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「さっき会社で会った吾妻勇信常務は誰なの?」
母・吾妻恵が言った。
――さっき会社で会った常務?
キャプテンをはじめとする全勇信が凍りついた。
全員が目と口を大きく開けたまま、床に置かれた携帯電話を凝視していた。
呼吸も忘れるほどの静寂が流れた。
電話の中のポジティブマンの声もとまっている。
「……何を言ってるのか、よくわかりません、お母さん」
ポジティブマンの震える声が携帯電話を通じて聞こえてくる。
「吾妻グループの常務に会って、その足でしそね町にきたところ、吾妻グループの常務が出迎えてくれたわ」
吾妻恵の声も戸惑いがにじみ出ていた。
「それは……ぼくが先に到着したからでしょ」
「今朝出勤して、すぐにこっちにきたんじゃないの?」
……あ。
再び携帯電話から音が消えた。
「きっとお母さんが何かを勘違いをしているんです。ぼくは急な案件があってこっちにきましたし、今たまたま別荘に立ち寄っただけです」
子どもの嘘ほどに支離滅裂だった。
「そう焦んなくてもいいのよ。別に我が息子を尋問するためにきたわけじゃないんだから」
「じゃ本当に町長への挨拶にきたんですか?」
「今からワタシが言うこと、耳をかっぽじってよく聞くのよ」
2つのグラスがテーブルに置かれる音が鳴った。
「ワタシは今日、ひとつはっきりさせるためにここにきた。だから車を家から離れた場所に停めて、静かに中に入ってきたわ。そしたらまさか、勘が当たってたなんてね……」
はぁ、と吾妻恵は大きなため息をついた。
「我が息子、耳をかっぽじってよく聞きなさい。これからあなたのお父さんの言葉を、ひとつ教えてあげるから」
「お父さんの言葉ですか?」
「そう、あなたのお父さんが残した言葉」
「……はい」
ポジティブマンの震える声が、電話越しにも伝わった。
「息子よ、人生最高の危機に瀕したときには私の書斎を訪れよ。そこに答えがあるだろう」
「書斎」
「それ以上はワタシも知らないわ。んなことより、炭酸水をもう一杯くれる? 喉がイガイガして仕方ないのよ」
「……はい」。
ポジティブマンは立ちあがり、冷蔵庫から炭酸水をもう一本もってきた。
「たくさんあるわね、炭酸水」
「……そ、それは」
「いいのよ、べつに。ワタシはあんたが置かれた状況を、理解した。
だからこれ以上はもう何も言わない。それがお父さんの望むことだから」
吾妻恵はゴクゴクと喉を鳴らしながら、炭酸水を飲んだ。
「お母さん。正直お母さんが何を言ってるかわかりませんが、思っていることをすべてを話してください。でないと、書斎に行く意味なんてありませんよ。ぼくはこのように、肯定的に過ごしているのですから」
「しらばっくれたいの?」
「ただの本心です」
「ダメ。いえ、お願いって言うべきね。これ以上ワタシはしゃべりたくないし、何も知らない。
もうワタシに何も聞かないでちょうだい。ただでさえ頭がおかしくなりそうなんだから! このままじゃ勇太のときみたいに、ベッドと点滴が友だちになってしまうわ。あんなのもうたくさん」
「お母さん、ぼくの言ってることを肯定的にとらえて、どうかお願いします」
「イヤよ。こっちこそお願いしたいわ。ワタシは何も知らない。
さっさと東京に戻って書斎でも探ってちょうだい」
吾妻恵はその言葉を残して立ちあがった。
「お母さん、どこへ?」
ポジティブマンは無意識に奥の部屋の方向に目をやった。
「もう行くから。これ以上ここにいるのが恐ろしい……。ただ行く前に、炭酸水をもう一杯だけもらえる?」
*
母が去った居間で、すべての勇信による緊急会議が開かれた。
「整理するなら……。お母さんはすべてを知ってここにきたってことだな?」
席に集まった勇信たちが同時にうなずいた。
「家族にバレずに生きるということ自体が、そもそも傲慢な考えだったようだ」
この上なく陰うつな空気が居間には流れた。
「起きたことを後悔しても何も変わらない。みんなもうなだれてばかりいないで、もっと前向きに立ち向かう姿勢をもとう」
ポジティブマンの言葉に誰も答えなかった。
それは当然の反応であろう。
もしも他人に増殖が露呈すれば、その結末には悲劇しか待っていない。
すべての勇信が想像する終幕の場面。
政府の管理下に置かれ、人体実験に使われる悲惨な未来。
国家によって捕らえられた勇信たちは、監獄のような地下室に閉じ込められ、24時間徹底した監視と管理を受けて生きていく。
増殖の母体であるキャプテンは別室に監禁される。
彼の体は、見たこともない機械によってがんじがらめにされ、数十種類の管が全身とつながっていて、データは逐一科学者に送られる。
研究結果はまずは軍事分野に取り入れられるだろう。
医療や福祉などは後回しとされ、まずは量産型の人間兵器を作るための実験体となるのがオチだ。
再び地上に戻ろうなどと思えない完全な監視体制。
第一級機密人間となった吾妻勇信は、この国最高の価値をもつ裏の国宝となるのだ。
価値があるからこそ、その存在は社会から抹消される。
事故による死亡のニュースが流され、個人データは抹消される。
つまり公的に死亡したため、人権もなくなるのだ。
ただ国家の欲求を満たす道具としてのみ、勇信は利用される。
死ぬこともできず、生きているとも言えない完全な統制下で、寿命が尽きるのを待つしかない。
すべての勇信が最も恐れる事態だった。
「で、東京には誰を送るべきだと思う? ジョーがいいかな?」
あまのじゃくが言った。ジョーだけは行かせたくないという意味だろう。
独断で行った秋山建設の一件で、ジョーの信用はすでに地に落ちていた。
「まずは焦らずゆっくりと考えよう。シナリオを修正し、十分な準備をしてから動かなければならない。なにせ先日の菊田星花しかり、そこに母さんまでもが加わったのだから」
「まさかお母さんにバレるなんて想像もしてなかったな」
「お母さんでよかったと考えるしかないだろう」
「そうだな。お母さんでよかった……」
5人の勇信が同時につぶやいた。
「怖い……お母さんが怖い」
部屋の隅で母親恐怖症がまだ震えていた。