テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ウルル
#ご本家様とは一切関係ありません
ウエハース鈴木
4,268
ここはどこだろう、とぺいんとは思った。
木々が続いている。どこまでも、どこまでも続いている。足元には枯れ葉が積もっていて、踏むたびにくぐもった音を立てた。空は見えない。木の枝が幾重にも重なって、星の光すら届かない。ただ暗いだけの場所だった。
歩いている。なぜ歩いているのか、自分でも分からなかった。止まる理由がないから歩いているわけでもない。ただ足が動いていた。動き続けていた。
(どこに行けばいいんだろ)
答えは出なかった。出るはずもなかった。あそこにはもう戻れない。それだけが確かなことで、それ以外は何も分からなかった。
記憶が断片的に浮かぶ。暗い部屋。冷たい床。遠くで話す声。自分のことを話しているのだと、そのとき初めて分かった。
——殺すしかない。
その言葉を聞いた瞬間のことは、はっきりと覚えている。頭より体が先に動いて、気づいたら走っていた。どうやって逃げたのか、どうやってここまで来たのか、それは覚えていない。ただ走った。走り続けた。
今はもう走れない。
足が重かった。いつからこんなに重かったのか。枯れ葉を踏む音だけが続いている。自分の息の音だけが続いている。それ以外は何もない。静かすぎるくらい静かな場所だった。
(もう終わりかもな)
そう思っても、不思議と怖くなかった。怖いと感じるだけの力も、もう残っていなかった。
足が止まった。
立っていられなくなって、ぺいんとはその場に崩れ落ちた。枯れ葉の上に膝をついて、両手を地面についた。冷たかった。それだけが、はっきりと分かることだった。
目を閉じた。
このまま動けなくなってもいいと思った。どうせ行く場所もない。戻る場所もない。だったらここでいい。この暗い森の中で、誰にも見つからないまま——
「ねえ」
声がした。
低くて、重くて、それでいてどこか静かな声だった。ぺいんとは顔を上げた。目の前に、誰かが立っていた。
大きかった。それが最初の印象だった。自分より遥かに大きい。暗い中でも分かるくらい、濃紺の髪をした人物が、こちらを見下ろしていた。
怖い、と思うはずだった。見知らぬ存在に声をかけられたのだから、怖いと思うのが当然だった。なのに。
「生きてる?」
その一言を聞いた瞬間、ぺいんとは泣きそうになった。なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。ただ、何かが胸の奥で緩んだ気がした。長い間、ずっと固く閉じていた何かが。
答えを返せなかった。声が出なかった。
相手は少しの間、こちらを見ていた。それから、何も言わずにぺいんとの傍にしゃがんだ。急に手を伸ばしてくることも、無理に立たせようとすることもなく、ただそこに居た。
「無理に立たなくていいよ」
静かな声だった。
どのくらいそうしていたのか、分からなかった。
ぺいんとはただ地面に手をついたまま、目の前の存在を見ていた。相手は急かさなかった。立てと言わなかった。何かを聞いてくることもなかった。ただ、傍にいた。
それが不思議だった。
「名前は」
しばらく経ってから、相手が言った。強制するような響きではなかった。答えたくなければ答えなくていい、とでも言うような、ゆるやかな問いかけだった。
ぺいんとは少し考えた。
「……え、と」
声が掠れた。いつぶりに声を出したのか、もう覚えていなかった。
「ぺいんと、です」
「ぺいんと」
相手は繰り返した。確かめるように、でも丁寧に。
「俺はらっだぁ。この森に住んでる」
この森に住んでいる。その言葉の意味を、ぺいんとはすぐには理解できなかった。人が森に住む。それは普通ではない。けれど今の自分に、普通と普通でないことを区別するだけの余裕はなかった。
「立てそう?」
らっだぁが言った。
ぺいんとは自分の手を見た。冷たい地面についたままの、小さな手。震えていた。気づかないうちに震えていた。
「……分からない、です」
正直に答えた。立てるかどうか、本当に分からなかった。
「じゃ、掴まって」
らっだぁが手を差し伸べた。大きな手だった。自分の手とは比べものにならないくらい大きな手が、目の前にあった。
ぺいんとは少し躊躇った。知らない存在の手を取ることへの、本能的な警戒があった。でも。
(怖くない)
さっきからずっとそう思っている。なぜそう思うのか、やっぱり分からない。ただ、この声を聞いていると、何かが少しだけ楽になる気がした。
おそるおそる、その手を掴んだ。
あたたかかった。
それだけで、また泣きそうになった。どうしてこんなに簡単に泣きそうになるのか、自分でも分からなかった。ただ、あたたかかった。それだけが、今この瞬間に確かなことだった。
らっだぁはゆっくりとぺいんとを立たせた。急がなかった。乱暴でもなかった。
「館があるから、今夜はそこにいる?」
「……館」
「俺が住んでるところ。他にも何人かいるけど、害はないよ」
他にも何人かいる。その言葉に、ぺいんとの肩が少し強張った。見知らぬ存在が、複数。それは怖い。怖いはずだ。
らっだぁはそれを見て取ったのか、付け加えた。
「無理に話さなくていいし、嫌なら部屋から出なくていいから」
静かな声だった。
ぺいんとは少しの間、らっだぁの顔を見た。濃紺の髪。青い瞳。真っ暗な森の中でも、その色だけははっきりと見えた。
嘘をついている、とは思わなかった。
「……はい」
小さく答えた。それだけしか言えなかった。でも、らっだぁはそれで十分だというように、静かに頷いた。
館に着いたのは、それからしばらく経ってからだった。
らっだぁの後ろをついて歩きながら、ぺいんとはただ足元を見ていた。知らない場所。知らない道。知らない気配が、遠くにいくつか感じられた。心臓が速くなった。でも、前を歩くらっだぁの背中を見ていると、少しだけ落ち着いた。
館は大きかった。
暗い中でもそれは分かった。古くて、でもしっかりとした造りの建物。らっだぁが戸を開けると、中からあたたかい空気が流れてきた。
ぺいんとは立ち止まった。
中に入ることへの、躊躇があった。ここに入ったら、もう後戻りできない気がした。そんな根拠はどこにもないのに、そう思った。
らっだぁが振り返った。
「怖い?」
正直な問いかけだった。
ぺいんとは少し考えてから、頷いた。嘘をついても仕方がないと思った。
「そっか」
らっだぁは責めなかった。当然だというように、ただそう言った。
「それでもいいよ。怖くなったら俺のところに来てね」
それだけ言って、中に入っていった。
ぺいんとはしばらく戸口に立っていた。外の暗い森と、中のあたたかい空気の境目に、ただ立っていた。
それから、ゆっくりと中に足を踏み入れた。
その日の夜は、らっだぁの部屋の隅で過ごした。
布団を勧められたが、うまく眠れなかった。目を閉じると、あの声が聞こえてくる気がした。殺すしかない、という声が。だから目を開けていた。
らっだぁは何も言わなかった。眠れないことを責めなかった。ただ同じ部屋にいた。それだけで、ぺいんとは夜を越えることができた。
朝になった。
光が差し込んできて、ぺいんとは初めてこの場所をちゃんと見た。木の壁。古い梁。窓から見える、深い緑の森。
生きている、と思った。
まだここにいる、と思った。
それが良いことなのか悪いことなのか、まだ分からなかった。でも今は、それだけで十分だった。
次の日の夕方、扉が静かにノックされた。
らっだぁではない、別の気配だった。ぺいんとは思わず身を固くした。
「入ってもいい?」
穏やかな声だった。
らっだぁが「害はない」と言っていた、他の誰かだ。ぺいんとはらっだぁの顔を見た。らっだぁは小さく頷いた。
「……どうぞ」
声が掠れた。
扉が開いた。入ってきたのは、穏やかな顔をした人物だった。手に、椀を持っていた。湯気が立っている。
「体に優しいものを作ったから、よかったら」
それだけ言って、部屋の入口近くに椀を置いた。近づいてこなかった。距離を保ったまま、ただ置いた。
「俺はレウクラウド。無理に食べなくていいからね」
言葉通り、それだけ言って出ていこうとした。
「……あの」
気づいたら声が出ていた。
レウクラウドが振り返った。
「なんで、そんなに、優しいんですか」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。でも聞かずにいられなかった。今まで、こんなふうに何も求めずに優しくされたことがなかったから。
レウクラウドは少し間を置いてから、静かに笑った。
「優しくしない理由がないから」
それだけ言って、扉を閉めた。
ぺいんとはしばらく扉を見ていた。それから、椀の方を見た。湯気がまだ立っていた。
おそるおそる、手を伸ばした。
あたたかかった。
ぺいんとは何も答えられないまま、ただその声を聞いていた。怖くない、と思った。なぜかは分からない。それでも、確かにそう思った。
コメント
2件
うわあ……このエピソード、すごく良かった……。ぺいんとの「どうせ戻る場所もない」っていう諦めと、らっだぁの「無理に立たなくていいよ」っていう距離感が、本当に優しくて泣きそうになった。手を取った時の「あたたかかった」っていう一文だけで、全部伝わってくるのがすごい。レウクラウドの「優しくしない理由がないから」も刺さった。続き、気になるなあ……🌙