都を発った日の翌日、ちょうど夕刻のことだった。
鬱蒼とした雑木林を背景に、その宿はぽつんと建っていた。
本街道に通じる手狭な脇往還の道沿い、すこし奥まった立地とあって、他に客足はなく、そもそも辺りには人っ子ひとり見当たらない。
暮れなずむ田舎世界の中、昔話のひと幕にでも出くわしたような感覚だった。
「ちょっと怖くない……?」
まるで寒さを堪(こら)えるような格好でリースが呟(つぶや)いた。
街道とは名ばかりの悪路を延々と歩み抜いた所為(せい)か、声には持ち前の張りがない。
「けどお前、晩になっちまうぜ?」
こちらは体力的に図抜けた虎石が、面倒くさそうに節介を述べた。
こうした道の辺(べ)で、宿泊施設を見つけたこと自体 奇跡のようなものだった。
今から別の宿を求め、あの寂しい野道を歩くのはさすがに気が重い。
「女の子に野宿はさせられん?」
「あ?」
「“ボクは物置小屋で充分ですが、彼女たちはきちんとベッドの上で”」
「ケンカ売ってんのかてめえは」
元々、夜天を眺めながら眠ることに然したる抵抗のない葛葉である。
これは恐らくかのブロンド娘も同様とは思うが、だからと言って目先の宿をみすみす逃す手はない。
昨夜は仕方なく寂れたバス停で夜を明かしたが、今日くらいは。
「ここに泊まろうよ。 今日はちゃんと」
「ん……。 そうする?」
「ほれ、トラ兄(に)ぃの厚意もあるし。せっかく」
「寝言かよコイツ……」
すっかりガタのきた引き戸を開けて、屋内の様子をそっと確認する。
一応はロビーの体裁を整えているようだが、人の気配はない。
「おめー、さっさと行けよ」
「はぁ? ちょ……っ、押すなや!」
内部は妙に埃っぽく、長いこと放置された廃屋のような印象が先んじた。
玄関を入ってすぐ、手広く設けられたスペースには種々の調度品が雑多に配されており、拙(つたな)いながらも寛(くつろ)ぎの空間を演出しているようだった。
もちろんスリッパなんて気の利いたものは見当たらず、そもそも履物を脱ぎ置く必要があるのかさえ疑わしい。
気休めのように据え置かれたソファーは傷(いた)みがひどく、壁際には電球の外れた照明器具が所在なげに突っ立っていた。
「いい感じじゃねえか」
「は?」
梁(はり)に大きく掲げられたよく分からん格言を眺めつつ、気息を連ねるように虎石がうんうんと頷いた。
こういった場所柄に冒険心を擽(くすぐ)られるのはひとえに男子の性(さが)かと思う一方、当の葛葉を含む女性陣の内心は穏やかじゃない。
「どうする?」
「あ、忘れ物しちゃったみたい! 昨日のバス停かな」
「いや逃がさんよ?」
まるでチープなお化け屋敷のような。心身を休めるための施設として、これは完全に無しだろう。
ここはやっぱり、そこいらの寺か神社にでも。
「お客さんかぇ……?」
そうする内、奥の暗がりからヒョロリとした老婆が幽鬼のように現れたもので、葛葉とリースはたまらず肩を抱き合って竦(すく)み上がった。
「三人。 いけっか?」
「へぇ~へぇ~、泊まったらえぇ泊まったらえぇ~」
金銭的な問題か、あるいは情熱の問題か。 こうした宿に限らず、辺境の施設はどこも似たような風情だった。
今日を歩む足つきが、辛うじて明日の鼻先に引っ掛かればそれで良い。
その日暮らしを絵に描いたような世情は、まるで枝振りから揺り落ちる間際の病葉(わくらば)を想起させるものだった。
「三名さま! どうぞー!」
対応に出てくれた仲居さんは、言動の端々に灰汁(あく)がチラつくものの、情味については申し分ない印象だった。
客間にのぞむ風景は相変わらずの田舎模様で、一向に代わり映えしない。
目に映るものと言えば、木々の緑と野道の土色。 暮れ残る空の色をぼんやりと湛(たた)えたそれらが、一日の終わりをしみじみと物語っているようだった。
夕食時に眺めた景色は、もはや見飽きた風景であるにも関わらず、どこか懐かしく、切ない情感を及ぼすものだった。
「あの婆さん、きっと山姥だよ……。 包丁研いでるよ絶対」
「m…mmm……mountain witch!?」
「美味(うめ)えなこれ……」
斯くして、過不足のない饗(もてな)しを受けた三名は、今後の旅程をだらだらと話し合った末、各自の客室に別れた。
それぞれベッドにもぐり込んだのは、だいたい午後11時頃のことだった。
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