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#異世界転移
花月夜れん
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「お嬢様。朝でございます、お起きくださいませ」毎朝、決まった時間に部屋の扉をノックし、変わらぬトーンでそう声をかけるのが私の日課だ。
ベッドの中で目を覚ますと、お嬢様は時折り、微かな声で歌を口ずさむ。
その旋律は毎回、違わず同じ美しいフレーズだ。けれど、それが何の歌なのかはご本人にも分からないらしい。
ふと気になって「そのお歌はどちらで覚えられたのですか?」と問いかけてみても、お嬢様は「え……私、そんな歌を歌っていたかしら?」と不思議そうに首をかしげるばかり。
けれど、その歌を口ずさむときのお嬢様の目からは、決まって一筋の綺麗な涙がこぼれ落ちているのだった。理由も、意味も、悲しみの正体すら分からぬままに。
先日に至っては、誰も聞いたことのないような言葉を口にされていた。
「手紙は届くのにずいぶんと時間がかかるのね……。“すまほ”があれば、一瞬で連絡が取れて楽なのに」
“すまほ”――そんな奇妙な言葉、私は生まれてこの方耳にしたこともない。
お嬢様ご本人も、どこでそんな言葉を聞いたのかまったく覚えておられないという。まるで夢の中でそっと拾い集めてきた記憶のカケラを慈しむように、時折そうした不思議な言葉を呟かれるのだ。
──そして、暖炉の火や松明の炎を見るたびに、お嬢様は誰にも気づかれないほど微かに、肩を震わせる。
その小さな変化に気づける者は、この屋敷の中で私をおいて他にはいない。
あの時の、魔法の適性検査が終わった直後のお嬢様の姿は、今でも忘れることができない。検査室から出てきたお嬢様は、どこか遠くを見つめる冷ややかな瞳で、ぽつりと呟いたのだ。
『……私、火属性なんですって』
まるで自分自身を拒絶するかのような、冷たく悲しい声だった。
それ以来、お嬢様は少しずつ変わっていってしまった。
強い女性になるろうと自分を押さえ込み、決して炎が怖いと悟られないよう感情の起伏がなくなっていった。そして、何かを必死に思い出そうとするかのように、ぼんやりと虚空を見つめる時間が増えていった。笑顔も、どこか引きつっていてぎこちない。太陽のようだった、あの心からの笑顔――それを見たのは、もうずいぶんと昔のことのように思えた。
けれど、私はこの方の味方であろうと、私だけは絶対にそばにいると決めたのだ。
私は、貴族とは名ばかりの貧しい男爵家に生まれた。
家柄を繋ぐための跡取りである兄ばかりが甘やかされて期待され、出来損ないの私はいつだって存在そのものを忘れられていた。屋敷の使用人たちでさえ私をまともに扱わず、いつしか私は――自分の声の出し方すら忘れてしまっていた。
生まれ持った魔力は微々たるもので、取り柄と呼べるものなど一つとしてない。
進学させられた学園では『無口な劣等生』と蔑まれ、クラスメイトたちは私の存在を嘲笑った。
「中途半端な存在」「愛想の欠片もない人形」
投げつけられる心ない悪意にも、私はただ黙って耐えることしかできなかった。心に分厚い壁を築き、感情を殺して息を潜めることだけが、私を守る唯一の術だったのだ。
――それでも。お嬢様だけは、違った。
どこへの嫁ぎ先も見つからず、厄介払いのようにアルベール家の使用人として迎え入れられたあの日。
お嬢様は、初めてお会いした私の名前を、その愛らしい唇で優しく呼んでくださったのだ。
『アリサって言うのね。なんて綺麗で素敵な名前……!』
そう言って私の手をとると、お嬢様は手入れの行き届いた庭園へと私を案内し、一輪の可憐な花を指さした。
『見て、この花、“アリサ”っていう名前なのよ。薄青色で、あなたみたいに綺麗でしょう?』
雨上がりの光を浴びて咲く淡い青色のその花は、どこか今にも折れてしまいそうなほど儚げで、けれど凛とした芯の強い美しさを秘めていた。
こんなに美しい花に似ているだなんて――実の家族からすら言われたことのない温かい言葉だった。
『あなたはこの花みたいに……ううん、この花よりもずっと素敵ね』
お嬢様のその言葉を聞いた瞬間、私の凍りついていた心がじんわりと解けていき、気づけば自然と頬が緩んでいた。声の出し方を思い出せたのも、その時だった。
お嬢様のそばにいるだけで、冷え切っていた私の心が、不思議と温かい光で満たされていくのが分かった。
あの頃のお嬢様は、天真爛漫で、少しおてんばで。
誰よりも明るく、自由で、お嬢様が一度笑えば周りの空気までもがぱっと華やぐような、まさに太陽のような方だったのだ。
けれど今、哀しみを抱えて変わってしまったお嬢様は、それでも必死に懸命に、前を向いて生きようとされている。
(お嬢様……私、知っているんですよ)
最近、夜深くなると窓辺で誰かとこっそり愉しそうにお話しされていること。
警備の目を盗んで訪れるあの客人との時間を、お嬢様がどれほど愛おしそうに過ごされているか。久しぶりに見たお嬢様の弾けるような表情を見れば、一目瞭然だった。
あの真夜中のひそやかな時間がお嬢様にとってかけがえのない宝物であるのなら、私にそれを咎める権利などどこにもない。私の幸せは、貴方様が幸せでいてくださることなのだから。
だから、誰にも言わない。
この屋敷の誰にも、あの穏やかな時間を邪魔させはしない。
「アリサ、いつも私を支えてくれてありがとう。あなたがそばにいてくれるだけで、私は世界一の幸せ者ね」
朝の支度を終え、鏡越しに微笑むお嬢様を見て、私は胸の奥が熱くなるのを覚えた。
……ああ、本当にこのお方は。
私のような出来損ないの存在を、「いてくれるだけでいい」と肯定してくださる。
「私もでございます、お嬢様」
短く返したたった一言に、私の生涯をかけたすべての忠誠と愛着を込めた。
──それでも、時々ふと思うことがある。
もし、あの日お嬢様に出会っていなければ、私はどうなっていただろう。
誰の目にも映らず、誰とも言葉を交わすこともなく、暗闇の中でただ冷たい息を吸って吐くだけの存在だったに違いない。いいえ、すでに絶望に呑み込まれて息絶えていたかもしれない。
だからこそ、私は心から感謝している。
冷遇された過去も、身を割かれるような孤独も、拭えなかった劣等感も――すべては、お嬢様という太陽に出会うための試練だったのだと思えるから。
お嬢様が本当の意味で前を向けるようになるまで。
心からの笑顔を取り戻せるその日まで、私はどこまでも、いつまでもお供いたします。
この胸に灯った誓いだけは、神であれ誰であれ、決して奪い去ることはできないのだから。
コメント
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第29話、読ませていただきました。 アリサの視点だからこそ沁みる、静かで深い回でしたね。お嬢様が初めてアリサの名前を呼び、“アリサ”という花を指さした場面──あの温かさに、胸がぎゅっとしました。孤独を知る者同士だからこそ育める信頼ってあるんだな、と。 火属性を拒絶するようなお嬢様の呟きや、“すまほ”の謎も気になります。それでも「私だけはそばにいる」と誓うアリサの忠誠が、静かに尊い…。次が楽しみです🌷