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126
空の色は、茜色から夜の色へと変わりつつあった。
子どもたちがとっくに家へ帰る時間になっても、吉川美波は一人、ブランコを漕いでいた。
きぃこ、きぃこ。
きぃこ、きぃこ。
足を伸ばし、曲げる。それを繰り返す。すると、ブランコは大きく弧を描いた。
とりあえず全力でやっておけば、いいことが起きて、時間を過ぎてくれるはず。
というのが、吉川の考え。
だからこそ、誰もいない公園で、吉川は全力で鎖を握りしめているのだ。
夕闇が足元から忍び寄り、街灯がひとつ、またひとつとオレンジ色の明かりを灯していく。遠くからは、窓から漏れる夕食の匂いや、かすかな聞こえてくる笑い声。
そんな温かな日常の気配から切り離されたように、吉川はただ、風を切る音だけに耳を澄ませていた。
さらに強く地面を蹴る。
髪が逆立ち、スカートの裾がパタパタと揺れた。
錆びた鉄が擦れる音は、誰もいない公園の中だと余計に目立つ。
乾いた風が背中を包み込み、吉川に身震いを誘う。
そして、長い髪が乱れて、目に入ってきた。
「さっむ……」
今は五月。地球温暖化の影響で、最近は暑いことが多いが、今日ばかりは肌寒さが勝る。
ーーなんや、昨日まで暑かったくせに。
胸の内で、吉川は文句を垂れた。
邪魔になった髪の毛を乱暴に除けると、ゆっくりと、誰かがこちらに近づいてきているのが見えた。
しゃり、しゃり、と。地面を歩く音。
音がする方には、見慣れた顔。
きつめの生徒指導があったとしても余裕で通過できるくらいには、制服をきっちりと着こなしている。
肩に通学カバンを掛けているので、部活帰りだと吉川は判断した。
いかにもエリートな雰囲気満載な彼は、
「また、ここにおったんや」
と、吉川がブランコを漕いでいるのにも関わらず、目の前に立った。
「おい、ちょっと!」
吉川は慌てて地面に足をついて、強制的にブランコの動きを止めた。
「アホか!誰が真ん前に立っとんねん!怪我したいんか!?」
勝手に口が動く。
だが、そんな吉川によろめくことなかれ。
「誰がアホや、お前にだけは言われたくないわ」
という、火に油を注ぐ返事が返ってきた。
怒りを押えながら、吉川はゆっくり笑った。
口角を半ば無理やり上げる。
「……絵馬ちゃんやから許すけどな、ほんまやったらもっと怒っとるからな。ホンマに危ないから。」
絵馬ちゃんーー森絵馬は鼻で笑った後、
「短気やなぁ」と間延びした声で言った。
そしてさりげなく、カバンを地面に置いて、隣のブランコに腰掛けるのだった。
「もっと優しくなれば。だから女子に『男みたい』って言われるんや」
眼鏡をかけ直しながら、吉川に話題を振る。
「へいへい。でもここは播州、播州って日本一口悪いらしい」
「だからしゃーない」と、人差し指を立てて、ご満悦の吉川。
「それどこ情報?」
「ママ」
「そう」
再びブランコを漕ぎ始めた吉川に、 森は質問を投げた。
「なんでこんな時間にここおるん。 また家出?」
吉川は 嫌な顔することなく、「うん」と即答する。
二人にとって、このやり取りは日常茶飯事。
はぁ、と森は呆れを孕んだ、大きなため息を吐く。
「『ママと喧嘩した〜』ってか?」
「いいや」
森が吉川の真似をしながら言った言葉を、吉川は真っ向から否定した。
「家に誰もおらんねん、ママ仕事やから。わたし、一人は嫌。 」
ブランコだけが動いていた。吉川は漕ぐことはやめない。いや、それしかやることがない。
それ以上は何も言わない。森の返答を待ち、完全に口を閉じた。
それを森も察して、さっきよりも一層深いため息をついた。
そして、
「はぁ?」
森は「理解不能」と言いたげに眉を歪ませて、隣で動くブランコを視線で追う。
「お前。ついこないだ、『ママおらんからストレスフリーじゃあ!ひゃっほーい』ってゆーとったくせに。」
吉川にはその言葉が効きすぎたのか、「それは……まぁな」という曖昧な返事しか返ってこない。それを肯定とみなした森は、「変なやつ」と付け加えた。
ここで急に興味を失ったのか。森は、ポケットからスマートフォンを取り出し、口を動かすことをやめた。
隣の吉川のように漕ぐこともせず、ただ座っているだけ。
吉川は森がスマホを弄っているのも気にせずに、別の話題を始めた。
「なぁなぁ、そんなんええからさぁ〜」
吉川が、急にブランコを止める。
そして、森の顔をまじまじ見ながら、こう言った。
「『走れメロス』ってええよなぁ」
その声に、返事はなし。
それでも、吉川は続ける。
「あの、よく『メロスすげぇ!王は酷い』っていうやつおるやん。わたし、そう思わんのや」
フリック入力に専念している森の耳は半分別世界で、吉川の話を聞いていなかった。
かろうじて「なんで?」と、返事をする。
その返事が嬉しかったのか、吉川は少し身を乗り出した。
「王って、何があったんか知らんけど、人が信じられんくなっとんやろ。だからあんなことしとる。いや、人殺るのええってゆーてないで?
ただ、王にも辛いことはあったんやろなぁって。」
「おーん」感情のこもってない森の声。
「やから、王に何があったんか、それが文中に一言も書かれてないから分からんのよ。これって、太宰治からの挑戦状なんちゃう? 」
そうやって小説の話をしている時の吉川の目は、空に浮かび始めた有数の星なんかより、よっぽど輝いていた。
「そんでな、『走れメロス』読んで思うんやけど、意味分からん四字熟語多くね?
『獅子奮迅』とか、現実で聞いたことないわ。」
「ふーん、そうなんや」
「……。」
「……。」
沈黙。
話を聞いているときなら、さすがに無愛想な森でも、もう少し反応してくるはずだ。
吉川は、森が話を聞いてないことに気がついた。
スマホとにらめっこ状態の森を、思いっ切り睨む。
今度は、吉川が盛大なため息を漏らすこととなったのだ。
「なぁ、絵馬ちゃん。聞いてないやろ」
「おう」
「スマホの方が楽しいでっか?」
「ちょっと黙って」
「……はぁ」
大袈裟に肩を竦める吉川。口を尖らせて、イライラを抑えきれない声色で
「悲しいなぁ」とい呟いた。
わざとらしく目元を拭く真似をしたあと、吉川は黙り込んだ。
数秒の沈黙。風も吹かず、森も吉川を見ず、吉川も何も言わず。
ブランコだけが、きぃこ、きぃこと鳴る。
吉川は「今や」と心の中で呟く。
ーー言うんなら、このタイミング。
「てか、聞いて」
唐突に、吉川は口を開いた。
「昨日ママに本をな、全部捨てられたんよ」
森のフリック入力をしていた指が、ぴたりと止まる。
ゆっくり、顔を上げると、吉川の方を見た。
しっかりと目を合わせたと思うと、今度は目を瞑り、そして前を向いた。
吉川の顔は見ないまま、「……なんでや」と小さな質問を渡す。
吉川は、ケラケラ笑った最後に、「ホンマなぁ」
なんていう諦念を孕んだ言葉を漏らした。
「いや〜、本読んどったら『そんな暇あるんやったら勉強しろ』って言われてな。
そんで言い合いになって、最終的に全部ぐっちゃぐちゃになって捨てられた。ホンマ最悪。ママやって勉強好きやなかったくせになぁ?」
一言で言い切ると突拍子に「ひゃああああ……」
と叫ぶ。
口を大きく開けた、吐息に近い叫び。
鎖を握る力を強めながら、怒りの叫びを空に向けた。
「人の大事なもん捨てるなや。あの本全部、自分の給料で買ったんやけど?
あーもう!わたしもママの化粧品やら趣味悪い服やら、全部捨てたろかぁっ!?」
すぐさま森が諌める。
「近所迷惑や、静かにせい。あと捨てたんな、余計に空気悪なるぞ。」
「分かっとるわ!」
「分かっとったら叫ばへんわ。一回、落ち着きぃ。」
「うるさい!落ち着いとる!」
「落ち着いとるやつは近所に聞こえる声で叫ばん。」
「ぐっ……」
森は少しだけ黙った。吉川の見るからに「言い訳思いつかん、悔しい」という思いが現れた顔を、静かに眺める。
そして。
「……何冊やったん。」
「ん?」
「捨てられた本。」
いつもより低めの声に、吉川は「えっと」と迷いつつ、いつも通りのテンションで答えた。
「全部ってゆーたやろ。つまり、そーゆーこと!」
ウインクとグッドポーズをする吉川と対照的に、森は見るからに苦そうな顔をする。今日一番の表情の変化。
「うわぁ…」
「全部」というのがどれくらいなのか想像できてしまい、森は思わず顔をしかめた。
「バケモンやな」
「しかもな!太宰治の問題作!『人間失格』とか、ドストエフスキーの『罪と罰』もあってん!それを捨てた!頭に百匹の虫でもおるんか!?」
まじでありえんゆるさんぞ……などと愚痴ばっかりたれていたら、さっきよりも空の色が夜に近づいていた。
黄昏時の時よりも、もっと暗い空の下。
愚痴を聞いていた森が、初めて自分の話をし始めた。
「……今日な、俺ん家。たこ焼きパーティするらしい」
「何の話」
本の話から離れすぎた話題の変更に、吉川は言葉を失った。
ーーなに、実は太宰治がたこ焼き好きとかそんなこと言い出すんか?
一人、首をぶんぶん振って思考に浸っていると。
「俺ん家、泊まってきぃや」
予想外の言葉が飛び出した。
しかし、予想外なだけで、言葉自体はよく森の口から出るものだ。
戸惑うこともなく、吉川は。
「さすがに悪いって。この前唐揚げご馳走してもらったばっかやん。」
と手をパタパタ振る。
が、森はここでは終わらない。ここまでのやり取りも予測済み。
「ふーん。ほなオヤジ特製のたこ焼き食わんのな。」
わざとゆっくり言う森。
再び、フリック入力を始めようとする森を、吉川はいつになく真面目な顔で見つめる。
「……なんやって?」
計画通り、と心の中でボヤきながら、森はさっきと全く同じセリフを吉川にもう一度言った。
もっと、ゆっくり。聞き取りやすいように。
すると、吉川の顔の色がみるみるうちに変わっていき、満面の笑みができあがった。
「絵馬ちゃん」
名前を呼ばれて、横目で彼女を見ようとした時に、吉川は乱暴に片手を握ってきた。
森は思わずびっくりして、びくんっ!と小さく飛び跳ねた。
なんや、と驚きの中。森が顔を直視したら、それはもう、希望に満ち溢れている顔だった。
目を見開き、口角は極限まで上がり、眉にも力が入っているような、そんな吉川を見てしまった。
「……お邪魔させていただきます!」
その声が、おかしくて仕方がなかった。ついに森は、腹を抱えて爆笑したのだった。
「ふっ……はははっ!んはははっ!」
「は!?なに!?」
「たこ焼きごときで釣られんの……犬かよ……アホやなぁ」
「あぁ?ほなもう行かん!」
「いや冗談、来てくれんと困るって母さんゆーとる。オヤジ、作り出したら止まらんから」
その一言に、吉川は動きを止めた。森の今までの態度について、一つの答えが導き出されたから。
ーー絵馬ちゃん、スマホばっか見とったけど。
その視線に勘づいたのか、森は「母さんに連絡しとってん。お前が来てもええか。」と口角を少しばかり上げる。でもすぐに、いつもの真顔に戻った。
「もう遅い。家に帰りたぁないんやろうけど、ここで夜明かしは無理や。」
首を小さく傾げ、吉川の反応を待つ。
「……」
ーー絵馬ちゃん。
喉の奥から、感謝の言葉が出そうになった。だが、寸前でひっこんで、また飛び出そうになって。
それを三回続けた時、気恥しくて、結局言うのは諦めたのだった。
代わりに。
「じゃあ!わたしめっちゃ食うわ。何個食べようかな、とにかくいっぱい食う!」
おちゃらけたことしか言えなかった。
森は気にする様子もなく、乾いた笑い声を口から流したら、
「お前は二個で」
手でピースを作った。
「少なっ」
ーー普通、お礼とか求めるもんやないんか。
ふぅ、と一息つくと、一旦吉川は目を閉じた。
毎度お世話になる度に、吉川はそう思っていた。
態度が冷たいだけで、話は聞いてくれるし、真面目だし、良い奴。
ーーまぁ。今度、駅前のアイス奢ろ。
その自身の発想に自分で賛成して、「ウンウン」と頷く。
心のモヤモヤや、謎の気恥しさが紛れて目を開けると、その隣に森がいなかった。
驚いて顔を上げる。
視線の先、公園の入口には森の背中があった。
一人、勝手に公園をあとにしようとしている姿に、焦って吉川は「一人にすんな!」と叫んでブランコから飛び降りた。
森が座っていたブランコは、少しも揺れていない。
延々と漕いでいた吉川とは違い、森はただ座っていただけだから。
その隣では、吉川が乗っていたブランコだけが、今も大きく揺れている。
吉川は森の背中を追い、すぐに追いついて森の肩を掴んだ。走らなくたって余裕で追いつく。
ーーわかっている、わざと置いていったことくらい。
森は振り向くこともなく、「離せよ」と肩を振った。
相変わらず愛想がない。せっかく追いついたのに、扱いが雑である。
「置いてったのがわるい」
「遅いから。」
「せっかちやなぁ」
「関西人やから」
関西を言い訳にすんな、と横から顔をのぞかせて言ってやった。
覗き込んでも、森は相変わらず。なんなら、別の話題を始めた。
「……泊まる用の服とか、用意しろな」
吉川は服の存在を忘れていたことに、そこで気がついた。
ーー危ない、忘れたら終わっとったな。 良かったぁ!
胸を撫で下ろす。
一安心した後は、もう二人共何も喋らなかった。
家の愚痴を言うでもなく、先日のテストの点数を競うとかでもなく。
ただ、並んで歩く。
黙っていても気まずくないのは、きっと長い付き合いのおかげだろう。
街灯の明かりが二人の影を伸ばす。
その時だった。
「あ。」
唐突に、吉川が声を上げた。
「なんや」
森は前を向いたまま返事をする。
吉川は数秒考え込んだあと、得意げに口を開いた。
「メロスってな!」
「まだその話すんの」
呆れたように森が一言。
だが、そんな言葉に聞く耳持たず。吉川は森の前に出ると、得意げにこう言い放った。
「マッハ11で走るんやって!」
そういった時の彼女の顔は、あまりにもあどけない笑顔だった。
森は返答に困ったのか、目を見開いて硬直。口は小さく開いたまま。
気にする様子もなく、吉川は続ける。
「今からマッハ11で走ってみるわ!」
メロスがセリヌンティウスを想って走ったのと同じで、わたしもたこ焼きを想って走りまーす、などと馬鹿げたことを言う吉川に対して、森は今回ばかりは、言葉を失っていた。
歩く足も止まってしまった彼に、吉川はくすくすと笑いを向ける。
「なにぃよ、そんなにびっくりしたか。凄かったか?」
その問いに、森はすぐには答えず、数秒目を瞑って逡巡した後、「うん」と頷くことしかしなかった。
「ほな行くで!マッハ11!」
吉川は走り出す。
当然、マッハ11には程遠い速度で。
ただ、その顔がただの家出少女には見えなくて。
森はその背中を見つめた。静かに、周りを見渡しつつ、吉川から視線は外さぬように。
そして、こっそり。
吉川に声をかけたのだった。
「転けんなよ、美波。」
コメント
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第1話、めっちゃ良かったです! 公園のブランコっていう日常の舞台から、家出してる美波のちょっと切ない心情がじんわり伝わってきて。それをスマホ弄ってるように見せかけて母さんに連絡入れてた絵馬の気遣いが渋すぎる…「転けんなよ、美波。」で終わるラスト、胸に来ました。たこ焼きに釣られて走り出すシーン、青春って感じで最高です🔥 続き、めっちゃ気になります!