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#ハッピーエンド
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強大な扉が、開いた。
ぎぎぎ、と鉄が軋む悲鳴が、広い回廊に長く尾を引く。耳に入った瞬間、胸の奥が勝手に固くなる。ここから先はいつだって同じだ。生死を賭けたやり取りが始まる。
部屋の中は闇だった。だが一歩、踏み込んだ瞬間。
ぼっ、ぼっ、ぼっ。
松明が一斉に灯り、橙の光が円形の広大な空間を満たす。壁に揺れる影がぐるりと回り、天井の高さだけが遅れて理解を追いかけてくる。
その中心に、“魔神”が立っていた。
人型。二メートルほどの巨体。全身は漆黒に覆われ、肩と胸のところどころが鎧のように分厚く盛り上がっている。隆起した筋肉が光を鈍く跳ね返し、右手には三メートルはあろうかという大剣を、枝でも握るみたいに軽々と持っていた。黄色い目がこちらを見て笑う。獲物を弄ぶことが前提の、歪んだ微笑み。神話の中の伝説。
そして角。片方だけ、折れている。
その形を見た瞬間、ダリウスとエドガーとオットーの顔色が変わった。息が詰まる。
忘れようとしても忘れられない。ジェリーとタッカーを生贄にし、逃げ切った“あの時”の魔神。オットーが《阿修羅》の呪いを手に入れる、あの最悪の夜の折れた角。
「……っつ」
ダリウスとエドガーが、言葉にならない息を漏らす。
エリーが目を見開き、反射で弓に手をかけた。
「魔神……まだ、生き残りが……」
オットーの大斧が、ぎし、と鳴った。握りしめた手が小刻みに震える。恐怖じゃない。怒りだ。腹の底に沈んでいた火種が、いま噴き上がって全身を震わせている。
「てめぇーーーー!」
地面を蹴る。踏み込もうとした、その瞬間。
「待て、オットー!」
ダリウスが腕を伸ばす。だが止めるには遅い、はずだった。
「オットー!!!」
ミラの声が、透き通っているのに鋼みたいに響いた。広間の空気が一瞬で締まる。声そのものが命令になる。
オットーの体が急ブレーキをかけ、靴底が床を噛んで軋んだ。
「……はっ!?」
我に返ったように目を見開き、息を吸う。吐く。もう一度、深く吸う。怒りは消えない。だが怒りに操られるのは違う。
オットーは大斧を握り直し、歯を食いしばったまま低く言った。
「……わりぃ、ミラ。助かった」
礼であると同時に、自分を鎖で繋ぎとめる誓いだった。怒りが“制御”に落ちた瞬間、ダリウスはもう走り出していた。
「俺が最前線! ――奴は遠距離もある! オットー、後方よりでシールド! エドガー、最大火力の貫通! エリー、前後に動いて援護! ミラ、結界を張って待機!」
命令は短く、切れ味だけを残して宙を裂く。返事はない。必要ない。全員の身体が、すでに答えていた。
エドガーは魔導書を開く手を止めずに詠唱の速度を上げ、エリーは弓を構えたまま足を滑らせるように位置を変える。ミラは一歩だけ下がり、女神に祈りを捧げ結界の起点を探った。オットーは大斧を担ぎ直し、盾を前に出す角度だけを整える。戦闘の形が、一息で組み上がる。
そしてダリウスは、魔神へ一直線に突っ込んだ。
「《深き森》」
世界の輪郭が溶けた。松明の火も、床の石目も、魔神の黒い皮膚も境界を失って流れ、白い空間へ沈んでいく。
一歩先。ほんの一瞬だけ未来が“見える”場所。
(――あの大剣、軽々振るうな。右は腕を持っていかれる。上は頭を割られる。下も即死。……狭いが、あの隙間に)
白の中で最適解が光る。ダリウスは剣を盾のように構え、魔神の左下へ踏み込んだ。足が床を噛む。身体が躊躇を切り捨てる。
「《グランドスマッシュ》!」
衝撃。剣が軌道を描き、魔神の胸のあたりに“ほんの小さな”切り傷が走った。
たったそれだけ。だが。
「……ほぅ」
魔神が、関心したように笑う。褒め言葉ではない。獲物を一段上の玩具に格上げする、冷たい合図だ。
大剣がゆっくりと構え直される。空気の重さが変わる。
(遊び相手から昇格か? ……次はあいつの右腕を――)
ダリウスはもう一度、先へ踏み込もうとして凍りついた。
(……え?)
白い空間に、逃げ道がない。
上、下、左、右。すべてが“死”で塗りつぶされている。
(――全部、死ぬ。後ろへ!!)
反転した瞬間、遅れて現実が追いついた。魔神の剣戟が、天井から落ちてくる隕石みたいにダリウスの脳天へ降り下ろされる。
避けた。確かに避けた。それでも。
ぶつり、と。嫌に乾いた音がして、視界の端に自分の左腕が転がった。
痛みが理解に変わるより先に、エドガーの声が飛んだ。
「《伸縮紐》!」
透明な紐がダリウスの体に巻きつき、後衛へ引き戻す。床を削り、血の線を引きながら距離だけが命を繋ぐ。
ダリウスは歯を噛み、左肩を押さえた。肩の先が空っぽだ。顔が歪む。それでも声は折れない。
「オットー! 前線に上がってくれ!!!」
オットーが、獣じみた笑みを浮かべた。武者震いが背骨を駆け上がる。
「あぁ。借りを返してやるぜ」
その間にもミラは動いていた。膝をつき、ダリウスの断面に布を当てる。止血。迷いのない指。ただ、目だけが真剣すぎるほど真剣だった。
「ダリウス! 《神光再命》使うよ?」
その言葉に、ダリウスは右腕を横に振った。拒絶。短く、強い。
「まだだ! エリー、止血だけ頼む!」
エリーは即座にネックレスを握り込む。感情を挟まない声で、女神へ言葉を届ける。
「わかったわ。女神よ、痛みを撫で給え――《癒光》」
淡い光が傷口を包み、出血がゆっくりと止まっていく。完全な回復じゃない。だが今はそれでいい。
ダリウスは息を整える暇もなく、ミラへ早口で告げた。
「ミラ、血を失った。ポーションを」
ミラは泣きそうな顔のまま頷いた。声は震えても、芯だけは折れない。
「……わかった!」
*
前線は、オットーひとりで“地獄”を引き受けていた。
魔神が掌を開く。そこに黒い球が生まれる。拳ほどの大きさなのに、空間そのものを冷やすような重みがあった。
次の瞬間、球から閃光が吐き出された。雷を纏った黒い線が、蛇のようにうねりながら一直線に襲いかかる。
「させるかよぉ! 《阿修羅》!」
オットーが大斧に手を掛けた瞬間、筋肉が赤くなる。血管が浮き、骨が鳴るほどの圧が乗る。振り落とした斧が閃光を叩き落とし、弾き返す。
轟。逸れた閃光は壁に突き刺さり、石を二メートルほど抉り取った。焦げた匂いが遅れて鼻を刺す。
オットーの目が血走る。怒りで、というより“忘れていなかった”ことの証明で。
「俺のこと覚えてるんだろ? テメェの角を折った男だよぉ!!」
大斧がうなりを上げる。
「〈阿修羅・二十連〉!!」
爆撃のような連打。床が震え、火花が弾け、空気が裂ける。だが当たるのは、わずかに二、三発。漆黒の皮膚が抉れ、黒い血が一筋流れるだけだ。残りはすべて、三メートルの大剣が当然のように受け止めた。
オットーは息を上げながら、斧の先を地面に置く。肩が上下する。けれど口元だけは笑っていた。
「へへっ……いいぜ。ちょっとずつ削ってやるよぉ」
その言葉を嘲るように、魔神が拍手した。
乾いた音が、広い円形の部屋にやけに響いた。敬意じゃない。玩具が面白い動きをした時にする、上機嫌の合図だ。
オットーの顔から笑みが消え、代わりに怒りが燃え上がる。
「てめぇええええええ……舐めてんじゃねぇええええぞぉおおおお!!」
「《阿修羅・四十連》!!」
嵐。斧の軌道が見えないほどの連撃が魔神を飲み込む、はずだった。
初めの三、四発は大剣で受け止められ、火花が散る。そして最後の一撃。
魔神は、指で挟んだ。
ぎち、と鉄が軋む音がして、オットーの全身が一瞬固まる。
汗が背中を冷たく伝う。嫌な汗だ。それでもオットーは、唇を吊り上げる。笑いで自分を誤魔化すみたいに。
「……マジでよぉ。舐めてんなぁ」
魔神がまた掌を開く。今度は黒い球が、ひとつではない。五つ。宙に浮かび、円を描くように配置される。
そして曲線。
黒い閃光が、狙いを変える意思でもあるかのように弧を描き、オットーを貫いた。
肉が裂ける音。巨体が、ぐらりと揺れる。口から空気が漏れ、言葉にならない。
その瞬間、後衛から声が飛んだ。
「〈伸縮紐〉!」
透明な紐がオットーに巻きつき、後方へ引き戻す。床に血の筋が引かれ、濃い赤が溜まっていく。
オットーは倒れたまま、笑おうとした。だが顔は真っ青だ。腹のあたりが裂け、臓器の一部が不格好に覗いている。回収が、あと半拍遅れていたら終わっていた。
「はぁ……はぁ……マジで……あいつ……」
前方。魔神は動かない。焦りもない。次はどんな玩具で遊ぼうか、とでも言いたげにダリウスたちを眺めて、黄色い目を細めて笑っていた。
ミラはネックレスを握りしめた。指が白くなるほど。視線だけでエドガーを射抜く。
「使うから!」
宣言は短い。問いではない。選択肢はもう、残っていなかった。
エドガーは魔導書から目を離さない。詠唱の流れを切れば、全員が終わる。けれど声だけは迷いなく返す。
「えぇ!」
ミラの喉から祈りが引きずり出される。
「——暖かき女神の息吹よ、肉体を再び編み直せ。《神光再命》!!」
光が落ちた。血の臭いを、いったん塗り潰すほどの温かさ。裂けた肉が寄り、欠けたものが戻り、オットーの胸がかすかに上下する。
呼吸は戻った。だが目は開かない。意識はまだ、深い闇の底に沈んだままだ。
同時に、ミラの右手が死んだ。指先から。一本ずつ、順番に。熱も痛みもないまま、硬質な冷たさへ変わっていく。関節が固まり、皮膚の色が石の鈍い光沢を帯びる。
視界が揺れた。遠くなる。床が傾く。心臓の鼓動が、耳の内側で大きく鳴る。
(ダメだよ……ここで意識を飛ばしたら……みんな死んじゃう!)
恐怖が息を奪う。恐れている暇がない。
「あぁああ!」
叫びは、祈りの反動に引き裂かれた獣の声だった。
「ミラ!!」
エドガーの声が背中に刺さる。だがミラは振り向けない。振り向いたら倒れる。倒れたら終わる。
ミラは、床に頭を打ちつけた。
ゴス。ゴス。
嫌な音が二度、三度。骨と石がぶつかるような鈍い響き。額が割れ、熱いものが流れ出し、頬を伝って落ちる。視界の端で、赤が黒ずむ。
それでも意識だけは、無理やり繋ぎ止められた。
ミラは這った。片手が言うことをきかないなら、肘で。膝で。床に爪を立てるようにして、前へ、前へ。
「まだ……まだいけるよ……」
声はかすれていた。けれど、その一言は呪いみたいに自分を縛る。倒れるな、と。起きろ、と。