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八神喜平という名は美琴も何度か耳にしたことがあった。法事などで親戚が集まる際に必ずと言っていいほど話題に上がる名前だ。確か、三人兄弟だった曽祖父の上の弟。と言っても、本人に会ったことは一度もない。皆、口を揃えて「時代錯誤な頑固じじい」だと呼んでいたのだけはよく覚えている。親戚中からはあまり好かれてはいないという印象。
「喜平ってのは、本家の当主が女に務まるかって、何かにつけて文句を言ってきてね。私に代替わりした途端、一方的に親戚付き合いを絶ってきた。自分が当主に成り代わろうとしてたのが見え見えなんだよ」
そんな喜平も今や九十歳を越え、病床を離れられない身体。本人はもうそれどころではないはずだ。だから、彼の意思を受け継いだ子孫が今回のことを仕掛けて来ていると考えていい。
そこまで話すと、真知子は筆を置いて墨と硯を片付ける。座卓の上には書き上げたばかりの護符が三枚。その内の一枚を美琴へと差し出し、神妙な表情で言い聞かせた。
「あいつの家が狙っているのは、うちの式だ。今の時代、アヤメのような強いあやかしと新たに契約を交わすのは難しい。だから、うちを乗っ取って式ごと手に入れたがっている。この護符はうちの式を守るために使うんだよ、それ以上の余計なことは考えなくていい」
「……狙われてるのは、式なの?」
「ああ、妖力の高い式ってのは、祓い屋にとって喉から手が出るほど欲しいものだ。特に喜平の家は随分前に主力の式を失って、今は大したヤツがいなくてまともな祓いも出来なくなっているらしい」
美琴はさっきのアヤメの不機嫌そうな理由がようやく理解できた気がした。美琴が下校中に連れ去られそうになった原因が、鬼姫は自分の存在のせいだと気付いていたからだ。
鬼姫本人はちっとも悪くないのにと思うと、胸がきゅっと締め付けられた。
「これまで何も仕掛けてこなかったのは、そのうち私に祓いの力が無くなって、この家は放っておいても廃れると考えてたんだろう。けれど、まさか美琴に素質があるとは予想していなかったはずさ。視えるだけだった圭吾の娘だからと侮って――」
祓い屋の看板を下ろさなくてはならない切迫した状況になってきて、喜平の家は強行手段に出たのだろうと、真知子は半分呆れ気味に、そして半分は愉快だと言わんばかりに小さく笑った。
「その侮ってた孫娘が妖狐を連れ帰って、また新たな契約を交わしたもんだから、相当慌てたんだろう」
廊下と隔てる襖の方へちらりと視線を送ってから、真知子は我慢できないと吹き出していた。物音はしないが、子ぎつねは部屋の前で待機しているままだ。まだ四尾しかない子供とは言え、ゴンタはあやかしの中でも俊敏さを誇る妖狐という種族。祓い屋にとって、鬼姫と同じくらい欲しい逸材だろう。二体が揃っていることで、この家が妬まれる理由は十二分にあるといえる。
定期的に形代を飛ばし、この屋敷の様子を伺っているという八神喜平の家の人間。最近の真知子の体調があまり良くないことも把握しているのか、これまでは特に目立った動きは見せてこなかった。けれど、祓いの力の継承が済んだ美琴の存在は、彼らが本家乗っ取りを企てるのに大きな壁となる。ということはつまり、
――え、下手したら私、消されてた……⁉
美琴の顔から一気に血の気が引いていく。あのまま車に乗せられていたら、どうなっていたか分からない。殺されていたか、あるいは生涯監禁か。
まだ若い美琴が後継となれば、この先何十年も世代交代の可能性が無くなってしまう。喜平の子はすでに還暦に近く、孫も三十代だということだから、どちらからしても美琴の若さは歯痒いことだろう。
頭の中に浮かび上がった恐ろしい結論に、護符を握りしめていた指先が震え始める。真知子はあえて口にしないつもりでいるみたいだが、美琴は意を決したように祖母へと確認する。
「お父さんとお母さんは事故じゃなくて、本当は殺されたの?」
父の圭吾は祓いの素質は無かったけれど、本家の正統な後継者だった。真知子は以前、息子はあやかしによって命を奪われた可能性もあると口にしていた。息子は力はないが視える子だったから、と。その時は「それは今となっては調べようもないことさ」と言っていたが、事故があやかしの手で引き起こされた可能性までは否定しなかった。
もしかすると、そのあやかしは人間に使役された式だったのでは、という孫の推論に真知子は物悲し気な表情へと変わる。
「そうだとしたら、分家を制御できなかった私が原因だ」
祖母がずっと触れたがらなかったことに触れてしまったという罪悪感が湧き上がる。それでも美琴は本当のことを知りたいと思った。自分の大切な家族の命を奪ったのは、一体誰なんだろうかと。美琴には両親との思い出がほとんどない。それは誰かの悪意によって作られた状況なんだろうか。
護符に守られた室内に重い空気が張り詰めていた。互いに視線を合わせられず、言葉を交わせない時間がしばらく続いた。そんな時、廊下側からツバキの声が聞こえてきた。
「追跡していたカラスから報告が入りました。車はやはり、八神喜平の屋敷へ向かったようです。乗っていたのは八神康之と、式が二体」
「康之ということは、喜平の孫か」
「はい。形代に残っていた気配も、おそらくは康之のものでしょう」
ツバキから襖越しに報告を受けた後、真知子は腕を組んで再び黙り込んだ。