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バスから降りて、僕はあっという間に学校の玄関にいた。
まるで白昼夢を見ていたかのような集中力と考えの結果にいつも驚くが、もう学校の門を潜っているから、すでに学校の月というキャラになりきるスイッチがオンになっている。
元気におはようと自分から話しかける僕の姿は、学校じゃ当たり前だ。
幸せになりたいという欲求だけに色々な事を考えている僕の姿はもうどこにもない。
学校にいるときのテンションは、とてもエネルギーを使う。
最終的に自分が1番楽になれるポジションや関わり方を攻略し、それに従っているだけなのだが、素の自分では無いからエネルギーを使うことに変わりはない。
そもそもの所人と関わることで得られるメリットがあまりにも少ないと思っている僕だが、案外強制的に人に助けられていることがあることも知っている。
1人でいればもっと考えが向上したかもしれないし、孤独に打ち勝つ強さがあったのかも知れないけれど、強制的に辛くても笑顔で人と関わらなくちゃいけないという文言があると、無理をしてでも人と関わっているからなのか、自然と悩んでいた事を忘れたりする。そういうことは、人と関わることのメリットだと思う。
でも僕は人と関わることのメリットをまだそれしか知らない。
まず、自分に利益があるかどうかがメリットデメリットの判断基準になってしまっていることもよくないことはわかっている。
でもそこに悟りを開くのは僕にとってまだ早い。
まだとてもハードルの高いことだということをわかっていてほしい。
ハードルの高いことに挑戦すればするほど自分に利益が入ることもわかるが、それの代償が大きすぎる。
その代償から耐えられるほどの休暇を取る暇も何も僕にはないのだ。
本当は、心の安定も喉から手が出るほど欲しいが、着実に人生の構想を練っていかないといけないと思っているからまだお預けだ。
答えが欲しいと思った時に完答は出ない。
完答が出るのは意外にもふとした時だ。
人生の先輩である彼も言っていたことだ。
こういう考えを頭の中ですることは、僕にとってのリラックスだ。
今日学校で使うエネルギーをこの朝のホームルームの読書時間にこうやって蓄える。
一生こうしていたい所だけど、すぐに試練はやってくるし、ずっとこの状態じゃいけないのが社会だ。
だからこそ強制的に人は成長できるのかもしれないけれど。
きっと、僕なら好きなこと、いわゆる論理的な考えが尽きるまでしつくすだろう。
それが終わった頃には他のことが何もできなくなっているし、そこで出た答えは一つの視点からしか物事を見ていない答えになりかねない。
そういう理由で、学校の生活スタイルには半ば賛成だ。
今日の一限は保健体育の走りのタイム測定だ。
昨日も思っていたけど、僕は走ることが苦手だから嫌いだ。
苦手な自分を把握していくことの嫌悪感が大きいわけではなくて、周りに苦手な事をして馬鹿にされることに恐れているだけだ。
僕の好きなかつての精神科医、アルフレッドアドラーは、他人からの印象は他人が決めることであって自分の課題ではないから他人からの印象をよくしていくために自分がする行動はないと言っていた。
好きな人の言うことはなんでも信じてしまうタイプな僕は、もちろんその考えに沿って生きている。
自分が相手に好印象を持って欲しいからと言ってどんなに努力したって無駄だ。
そんなことよりも何気なく相手が思った自分に対する感情が、僕の印象を作り出すのだ。
何気なく思った感情というのは、その場の環境やその時のメンタル状態でも大きく左右する。
そんなものの影響も受けながら人間の印象は一つずつ決まっていくという事を忘れてはいけない。
そんな一定でもないものの組み合わせでできた他人からの印象なんて、どうでもいいと思えてくる。
もちろん簡単にはそう思えないと思う。
でも、これもアドラー心理学に基づく考えだが、他人からよく思われたいだなんて、自分が嫌われて嫌な思いをしたくないという自己中心的な考えであることもわかっているべきだと思う。
ここで僕はなんとなく気づいてくる。
自分に利益があるかどうかでメリットやデメリットを判断することは、こういうところにボロが出るんだと 。
他人からよく思われることは自分にとって大きな利益だ。
だからその利益の物ほしさに、他人からよく思われたいがままにどんなに自分を追い込んででも行動してしまうのだと。
他人からの評価を気にしたくないのなら、自分に利益があるかどうかを判断基準にする事をやめるしかないのかもしれない。
だとしたらどこに判断基準を作るべきなのだろう。
そんなひらめきを持った時にちょうど僕が走る番になってしまった。
一緒に走る相手は異性からも同性からもモテる奴だ。
運動神経も抜群にいい。
だから本当に走りたくなかったが、不器用にスタートの姿勢を取ってスタートの合図に怯えて発言数が増えたりしながらもただ早く終わることだけを強く願った。
後ろでこの戦いがどうなるか予想して盛り上がっている奴らが本当に厄介だ。
隣で華麗にスタートの姿勢をとるモテモテのあいつ、あいつもそうだと思ったが、厳しそうな顔をして頑張ろうなと僕に話しかけた。
笑顔だが本当に僕みたいな顔をしていた。
僕の顔が整っていて、誰かのために、いいやただのクラスメイト相手に爽やかな笑顔が作れたのならこんな顔をしていたのだろう。
まだ走っていないから、彼と僕の距離は近いのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろう。
なんとなく、口にしてしまった。
「お前はいいよな、足も早いし。
それに比べて俺を見てくれよ。
足が早いお前と一緒に走ったらもっと
僕の愚かさが目立つんだぞ。
僕はずっと前から、お前がただ笑って過ご
していたあの時から今の瞬間が来るのが
怖かったんだぞ。なあ。いいよなお前は。」
言ってしまってからはひどく後悔したが、彼は表情を一つも変えずに
「努力したんだな、お前は。それなら大丈夫だよ。俺も俺で俺と戦っているんだ。お前の戦う相手が俺だとしても手加減はできないけど、少しでも苦しみから逃げるために走るんだよ。走っちゃえばもう終わりだからさ」
ああ、そうだ僕とこいつでは戦っている相手も違ったか。
そうだったな。
位置についてヨーイドン!
走り出した瞬間は手加減してくれているかのように感じた。
僕がインコースなのもこれがこいつの本気じゃないのもわかっていたけれど僕も本気では無いし、案外追いつけているんじゃないかと思った。
それでもやっぱり違った。
なんだとこいつを見下している間に僕はあっけなく抜かされた。
走りだから、追いつこうと思えば追いつけそうだと思うのに、こんな時でも他人からの視線を感じてうまく加速できない。
最後の二、三メートルは他人からもう見えなそうだと思ったから本気を出したが、やはり追いつけなかった。
実力不足でもあり、精神的に負けているような気がした。
僕とあいつじゃ元が違うからどちらの意味でも負けて当然なはずなのにそう思ってしまう自分が到底気持ち悪かった。
「お疲れ、月。よくやったよ。」
と爽やかに僕の頭を撫でてタイムを聞きに走る彼に僕は到底同情もできなかった。
それどころか腹立たしくてしょうがなかった。
僕だって本当は自分のタイムが気になるが、そんなことしていい人間じゃないという雰囲気を感じ取ってしまった。
しかもなんだよ、俺は俺と戦ってるから、とか苦しみから逃げるために走るんだよ、とか。
綺麗事すぎて笑いそうになった。
客観的に見て恵まれている奴が言う綺麗事ほどうざったい言葉はない。
でもうざったいと言う感情よりも妬みや悔しみが勝った。
嫌なら当然努力していると思われていたのも、僕が全然努力をしていない事実も悔しくてしょうがない。
嫌と思っていた感情だけが今日のこのタイム測定を根嫌いしていたんだという事も。
感情に負けていたことも全部全部悔しい。
うまいやつはきっと努力しなくても普通に今日が来ることも本当は憎い。
元が上手いやつは努力だって楽しいし、もはや今日のタイム測定だって楽しみにしているんだよ。
上手い奴がいう簡単に報われる努力と僕がする頑固に報われない努力を比べてみて欲しい。
この立場になってまで努力は必ず報われると言う奴が、1人でもいるだろうか。
余裕があればなってみたいものだ。
あぁ、それよりもこんなにも生まれ持った人間の価値は不平等なのだろうか。
努力で生まれ持った自分の価値を変えることができるのは本当の話だが、そんなに大きく変わることはない。
もちろん自分の価値が上がることはあるのだが、僕はそんなに大きくは変わらないんじゃないかと思う。
とにかく、才能はあるのに、努力をしたり生かそうとしないと、自分の価値は下がる。
よく言う綺麗ごとの一種の、人に悪い事をしたら自分に天罰がくだるとかそんなものは信じていない。
なぜなら他人と接する事を主体とした論理感なんて最終的に不要になるからだ。
初めから僕が正しさと優しさと愛情以外持たずに生活してきたことも要因ではある。
でも、悪さと言うものはそもそも存在するようなものじゃない。
あるようでない。
自分の中の正しさの中身が個性的だったり、悪くねじ曲がっている場合はよく見るけれど、それ以外の根からの悪さをまだ僕は見たことがない。
話は戻るが、毎日のように僕は自分や周りの人の価値を丁寧に図ろうとする。
気になってしまえばしまうほど人の価値を図る頻度が多くなっていく。
自分やあの人はどのくらいの価値を持っているのか。
それを知ることで僕は安心する。
安心するのは、予想外のことが起こらないようになるからだ。
自分のことを高くみ過ぎていても、根拠のない自信だけはつくものの、結局どこかで馬鹿にされるし、自分自身の成長が見当たらない。
そんな不安な未来が起きないように自分の価値を図っている時もある。
努力過程で、自分はちゃんと成長できているのか図ることのできる立派な手段だと思う。
最近はよく、比べる対象は過去の自分であるべきだと言う言葉を耳にする。
先ほど足の速いあいつも行っていた行動だが、僕はあまり納得できない。
努力をして月日が経てばある程度自分が成長できているのは当たり前だ。
だから、その成長の歩幅がどのくらいなのか僕は理解しないと気が済まない。
そこで発生するデメリットは、こんなに努力しているのにここまでしか成長できていないのかと落ち込んでしまう所だ。
自分自身の成長を求めているのだから、その求めているものが手に入っていないと思うとその努力の効果を疑ってしまうのも無理ないし、努力を続けたくなくなる気持ちが発生するのも当然だ。
そんなふうに結果が全てになってしまうのが、僕のやり方だ。
でも僕がこんなやり方になったのもしっかりとした理由が存在する。
説明すると長くなるが、
僕はかつて適当に結果を判断していた。