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――しまった。
ほとんど徹夜で読んでしまった。
時間差出勤を取り入れている|乙木《おとぎ》ホールディングスでは社員の出勤時間はバラバラだ。
私は九時出勤だから、朝の時間には余裕がある。
ラッシュの時間帯も避けることができる電車通勤ライフは本当にありがたい。
これも|一野瀬《いちのせ》部長が海外支店から戻った時に我が社に取り入れてくれた制度だ。
本当に有能な人だ。
そんな人の彼女(仮)――隠れ蓑とはいえ、そんな大役が務まるだろうか。
そして、久しぶりの男女の恋愛小説を読んだ私は、どっぷりハマって離脱できなかった。
寝不足でいつもより化粧のノリが悪い。
私ももう二十八歳……無理のきかないお肌事情。
「ううっ……! 太陽が眩しい。寝不足の私を容赦なく照らしてくるわね」
完全に冬が終わり、明るい春の日差しよ。
でも、私は読みきった!
これで男女の恋愛は完璧なんだから。
いつもBLばかり読んでいる私とは、ひと味もふた味も違うはずだ。
会社のエントランスに入り、不敵な笑みを浮かべた。
さあ、キュンよ!
私に来たれ!
「おはよう。|新織《にいおり》」
いつもより一段と眩しい笑顔、引き締まった体、キリッとした表情の中にある私に向けるわずかな甘い顔。
心の準備はしていたけれど、向こうのキラキラパワーはなんだかいつも以上。
胸が苦しい
あ、あれ? おかしい。
もしかして、私……修行を積んだはずなのに動じている!?
こんなはずでは――
「お、おはようございます。|一野瀬《いちのせ》部長」
仕事モードに切り替えて! 鈴子!
これは業務的な挨拶なんだから気を確かにもつのよ!
「一緒に行こうか」
待って? まさか、同じエレベーターに乗るつもり!?
こんな狭い空間で二人きり?
ムリムリムリムリ!!
「どうぞ」
エレベーターの開のボタンを押すと一野瀬部長は紳士的に先を譲ってくれる。
いやいや、私が先に乗るなんてと、後ろに下がったけれど、背中をそっと優しく押す大きな手のひら。
ぐはっ!
これが海外支店で培った噂のレディファーストってやつですか?
「あ、ありがとうございます」
こんなシチュエーションになれてないことがバレないよう平静を装った。
『スマートな男に言葉はいらない。無言で女性をたぶらかす――by|新藤《しんどう》|鈴々《りり》』
大事な言葉を心のメモに書き留めた。
うわあああ! 笑顔が眩しいっ!
春の日差しよりも目を焼く笑顔を堪能する。
うっかり自分が彼女(仮)ということを忘れそうだ。
彼女(仮)待遇を味わっていると、エレベーターに乗った私たちを止める声が聞こえてきた。
「一野瀬。俺も乗るから待ってくれ!」
遠又課長の大きな声がエントランスに響いた。
あんな遠くから?というくらいの距離から叫んでいる。
走ってくる姿は猪のようで、怖いくらいの迫力だ。
あと少しで到着するというところで、一野瀬部長が閉のボタンを押した。
しかも笑顔で。
ドアが閉まる時、一瞬だけ見えた遠又課長の顔は鬼のような顔だった。
ひ、ひえぇえぇ……こっ、こわぁ。
「あ、あの。いいんですか? 今の……」
「ああ。今のは仕返し。俺はやられたらやりかえすタイプだから」
営業部でなにがあったのだろう。
顔色ひとつ変えない一野瀬部長。
強い、強すぎる。
さすが、私が見込んだだけあるわ。
そのドS感、間違いない!
『俺を激しく愛してくれよ!』の|貴瀬《きせ》|凱斗《がいと》のイメージどおり!
エレベーターの時間は一瞬。
息苦しく感じるのも今だけ。
そう思いながら、『平常心』をお経みたいに唱えていると、営業部がある階にエレベーターが止まった。
総務部はもうひとつ上の階である。
一野瀬部長はドアが開く前に、不意打で顔を近づけ私の耳元で囁いた。
「デート、楽しみにしてる」
そして、何事もなかったかのように去って行く。
ドアが閉まる瞬間、少しだけ振り返り、私を見て微笑んでいた。
その顔を見ると息苦しいのを通り越し、胸が痛い。
ぱたんとドアが閉じる。
ひ、ひええええ!?
い、今のはなんだったの――!?
囁かれた耳をおさえ、エレベーターの壁を叩いて悶絶する。
私は葉山君の隠れ蓑ポジションの女だったはず。
彼女(仮)でしょ!?
こんな行動は予想外。
もっと淡々とした割り切った付き合いになるだろうと予想していた。
それが……まるで、恋愛小説のような……
そうだ!
今こそ、勉強の成果だ!
ようやく思いが通じ合った二人。
けれど、ライバルの女性はヒーローを奪われたくない。
奪われたくないライバルは、ヒーローを繋ぎ止めるため、妊娠したと嘘をつく。
私と一緒にいてくれるわよね――次回に続く!
――って、ああああ!? 次回に続いてどうなるかわからない。
もどかしい!
二人はどうなるの!?
「なにしてるの、私」
ただ小説を楽しんだだけで終わっていた。
学びがない女、鈴子。
二十八歳。
エレベーターから出て、廊下の壁に手をついた。
いいの、わかってた。
私が男女間の恋愛で優位に立てないことくらい。
とぼとぼと総務部に入り、いつもより少しだけ弱々しい『おはようございます』の挨拶を口にした。
疲労感たっぷりの私に比べ、後輩たちは元気いっぱいでおしゃべり中だった。
「|新藤《しんどう》|鈴々《りり》先生の更新きてたねー」
「とうとう二人はっ!」
「甘い夜にー突入ぅ!」
うわ、盛り上がってるな……
もう私は砂になって崩れ落ちそう。
ここが海なら、大海原の一部となっていただろう。
会社にて、大声で叫ばれる甘い夜。
もう私の精神力は朝からゼロ。
やめてくれぇえええっと願いながら、後輩たちに念を送った。
私の願いが通じたのか、後輩たちの話の話題が変わる。
「海外支店から社長の娘が帰ってくるらしいわよ」
「社長のお嬢様。結婚するんでしょ? そのための帰国だって聞いたけど」
「ふーん? 結婚したら会社を辞めるんだって思ってたわ。海外支店に行ったのだって、好きな人を追いかけていったって話だし、獲物をゲットしたから帰国したんじゃないの?」
「入社前だから、詳しいことはわからないわ。でも、相手の男は相当のハイスペでしょうね。あーあ、うらやましい」
社長の娘かぁ……たしか、私と同じ年齢で同期になるんだよね。
入社式で見たけど、すごく可愛いお嬢様だった気がする(うろ覚え)。
お嬢様はすぐに海外支店に行ったから、交流はまったくない。
「あなたたち! いつまでおしゃべりしてるの!」
私の目がカッと大きく開いた。
これは私の『寝てません!起きてますよ』アピールに他ならない。
叱られたのは私ではなく、後輩たちだということに気づく。
び、びっくりした……
私の二つ上の先輩である|浜田《はまだ》さんが後輩たちを叱りつけていた。
「いい加減にしなさい! おしゃべりしすぎよ!」
「すみませーん」
「怒られちゃったぁ」
浜田さんは優しいよ。
これで後輩達は真面目に仕事をするだろう。
残業をせずに帰ることができる。
残業になったらなったで文句をいうんだから、浜田さんにむしろ感謝しなよ……
ありがとう、浜田さん。
さすが私の目標とする先輩――そう思っていると、ねちっこい声がした。
「相変わらずだなぁ、浜田さん。若い子にそんなキツい言い方しちゃだめじゃないか。もっと優しく言ったらどうだ」
営業一課の遠又課長だった。
そして、その隣には|葉山《はやま》君がいる。
一野瀬部長の本命である葉山君。
寝癖ひとつないサラサラした髪、おしゃれに着こなすカジュアルスーツ。
若いからか、肌も綺麗だし、お人形さんみたいでまつ毛も長い。
それに比べ、私ときたら地味なネイビーのパンツスーツにアップにしただけの髪。
寝不足の肌はお手入れ不足で、いつもより乾燥して潤いが足りない。
――って、なにを葉山君と自分を比べてるのよ! 私はっ!
相手は男だ!
それも私の推しカプ。
なんておこがましいっ!
雑念を振り払うため、ぶんぶんっと頭を横に振った。
「遠又課長。総務部になんのご用ですか? 営業一課から、わざわざこられたということは、なにか重要な案件でも?」
さすが浜田さん。
動じない。
遠又課長は私の方をチラチラと見てくる。
えっ!?
わ、私?
「ちょっと新織さんに用事があってね」
浜田さんと目があって、『困るっ! 困りますっ!』と目で訴えた。
「新織さんは仕事中です」
その返答に遠又課長が嫌みったらしく浜田さんに言った。
「後輩に嫉妬か? これだから、総務部のお局様と呼ばれるんだ」
なんだとぉー!
脳内に暴れん〇将軍のテーマが流れた。
小学校の時、吉宗もしくは将軍と呼ばれたこの私。
その力を見せる時がきたようね!
ガタッと席を立つと、葉山君が手で私を制した。
「遠又課長。浜田さんがお局だなんて、俺は聞いたことないですよ。仕事ができて、しっかりされているから、なんでも任せられるって常務が褒めてました」
「なに。常務が?」
「知りませんでした? 浜田さんは上層部から一目置かれているんですよ。法律にも詳しいとか。才媛な女性って素敵ですよね」
葉山君は王子様スマイルを見せた。
一瞬で総務部の女性の心をわしづかみにしたことはいうまでもない。
これが天然のイケメンですか。
「そ、そうか」
「早く営業部に戻らないとサボっていると思われて、一野瀬部長からまた叱られますよ」
「あいつは本当に嫌なやつだ。あの男だけはやめておいたほうがいい。そう言いたくて、ここにきたんだ。だからな。俺と今度、食事でも――」
「はい、戻りますよ~」
葉山君が遠又課長の背中をやんわり押した。
そして、浜田さんに『お騒がせしてすみませんでした』と頭を下げる。
けれど、浜田さんの反応は冷たかった。
「遠又課長とふらふらしていないで、あなたも自分の仕事をしなさい」
しっかり浜田さんは注意するのを忘れなかった。
葉山君の爽やかな表情は崩れて苦い表情を見せた。
作り物の王子の顔より、この表情のほうが葉山君――いえ! 森上《もりかみ》|葵葉《あおば》のイメージにぴったりよ!
ナイスです。浜田さん。
その表情、いただきました。
ちゃっかり私は頭の中にある『俺を激しく愛してくれよ!』のネタ帳にその複雑な表情をインプットしたのだった。
けれど、この時、私はまだ気づいていなかった。
ミニ鈴子たちが現れなくなっていたことに――