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ノアの足の裏に触れているアシェルの手つきは、恐ろしいほど優しい。生まれたての子ウサギに触れるより、もっと慎重な手つきだ。
皮が破れた足の裏に触っているのだから当たり前なのかもしれないが、傷口ではない部分にも長い指を這わせ、土踏まずをくすぐるように動かす好意は必要ない。
でもノアは、ただただアシェルに手当てをさせてしまったことに、罪悪感を覚えている。
何度も「大丈夫です!」「後は自分でやります!」と主張しているけれど、どうしてなのか伝わらない。
(……運んでもらった時に無理させちゃって、具合が悪いのかなぁ)
ノアは、真剣に耳が遠くなってしまったアシェルの体調を心配する。
心配するべきなのは、好き勝手にアシェルに足を触らせている現状なのだが、ノアの頭の中にはこの手の持ち主がいかがわしいことをするなんていう発想は、これっぽっちもない。
傍から見れば、年頃の男女がイチャイチャしているようにしか見えない中、アシェルがため息交じりに口を開いた。
「ノア、頑張ることと、無理をすることは違うんだよ」
ポツリと呟いたアシェルのそれは、もうレッスンをやめろと言っているように聞こえてしまう。
こればっかりは、雇用主の命令とて頷けない。
傷口に丁寧に薬を塗りこんでくれるアシェルには、感謝してる。でも欲しいのはそんなんじゃない。
「んー……殿下、そうは言っても、できないことをしようとしているんですから、多少の無理は必要ですよ」
読み書きだって、料理だって、お裁縫だって。これまで身に着けてきたものは、楽しみながら覚えたものではない。
暗記は苦痛だったし、使い慣れないフライパンで火傷したし、針で指を刺したことなんて数えきれないほどある。
「でもね、こんな足の怪我をしてまで頑張るものじゃない。ダンスを踊れなくっても私はノアが一緒に夜会に出てくれるならそれでいいんだ」
「そんなこと言わないでくださいよぅ」
思わず拗ねた口調で反発したノアに、アシェルは弾かれたように顔を上げた。
その表情は、気遣いを無下にしやがってという不機嫌なものではなく、何かを期待するようなもの。
「ノアが……そこまで頑張りたい理由を教えてもらえるかい?」
アシェルはノアの足の裏から手を離さず言った。
「それは……その……」
至極簡単な質問のはずなのに、ノアは言葉を濁す。なぜかお仕事の為だと言いたくない。
しかしアシェルの無言の圧は、本日も半端ない。それに、足の裏の手当てをしてもらった手前、無言のままでは失礼だ。
「えっと……頑張った先に、楽しみが待っているからです」
ノアは、むぎゅっと渋面を作りながら答えた。
口にしてから気付いた。その答えは「ああ、そっか」と自分自身が納得するもので、アシェルも満足いくものだったようだ。
「そっか。なら、無理はするなと言えても、やめろとは言えないな」
ふんわりと笑いながらそう言ったアシェルだが、どことなく不本意そうで、形の良い眉がちょっと下がっている。
でもノアは、気づかないふりをした。
「はい、私、今回は駄目って言われても、やめろって言われてもやり続けますから。あ、でも……ワガママを許されるなら、一つだけお願いが。私、殿下に”頑張れ”って言って欲しいです」
へへっと笑ったノアは、2拍遅れて自分がとんでもないことを要求してしまったことに気付いた。
(しまったっ! しっかりがっつりお給金をいただいている身なのに、これ以上何を望んでいるんだっ、私)
まったくもって図々しい発言に、きっとアシェルは呆れかえっているだろうと思った。
けれど、予想に反してアシェルの唇は弧を描いて、顔を近づける。
「で、殿下!?」
アタフタするノアの耳元にアシェルは口を寄せる。
「頑張れ、ノア」
「ひゃいっ」
囁くように紡がれた言葉は、何故か檄を飛ばすというよりも手の甲で撫でられるような温もりがあった。
「……足りない? もっと言おうか?」
「足りますた!充分、満たしゃれました!!」
噛みっ噛みで即答したノアに、アシェルは低く笑う。
その度に耳にアシェルの息がかかるから、ノアはくすぐったくて仕方がない。
しかも逃げようとしても、アシェルはノアに覆いかぶさるように背もたれに両手を付いているから、彼の腕が邪魔して身動きすらできないのだ。
アシェルは雇用主であり、この国の王子であり、妙に庇護欲をそそる人であり、己を必要としてくれる相手だ。
そんな彼を強引に押しのけることなどできないノアは、雨の中震える仔猫のように身を縮こませることしかできなかった。