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静岡県しそね町、別荘――。
思いがけない訪問者が、玄関に立っていた。
「……お母さん!」
母である吾妻恵を迎えたのは、たまたま玄関前を通ったキャプテンだった。
東京の邸宅にいるはずの母が、なぜここにいるのか。
血が冷える思いだった。
どうにか冷静な表情は保ったものの、全身の細胞が一斉に泡立つような感覚にとらわれた。
この感覚……。
ダメだ。
増える!
その瞬間、キャプテンのすぐそばに全裸の勇信が立っていた。
キャプテンとまったく同じ体勢で母のほうを見ている。
幸いなことに、目の前には壁があった。
玄関に立つ吾妻恵からは見えない、角を曲がったところだった。
新しく生まれた勇信と、キャプテンは目を合わせた。
キャプテンはすぐにこの場から離れるよう、目で合図を送った。
「何キョロキョロしてんの? ワタシが来たのが、そんなにうっとうしかった?」
「それは驚きますよ。東京にいるはずのお母さんが、こんなところにいるなんて……。いきなりどうしたんですか? 前もって連絡をくれれば、掃除くらいはしておいたのに。本当に驚いたじゃないですか」
キャプテンは言葉をつなぎながら、新しく生まれた勇信の動きを視界の端で確認した。
「ああ、それよりも、さっき言った言葉に返事しなければなりませんね。お母さんのことをうっとうしいだなんて、思うわけありません。単にあまりに驚いたので、どう反応すればいいか戸惑っていただけです」
「なにダラダラしゃべってんのよ」
「すいません」
キャプテンが時間を稼ぐ間、新しく生まれた勇信はどうにかその場から退散した。
「ところで、あの……あれあれ。ここのショッピングモールのことなんだけど」
「ビスタですか?」
「そうそれ、ビスタ。そこの工事が中止になったって聞いたから、わざわざ来たのよ。町長さんに直接会って、謝罪しなきゃなんないからね」
「どうしてお母さんが行くんですか? 言ってくれれば、ぼくが行ったのに」
「あんたは、しそね町には子どものころに少し遊びに来ただけで、別にご縁なんてないでしょ。ここはお父さんの故郷だから、私は若いころからたくさん行き来したのよ。べつに来たくはなかったけど」
恵は面倒くさそうにため息をついた。
「それで今の町長にも何度かご挨拶したから、せめて会って謝罪くらいしておかないといけないでしょ。あぁ、めんどくさいったらありゃしない」
吾妻恵は靴を脱ぎ、玄関を上がった。
家の最奥の和室では、ブルースをはじめとする他の勇信たちが業務と雑事を進めている。
奥の間のすぐ隣にあるキッチンは常にシェフが占領しているが、シェフはちょうど買い物に出かけていて不在だった。
「お母さん、お茶でもどうですか?」
「お茶じゃなくて、コーラにして。喉がイガイガするのよ。ストレスのせいよ、まったく……」
「コーラはありません。炭酸水でかまいませんか」
「ほんと、お父さんとは大違いね。あの人、コーラばっかり飲むからあんなことになったのよ、まったく。40代で糖尿病を発症したんだからね。ほんと信じられないわ」
父が糖尿病によって低血糖性脳症を発症したことを、母はいまだにぼやいている。
「……やめましょう」
キャプテンは母を居間に座らせ、冷蔵庫の前に立った。
扉を開け、冷気を顔に浴びながら、何度か深呼吸を繰り返す。
この状況……奇妙すぎる。
母さんが車も随行員もなく、なぜ単身でここへ?
車が敷地内に入れば、エンジン音で気づくはずだ。
しかし何の音もしなかった。
どうにも腑に落ちない。
少し探りを入れる必要があるかもしれない。
キャプテンは炭酸水をコップに注ぎ、居間へ持っていった。
「ちょっと待っててください。トイレに行ってきますんで」
キャプテンはそのまま、他の勇信たちがいる奥の部屋へ駆け込んだ。
「ポジティブマン。おまえが行ってくれ。くれぐれも気をつけるんだぞ」
「ああ、わかってる。ただ車も随行員もなく、なんでお母さんがひとりでここへ?」
「ちょうど俺も同じことを考えていた。話し相手をしながら、さりげなく探ってみてくれ」
キャプテンはすばやく服を脱ぎ、ポジティブマンはその服を着て居間へ出ていった。
「で、こいつはどうしたんだ……」
先ほど新たに生まれた勇信が、床に座ってブルブルと震えていた。
「怖い……怖いんだ。お母さんが怖い」
新しい勇信のその言葉に、一同は驚愕した。
「おまえ、属性を言ってみろ」
「わからない。ただ……今はとにかく、お母さんが怖くてたまらない」
母親恐怖症の誕生に、全員が同時にため息を吐き出した。
「いつお母さんがこの部屋に入ってくるかわからない。一応、みんな変装して隠れてくれ」
「キャプテンはどうする? また増えでもしたら、次こそは一巻の終わりだぞ」
「俺は窓から出て、納屋に隠れておく」
「おい……シェフは大丈夫なのか? あいつ、スマホも持たずに市場に行ってるよな。もう少しで帰ってくるんじゃないのか?」
「誰かひとり家の前で待機して、シェフの姿が見えたら、家に入らないように止めるべきか」
「おい、みんなさっさと動け。いつお母さんが入ってくるかわからないぞ」
それぞれがやるべきことを進める中、新しく生まれた勇信だけが部屋の隅で震えていた。
「おまえ、いつまで怯えてんだ」
「怖い……。どうしてこんなに心が落ち着かないんだ。近くにお母さんがいることが、この上なく怖い……」
「だったら、さっさとお母さんから遠ざかってくれ。バレたら、今の何十万倍も恐ろしいことになる」
「……キャプテンが抱いた一瞬の感情が、まさかこれほど色濃く反映されるとはな。不憫だな、母親恐怖症よ」
そのとき、スマートフォン越しに吾妻恵の声が入ってきた。
『でも、勇信。あんた……』
「ヒイイッ!」
「おい、黙れ!」
複数の勇信の手が、同時に母親恐怖症の口を塞いだ。
『あんた、今朝会社に行ったんじゃなかったの?』
『あ、はい。出勤してすぐにビスタの件で処理すべきことがあったので、急いでこちらに来ました』
『なら本当に不思議だね』
『何がでしょうか?』
『だったら、さっき会社で会った吾妻勇信常務は誰?』
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