「──婚約破棄いたしますわ!!」
ひどく感情的な金切り声が、エデルブルク王宮殿の広大な庭園に響き渡った。
生け垣の剪定をしていた新人庭師が驚き、声のしたほうを振り返る。
かたわらで手伝いをしていた私もつられて、噴水のある庭園の中央へ視線を投げた。
噴水の近くにいらっしゃるのは、ジークフリート殿下と、その婚約者である公爵令嬢のユリア様だ。
数刻前まではおふたりとも、なごやかな雰囲気で散歩されていたはず。
なのになにが引き金となったのか、現在、明らかな修羅場と化している。
「もう我慢の限界です! 貴方のような血も涙もない人でなしと結婚なんて、そんな生き地獄、耐えられませんわ……!」
……本当に、なにがあったのか。
すっごい言われようだ。
しかしユリア様が激昂しても、ジークフリート殿下はただ彼女に冷ややかな目をくれるだけで、申し開くそぶりはない。
「婚約を破棄したいのなら、君のお父上と国王に相談すればいい。彼らなら泣いて情に訴えるだけで聞き入れてくれるはずだ。ああでも、間違っても王妃には口を滑らせないほうがいい。上手いように丸め込まれて、君の言う生き地獄を見る羽目になる」
むしろ、自分との婚約破棄を円滑に進められるよう、とても丁寧に助言していらっしゃる。
なぜ。
そんなジークフリート殿下の顔色ひとつ変えない態度に、ユリア様は目を見開いた。
ドレスの裾を握りしめる手をわなわなと震わせる。
「このわたくしを……どこまでも虚仮になさるのね」
地を這うような、強い怒りのこもった声だった。
「絶対に許しませんわ……。ジークフリート殿下、貴方は必ず報いを受けることでしょう。後悔しても知りませんわ!!」
ジークフリート殿下を睨みつけ、憎悪に満ちた呪詛を吐き出したユリア様は、踵を返してひとり庭園を去っていく。
仕事を放棄してその一連をしっかり盗み見した私と新人庭師は、ふたり揃って絶句していた。
とんでもない場面を目撃してしまった。
「見なかったことにしましょう」
「そ……そうですね」
私の言葉に新人庭師は戸惑いつつ頷き、仕事を再開した。
エデルブルクの王室に仕える使用人たるもの、どんなスキャンダルを目の当たりにしようと無に徹するものだ。
とはいえ、それはあくまで職務中の話。
きっと日が落ちる頃には、使用人たちの間で噂が出回っていることだろう。
噂の出処は隣の新人庭師かもしれないし、別の目撃者かもしれない。
少なくとも、私ではない。
なぜなら私には、そんなスクープを話すような親しい間柄の相手が、ひとりもいない。
だから、だろうか。
陰ながら、密かなシンパシーを感じていたのだ。
国王陛下の第一子でありながら、母親が平民であったために王室の中で孤立しており、「王室の恥さらし」なんて不名誉な蔑称すら持つ、ジークフリート殿下に。
ちらりとふたたび噴水のほうを盗み見た。
王宮殿へ引き返すジークフリート殿下は、遠目からでも息を呑むほど見目麗しく、そして他者を寄せつけない冷えた空気を凛と纏っている。
そして。
その形のいい唇に、ほんのわずかな──笑みを湛えた。
「…………」
思わず固まった。
婚約破棄を言い渡され糾弾された直後に、なぜ、笑えるんだろう。
まるで、この事態を望んでいたかのような……なんて邪推が、頭に浮かんだときだった。
笑みを消したジークフリート殿下と、目が合った。
しかし、軽くお辞儀するようにしてすぐにこちらから逸らし、仕事に戻った。
一介の使用人が、崇高なる王室と用件もなく目を合わせるなど許されない。
それはジークフリート殿下が半分平民の血を引いている事実があったとしても、変わらない。
◆
「正直、ラインハルト殿下よりも、ジークフリート殿下のほうが次期国王に相応しい風格をお持ちだと思わない?」
王妃殿下のお耳に入れば、ただちに折檻部屋行きだろうな。
と、窓を拭きながら思った。
廊下の窓辺にもたれかかり、豪胆にも恐れ知らずな発言をしたのは、今月入ったばかりの行儀見習いのフィオナ嬢だ。
たしか、どこかの子爵家の三女で14歳だったか。
「ラインハルト殿下はとっても紳士で社交的だけれど、お身体が弱いせいか威厳を感じられないのよね〜」
「あはは……」
ちなみに、フィオナ嬢が話している相手はもちろん私ではなく、彼女と同い年の使用人だ。
床拭きに勤しみつつ、曖昧に笑い相づちを打っている。
フィオナ嬢の言うラインハルト殿下とは、ジークフリート殿下のひとつ年下の弟君だ。
ただし王妃殿下の実子のため、王位継承権は第一位。
このエデルブルク王国のれっきとした王太子殿下だ。
つまり──彼女の発言は次期国王への侮辱であり、不敬罪にあたる。
「その点、ジークフリート殿下は国王陛下のように威風堂々たる佇まいで──」
この場の年長者は私だから注意すべきなのだろうが、平民の使用人の言葉に聞く耳を持ってくれないことは、ここ数日で思い知らされている。
なにか、勤務態度を改めてくれるようなきっかけがあればいいが──と思った、矢先。
「聞き間違いかしら?」
場の空気が、凍った。
即座に窓を拭く手を止め、向き直って礼をする。
絶妙なタイミングで侍女を従え通りかかった王妃殿下は、フィオナ嬢をきつく睥睨した。
「あ、あ、王妃殿下……」
「あの王室の恥さらしが、王太子たるラインハルトに次期国王として勝るですって?」
ああ、これは……。
思ったよりも早く、彼女はお灸をすえられることになりそうだ。
顔面蒼白で震えあがるフィオナ嬢に、王妃殿下がにじり寄る。
これから折檻部屋へ連行されるのだろう、とのんきに考えていた私は、息を呑んだ。
王妃殿下はフィオナ嬢の胸ぐらを乱暴に掴み上げ、あろうことかそのまま、開いた窓から彼女を突き落とそうとしたのだ。
「お前はデボラ子爵家の三女ね。行儀見習いに迎えてやった恩を仇で返す冒涜、看過できないわ。家門を取り潰されるか、ここから身を投げるか、いますぐ選びなさい」
ここは3階だ。
確実に、無事じゃ済まない。
「恐れ入りますが、王妃殿下」
迷う間もなく、すぐさま声を上げた。
王妃殿下が血走った眼で私を見据える。
「この真下には、王妃殿下のお好きなポピーの花壇がございます。ここから彼女が落ちれば、せっかくの景観が損なわれてしまうでしょう」
言葉どおり臨死体験をしているのだ。
もうじゅうぶん、お灸はすえられただろう。
「この場の責は年長者であるわたくしめにございます」
「つまり、お前の不始末ということね」
「はい。たいへん申し訳ございません」
王妃殿下は目を細め、フィオナ嬢を解放した。
そして代わりにこちらへ詰め寄り、私の左頬にバシッと重い平手を喰らわせる。
「それで? お前は今後どうするの」
「王妃殿下のお手を煩わせるまでもなく、フィオナにはきつく仕置きをいたします。どうかご寛恕くださいませ」
「ふん。……手を冷やすものを」
幸いにも、一発で気が済んだらしい。
王妃殿下は鼻を鳴らし、侍女に命じてその場を去った。
「……誰が私にきつく仕置きするですって?」
ぶたれた頬の熱を感じていると、憤慨したフィオナ嬢が私を睨んできた。
つい先程まで真っ青だった顔色は、いまは怒りと、おそらく羞恥で真っ赤に染まっている。
「あれは場を収めるための言葉のあやです」
「口答えするなっ! あげく子爵令嬢である私の名を呼び捨てるとは……。身のほどを知りなさい、下賤な平民ごときが!!」
感情任せに叫ぶやいなや、フィオナ嬢が足元にあった桶を引っ掴む。
次の瞬間にはバシャッと、汚れた水を頭から勢いよく浴びた。
ぽたぽたと前髪から水滴が滴り、思わず顔を顰めてフィオナ嬢を見る。
「魔女みたいなその陰湿な目……! 気持ち悪いったらありゃしないわ!!」
肩を怒らせたフィオナ嬢は痛罵を飛ばしつつ、踵を返し歩いて行った。
王妃殿下に当たれないから、私に当たったのだろう。
踏んだり蹴ったりだ。
庇うべきではなかっただろうか、と後悔しそうになるが、次あのような場面に出くわせば、どうせ私は見過ごせずまた声を上げてしまう。
行儀見習いの彼女は無給に等しいのだから、これも給金のうちに含まれていると思ってやり過ごすしかない。
理不尽さえ耐え凌げれば、王宮殿での勤務は、平民の稼ぎにしてはかなりの高報酬だ。
私には、遂げたい目的がある。
そのためにいまは、お金が要るのだ。
◆
王宮殿に住まう王侯貴族も使用人も、寝静まった深夜。
ランタンと数冊の厚い本を抱え、図書館に入った。
日中は司書が常駐し、勤務時間外は厳重に戸締まりされているが、週末この夜だけは開放されている。
なぜなら毎週この夜は、ジークフリート殿下が過ごされているからだ。
側近もつけずおひとりで、いつも窓辺に腰かけ、月の柔らかな光を浴びながら読書なさっている。
何年か前、ある方にこの時間を教えられ図書館を訪れたが、先客に気づいたときは本当に面食らった。
『ジークフリート殿下がいらっしゃるとは。たいへん失礼いたしました』
『行儀見習いが迷い込んだか?』
『いえ。雇っていただいている使用人でございます』
『字が読めるのか』
『はい』
馬鹿にされたのではない、はずだ。
なぜなら平民の若い娘は、まずほとんど文字の読み書きができない。
生涯で識字の必要がないためだ。
『すぐに退室いたします』
『構わん。いまは私もただの本の虫だ。好きに過ごせばよい』
ジークフリート殿下がそうお目零しをくださって以来、毎週この夜のみ、私は崇高なる王室の方と読書時間を共有してしまっている。
ただし、もちろん会話など無に等しい。
「──お前」
だから、驚いた。
この夜、凪いだ声が、広く静かな館内に零れ落ちたことに。
顔を上げると、ジークフリート殿下の涼やかな瞳はまっすぐこちらを捉えている。
「はい」
「どこの女中だ? いつも至る場所で見かけるが」
「特定の持ち場はございません。どんな仕事でもお引き受けする雑役女中のようなものです」
「この広い王宮殿で? 重宝されるだろう」
「そうでも、ありません。同僚からは魔女と疎まれております」
深紅の瞳と漆黒の髪が禍々しく陰気だと、何度罵られたことか。
無論、私の愛想のなさすぎる態度も要因のひとつだろうが。
ジークフリート殿下はきょとんとしたあと、目を閉じてフッと息をつくようにほほ笑んだ。
意識を奪われるほど、麗しい微笑だった。
「魔女と呼ばれるからには、さぞ聡明なのだろう」
「……10年ほどこの王宮殿に勤めておりますが、一度も折檻部屋へ入れられたことがない程度には、利口かもしれません」
「いまいくつだ」
「19でございます」
「なぜずっとこの王宮殿に勤め続ける? 婚期を逃すぞ」
すでに逃している、という事実は口にされなかった。
まさか使用人相手に気を遣ったのだろうか。
「結婚は、するつもりはございません。私にはやりたいことがありますので」
「なんだ?」
「本物の魔女を、捜すのです」
ジークフリート殿下はほう、と続きを促すように手元の本を閉じた。
関心を寄せられたので、私は昔話でも語り聞かせるように続ける。
「──その魔女は名を馳せた稀代の魔術師で、幼い娘を実験台に、あらゆる上級魔術を施しました。おかげで娘は人間離れした、呪われの身体と成り果てました。しかしある夜、魔女はなぜか突然娘をひとり残して消息を絶ったのです」
いまでも、憶えている。
真夜中、寝ぼけた私の頬を撫で、彼女が囁いた言葉。
──『さよなら、愛しているわ。私の唯一の宝物』
「それから10年以上、ここで働かせていただきながら魔女に関する情報を集めていますが、いまだ見つけられていません。お金がじゅうぶん貯まったら、彼女を捜す旅に出たいのです」
「捜しだせたら、どうするのだ?」
「そうですね。恨み言のひとつでも、吐いてやりましょうか」
私の返答に、ジークフリート殿下はおかしそうに喉の奥でくつくつと笑った。
そして手元の本を閉じたまま、優雅に立ち上がる。
「久しぶりに退屈しない夜だった。お前、名はなんという」
「シルヴィア、と申します」
「憶えておこう。いつか母親が見つかることを祈る。──おやすみ、シルヴィア」
血も涙もない人でなしだとか、王室の恥さらしだとか。
これまで耳にしてきた手厳しい評価とは、ずいぶんと乖離のある表情だった。
去り際、使用人相手にこんなに優しく笑いかけてくれる方だなんて、いままで知らなかった。
知れてよかった、と思う。
そんな穏やかな夜から、数日後のことだった。
ジークフリート殿下は、病死した。
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