なこと思っちまって」
結葉は主婦だと聞いていたからそっちに連絡した方がいいかなと思ってしまったらしい。
「それに――」
言って、想は結葉の顔をじっと見つめてくると、「前に結葉の実家で会った時、お前の様子がおかしくてずっと気になってたからさ。ついでだし、顔見て安心しとこうかなって思っちまったんだ」と淡く微笑んだ。
「……想ちゃ……」
結葉は、今この場で想に縋り付いて「色々聞いて欲しいの」って泣くことができたなら、どんなに心が軽くなるだろう?と思ってしまった。
そんな本心を一生懸命押さえつけて、「ありがとう」とだけ伝えるに留めたら、
「――結葉。お前ホント辛そうだけどマジで大丈夫なのか?」
想は結葉が夫と上手くいっていないと知られるのが恥ずかしくてひた隠しにした苦悶の表情を目ざとく察知すると、心配そうに眉根を寄せてくる。
(想ちゃんの前でだけは〝結葉は幸せそうにしてる〟って思われたいのに……うまくいかないな)
それが結葉にはとても辛かった。
「呼び出しといてあれだけど。水道管の修理のこととかは旦那と話すから。お前は家帰って寝め。――な?」
そう言われてしまった。
結葉は想を騙して心配を掛けてしまったことに罪悪感を覚えながらも、偉央と話してくれるという想の言葉にホッとして。
「本当にごめんね」
と返すので精一杯だった。
***
「ね、想ちゃん。私、一人で上がれるよ?」
そう言ったのだけれど。
想は「部屋の前まで送らせろ」とそこだけは譲ってくれなかった。
コンシェルジュの女性たちは、澄ました顔でこちらのことは頓着していないように見えたけれど、やましい心があるからだろうか。
結葉は、ここでこれ以上押し問答をすることに抵抗を覚えてしまった。
それで、結局想に支えられるようにして、エレベーターに乗ってしまって……。
共有廊下の突き当たりにある、玄関扉の前まで送られてしまった。
今は『みしょう動物病院』は診察中の時間だから大丈夫だと分かっていても、落ち着かない気持ちでいっぱいの結葉だ。
「ありがと、想ちゃ……、もうここで大丈夫……」
ドアの前で、間近にいる想を見上げてそう言ったら「分かったから早く中入れ。それ見届けたら帰るから」って言われて。
結葉はそろそろと玄関の扉を開けて中へ入った。
そうして扉の隙間から想を振り返ったと同時、想の背後……。数メートル先を見て瞳を見開いて凍り付く。
「……い、おさ……」
どうして?という言葉は喉の奥につかえて出てこなかった――。
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