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夕日は随分と傾いてはいたが、やはり海の近くとあって朱音の待つ加茂交差点はまだ明るかった。遠くの高速道路、その向こうには気味の悪いくらいの真っ赤な夕焼けが広がっていた。
牛丼でも食べて店内で待って居ろと告げたのに、既に牛丼を食べ終えたのか、とても牛丼を食べる気分ではなかったのか彼女は駐車場の車止めに赤いワンピースをひらひらとさせて座っていた。ウインカーを右に下ろし対向車を何台か見送りハンドルを切った。少し慌てていた様で縁石に乗り上げてしまいガタンと振動が腰に伝わった。
(やべー、バンパーやってねぇかな)
車を降りグルリと確認するが大した事はなさそうだ、助かった。朱音が心配そうに立ち上がり一緒にバンパーを見回す。
「車、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫、何ともねぇよ」
ノースリーブの肩に手を掛ける。
「おい、えらい冷たいじゃねぇか、待っただろ?中に居れば良かったのに」
「今日はお仕事お休みだから・・・・・お金もチケットも無いの」
「あ、あぁ・・・・そうか」
何となく薄々は感じていた。朱音は現金もクレジットカードも何なら財布も持っていない。その日稼いだ金をタクシー代と《《何か》》に使い一文無しのその日暮らしだ。その事を考えると、乗車料金が徴収出来ない事は想定の範囲内だった。
「いいよ。乗って」
「うん」
普段と同じく、後部座席のドアを開けると朱音は嬉しそうに乗り込んだ。いつだったかこうしてエスコートしていると、
「西村さん、ありがとう。何だかお姫さまになったみたい。」
などと夢見心地な表情で話していた。
自分としては業務の一環として当然の事をしているだけで、朱音以外の乗客たちは皆エスコートされる事が当然だと言わんばかりの顔をしてふんぞり返り座席に座っている。なので朱音の純粋に喜ぶ姿は新鮮でもあり正直嬉しかった。
「で、今日はどうしたの」
「うん」
「・・・・俺に話したく無い?」
「ううん」
すると朱音は黙り込み、久方振りに水の膜の中に閉じこもってしまった。シフトレバーをドライブにしウィンカーを左に上げ、もう一度テールランプの流れに乗った。バックミラーに映るのは海に沈みゆく夕日を眺めるカラーコンタクトの碧眼の目。透き通った猫の目のようだと思い少し見惚れてしまった。
「西村さん、メーター回さないの?」
「今日は良いよ、奢るよ」
「ありがとう」
「またいつか倍にして返して」
「それ、奢るって言わない」
朱音はふっと息を吐くように弱々しく笑ったが、やはりいつもとは少し違う雰囲気で少し心配になった。
ただ、朱音の事を気に掛けつつももう一つ気掛かりな事がある。料金メーターの事だ。料金メーターを回さずに乗客を乗せる事は重大な違反となる。万が一事故を起こした時の朱音への補償も無い。やはり”手取川大橋”を渡った所で料金メーターを回し、金沢市までへの乗車料金は俺が自腹を切るしか無い。売り上げになるどころか13,000円の大損だ。
それでも何故か不思議と腹が立たなかった。いつの間にか《《定期便》》を繰り返すうちに朱音が自分に心を許したように、自分もまた朱音に心を許していた。いや、許す、許すとはどういう意味だ?
「あ、手取川大橋」
朱音は1日おきに通るこの橋を1日おきに口にする。それはまるで横断歩道を渡る時に右、左、右と安全確認をしている小学生の様にも見えた。
「そうだよ、手取川大橋。今夜はこの上の川北大橋で花火大会が有るからどの道も混んでる。少し遅くなるけど良いか?」
「うん、西村さんとなら一緒に居たい」
ドキッと鼓動が昂るのを感じた。
「花火良いなぁ。いつもお仕事で見られないから・・・見たいなぁ」
「金沢でもやってるよ。見る?」
「良いの!?見たい!」
朱音の水の膜が弾けて消えた。
幼い子供のような無邪気な笑顔に惹き込まれる。これまで智や洸と見ていた花火をこれから朱音と暗い河川敷で眺める、少しばかりの期待と背徳感、そしてあわよくばの下心。
西村の中で朱音は既に売り上げだけの存在では無くなっていた。1日置きに会う事が当然の様に訪れる日常、危うい面を併せ持つ可愛らしい|金魚《朱音》。
”手取川大橋”を渡りタクシーの料金メーターを回そうとしたその時、朱音は金魚のような赤い小さな口で西村に話し掛けた。
「西村さん、私を40万円で買ってくれませんか?」
突然の事で思わずブレーキを踏みそうになった。後続のRV車にパッシングされる。国道8号線での玉突き事故、深夜に車内で首を締められるよりもタチが悪い冗談だ。危なかった。
「・・・ど、どういう意味だよ」
「そのままの意味です。40万円で買って下さい」
「悪い冗談よしてよ」
「冗談じゃないです。私を40万円で買って下さい」
頭の奥がジンジンした。やましい気持ちを見透かされた様で、掌に汗が滲む。
「40万円で買うって・・・俺と・・・寝るって事?」
一瞬の間。
2人の姿を対向車線のハロゲンライトが明るく照らし影になって消えた。
「はい。私を40万円で買って下さい」
「本番ありのデリヘル嬢ってか?お前、幾つだよ、聞いてねぇぞ」
「19歳です。もうすぐ、9月で20歳になります」
「おいおいおいおい、マジか。未成年じゃん、なんとか違反になるんじゃねーの、逮捕とか勘弁してよ」
朱音は赤いワンピースのポケットから赤い携帯電話を取り出すと何かを検索し、とある法律事務所のホームページの内容をつらつらと読み上げ始めた。
「未成年との性行為は18歳以上で合意があれば基本的に犯罪にはなりません。って書いてあります」
喉仏がごくりと鳴る。
「俺は良いけど、朱音、合意じゃないだろ」
「・・・・・合意です」
(マジかよ)
何とか断りたい西村と、そうではない西村がせめぎ合っていた。
「・・・・そりゃありがとさん」
「はい」
「ちょっと聞いていいか?」
「はい」
「仕事で何かあったんだろ?いきなり40万円はねぇし、自分を買えって言い出すとか・・・・どう考えてもおかしいだろ」
交差点、赤信号で一番先頭で停車する。ジリジリとした雰囲気が車内に充満し息が詰まりそうだった。
「ユーユーランドが潰れるんです。借金があと40万円も残ってて」
「19歳で40万円とか、お前、何に使ったんだよ。ホスト遊びか?」
「違います」
朱音が甘い飴の匂いを連れて運転席のシートを乗り越え、俺の横顔に告白した。
「父親に《《売られた》》んです」
青信号に変わったが西村は足をブレーキから上げることが出来ず、今度は後続のRV車に激しくクラクションを鳴らされ我に返った。19歳の女の子から40万円で自分を買ってくれと言われ、その理由が父親に売られた。到底理解出来る内容では無かった。
西村はウィンカーを左に出し、国道8号線から外れた”手取川”沿いの細い土手道に降りた。