テラーノベル
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雨は三日三晩降り続き、世界を薄暗い膜で覆い尽くしていた。
窓硝子を叩く不規則な打音だけが、家の中に充満する沈黙を辛うじて掻き乱している。温泉旅行の記憶は、この執拗な湿り気の中に溶け、どこか遠い前世の出来事のようにすら感じられた。
家の中には、奇妙な緊張感と、それとは裏腹な家庭的な空気が漂い始めていた。茶々が来てからというもの、彼女は驚くほど働き者だった。掃除、洗濯、食器洗い。それらは彼女にとって、この「楽園」に留まるための通行料のようなものなのだろう。彼女は常に白と黒の顔色を窺い、俺の視線が自分に向くと、嬉しさと恐怖が混ざったような複雑な表情で耳を深く伏せた。
しかし、その懸命すぎる献身が、白の心に溜まっていた言葉にできない気持ちを静かに掻き乱していた。
ある日の午後、事件はリビングで起きた。
茶々がいつものように、俺の膝にかけていたブランケットを整えようとしたときのことだ。その指先が、偶然にも俺の足に触れた。
「あ……ご、ごめんなさい……!」
茶々が慌てて手を引いた瞬間、隣で雑誌を読んでいた白が、乾いた音を立ててそれを閉じた。白の瞳は、数日間抑え込んできた不快感を隠そうともせず、鋭く茶々を射抜く。
「……ねぇ。あんた、いつまでここにいるつもり?」
白の声は、静かだが重かった。茶々はビクッと肩を震わせ、持っていたブランケットを握りしめる。
「白、やめなさい。外はまだ雨だ」
「ご主人様は黙ってて。アタシ、この子の『計算』が鼻につくのよ。捨てられたふりして、怯えてるふりして、そうやってご主人様の気を引いて……。あんた、自分が何をしてるかわかってるの?」
白は立ち上がり、茶々に一歩詰め寄った。白にとって、この家は自分がようやく手に入れた唯一の聖域だ。それを、どこから来たかもわからない茶色い猫娘に侵食されることは、何よりも耐え難い侵略だった。
「ご、ごめんなさい……アタシ、そんなつもりじゃ……」
「謝れば済むと思ってんの!? あんたのその卑屈な態度が、余計にご主人様を甘やかさせてるのよ!アタシたちの邪魔をしないで!」
白のピンクの鈴が、激しい感情に合わせて乱暴に鳴り響く。茶々は涙を浮かべ、逃げ場を失った小動物のように床に崩れ落ちた。白の怒りは、単なる嫉妬ではなく、守るべき場所が奪われることへの根源的な恐怖に近いものだった。
その激しい衝突を、黒は少し離れた場所から無言で見つめていた。
彼女は白を止めることも、茶々を庇うこともしなかった。ただ、冷徹なまでの観察眼で、茶々という個体を見極めようとしていた。彼女は知っている。施設から逃げ出した者が、単なる善意だけでここまで必死に振る舞えるはずがないということを。
白が頭を冷やすために自分の部屋へ閉じこもり、茶々が泣き疲れてキッチンでうずくまっていた時、黒は静かに動き出した。彼女が向かったのは、茶々が寝床にしているソファの隙間だった。
黒は、茶々が大切そうに、誰にも見られないように抱えていた古びた布包みを取り出した。
それは、施設で支給された粗末な端切れを繋ぎ合わせたような、貧相な袋だった。中には、何かの破片や、使い古された小さな金属片がいくつか入っていた。
しかし、その中の一つに、黒の目が鋭く留まった。
それは、施設で「欠陥個体」の神経系を強制的に安定させるための特殊な薬瓶だった。
「⋯⋯ん。⋯⋯これ、⋯⋯何」
背後からかけられた黒の声に、茶々が弾かれたように振り返る。
「あ、あぁっ……! それは、返して……! アタシの、大事な……」
茶々は必死に黒の腕に縋り付こうとしたが、黒は軽やかにそれをかわし、不安そうな視線を茶々に向けた。
「⋯⋯茶々。⋯⋯これ、⋯⋯空。⋯⋯もう、ないの?」
リビングに戻ってきた俺が見たのは、立ち尽くす黒と、床に伏して嗚咽を漏らす茶々の姿だった。
黒は俺に、手のひらの上の小さな瓶を見せた。ラベルには施設独自の識別番号が記されているが、中身は一錠も残っていない。
「……どういうことだ、茶々」
俺の低い声に、茶々は顔を上げることができなかった。
「アタシ……『失敗作』なの。施設で、神経をうまく繋いでもらえなかったから……その薬がないと、全身が焼けるみたいに痛くなって……息ができなくなって……。もう、なくなっちゃったの。あと少しで、アタシ……壊れちゃう……」
彼女は、施設が作り出した不完全な命だった。その瓶の中身が切れることは、彼女にとって逃れられない激痛と死へのカウントダウンを意味していた。茶々が必死に働いていたのは、いつか来るその瞬間に、せめて誰かの温もりの中にいたいという、悲しい足掻きに過ぎなかったのだ。
二階の扉が開き、白がゆっくりと階段を下りてくる。彼女は階下で交わされていた告白を、すべて聞いていたようだった。階段を降りる足取りは重く、その手には先ほどまでの怒りの色は消えていた。
「……なんだ。あんたも、結局はアタシたちと同じなのね」
白の声から、刺々しい棘が抜けていた。代わりにそこにあるのは、諦念に似た静かな響きだ。白は茶々の前に歩み寄ると、その震える肩を冷ややかに、けれど突き放さずに見下ろした。
「失敗作なんて、嫌な言葉。施設にいた頃を思い出すわ……。ご主人様、この子を置いておくのは、アタシたちの空気が壊れそうで怖かったの。でも……それ以上に、こんな壊れかけを放り出して、後味の悪い思いをするのはもっと嫌よ」
白はため息をつき、俺の顔をじっと見つめた。彼女の瞳には、かつての自分たちを救ってくれた俺への信頼と、それゆえに生じる複雑な独占欲が入り混じっている。
「……どうにかできるの? ご主人様。放っておいたらこの子、本当に壊れちゃうんでしょ。アタシ、そんなの見せられるの、絶対に我慢できないわ。アタシたちの家で、勝手に壊れるなんて許さないんだから」
止まない雨のなか、家の空気は新たな局面を迎えていた。
茶々の命の灯火が揺れ、白の複雑な譲歩が生まれ、黒は静かにその結末を見据えている。崩れかけていた小さな共同生活は、一匹の猫の命の危機を前に、歪なまま、けれど強固に再び繋がり直そうとしていた。
雨音は、四人の鼓動をかき消すように、さらに激しく窓を叩いた。
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