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少し大きめのリュックに飲み物と地図とお弁当をつめて、白いキャップを深めにかぶり、登山道に足を踏み入れる。

「休日にはやっぱり登山!」

誰もいない道でそう叫び、長めのポニーテールを派手に揺らしながら歩き出した。

平日は室内でパソコンとにらめっこ状態、もうOL三年目だというのに未だにスーツに慣れていない。私、三島奈由子の生活はストレスが溜まるばかりだ。

緑に囲まれた凸凹道を力強く歩いていく。大学の時に登山サークルに入って以来、山を登るのが趣味になった。そして山頂でお弁当を食べるのが一つの楽しみになっている。

「おお、滝」

一時間ほど歩くと小さな滝が流れていた。暑い夏には嬉しい景色の一つで、それ目当てで夏にばかり山に登っているというのもある。私は水をひとすくいして飲んだ。

「さすが山の恵み、美味しい」

リュックに入っていた空のボトルに水を汲んで、また暑く長い道のりを進み始めた。

私は基本的に暑いのは嫌い、だけど外に出て運動しないとなんだかうずうずしてしまう。中学・高校とバドミントン部で、夏休みに散々練習したせいかその感覚が今でも消えないのだ。

「そろそろかな」

山頂を指す看板がちらほらと出てきた。こうなるともう胸の高鳴りは最高潮で、ここまで温存してきた体力を全て使い果たす勢いで走り出した。

「はあ、はあ、つ、着いたー!」

もう何度も経験しているはずなのに、いつも気持ちは達成感で満たされている。仕事では決して味わえないこの感覚が私は大好きだ。

ああ、私はなんて幸せ者なんだろう。休日に山に登る、ただそれだけでこんなにも楽しいと思えるのは私ぐらいかもしれない。

近くに設置してあった木のベンチに座り、早速お弁当を食べ始めた。

「今日は唐揚げ弁当! いつもどおり最高の味ね」

自分で作ったものを自分で褒めるのは、なかなかに恥ずかしい。こうやって過度に言えるのもこういう時だけだ。

お弁当を食べ終わり、下山する準備をしていたその時。

「ここに人間が来るなんて、珍しい」

小さくぼそぼそと聞こえたその声は、明らかに上のほうから放たれたものだった。私は恐る恐る視線を上に向けた。

「え、なにあれ」

「あれ、僕のこと見えるの」

その姿は人間ではなかった。背中に生えた黒い翼、黄色く光るくちばし、全身白い衣装を纏い、下駄を履いている。

「本当に珍しい、君、陰陽師か何か?」

「いえ、違いますけど、ってあなたなんなんですか!」

なぜか恐怖を感じることもなく普通に話している。初めてのことすぎて、状況が理解できない。

「ふーん、本当に不思議だ。あ、僕? 烏天狗って聞いたことない?」

聞いたことはある、いや、それにしても自己紹介が軽すぎる。どうしてそんなに冷静でいられるのだろうか。

「僕ね、一応ここの守り神なんだけど、人来なくて退屈してたんだよね。だから遊んでくれない?」

「え、は?」

「だから、遊ぼうって」

意味はわかるが理解できない。さらっと守り神って言ってるけど、多分そんなテンションで言うことではない。

「な、何するの」

「そうだなあ、靴飛ばしでもしようか」

意外とシュールな遊びを提案してきた烏天狗は、私の前にゆっくりと着地した。

「ここから靴を飛ばして、より遠くに飛ばしたほうの勝ちね」

「わかった」

烏天狗は淡々とルール説明をすると、いきなり下駄を飛ばした。

「え、早くない?」

「飛ばすだけなんだから簡単でしょ、さあ、君の番」

頑張れば抜かせなくもない微妙な距離に落ちた下駄は、綺麗に横を向いていた。そんな下駄めがけて、踵を踏んだ靴を思いっきり飛ばした。

「おお、やるじゃん」

ぎりぎり烏天狗の下駄を超えた私の靴は、遠くから見ているとなんだか哀愁を感じる。

「か、勝った」

「あーあ、残念。僕はこれで失礼するよ、じゃあね」

「ちょっと待って!」

あまりにもあっさりしすぎている。せめて何か景品はないのか。

「勝っても何も無しなの?」

「あー、特に考えてなかったけど、僕が勝ってたら山から降りれなかったかもね」

烏天狗はそう言い残してどこかへ飛んでいってしまった。

「な、なんだったの」

下山途中、烏天狗の言葉を思い出してゾッとした。もし負けていたら、どうなっていただろうか。軽い気持ちでに山神なんかと遊ぶものではないな。というか、私から誘ったわけじゃないけど。


あの出来事から一週間、平日の仕事をこなし、やっと休日がやってきた。

「今日も行くぞー!」

一週間前のことをきっぱり忘れ、私はまた同じ服装と同じ持ち物で山を登り始めた。

今回は前回とは違う山だから烏天狗に会うことはないだろう。もうあんな体験は懲り懲りだ。

「わあ、竹がいっぱい」

しばらく歩いていると、昔話に出てきそうな、竹がたくさん生えた道に出た。もしかしたらどこか光っているのかも、そんな馬鹿みたいなことを考えながら、スキップ混じりでどんどん先へ進む。

「これだけ竹があるなら、春は筍がたくさんなんだろうなあ」

食に目がない私は、ほかほかの筍ご飯を想像しながら唾を飲み込んだ。次回は幕の内弁当かな。

毎回のお弁当は特に張り切って作っている。日々の食事はインスタントが多かったりするけど、休日のお弁当に関しては冷凍食品を一切使わず、全て手作りで二時間かけて五品ほど作って詰める。入りきらなかった分はその日の朝ご飯になるのだ。

「今回は階段が多いな」

山頂を指す看板が増えてきたと同時にその道のりはほぼ階段になっていた。週に一回しか運動しない私の足腰はとっくの前に悲鳴をあげていた。

汗が止まらない。虫除けと日焼け止めを塗ってきたはずなのに、虫は寄ってくるし肌は前回よりも茶色くなっている。同僚や上司に変ないじりをされたくないから、変な日焼け痕だけはつかないことを願う。

「着いたー!」

やっとの思いで辿り着いた山頂には小さな祠が一つあった。近くのベンチに腰掛け、お弁当を開けながらその祠をじっと見つめていた。

「まさかね」

少し不安がよぎったけど、気にせず箸をすすめた。

「今日は海苔弁当ね、ポテトサラダがいい味出してるわ」

海苔弁当なのにポテトサラダに力を入れてしまった。これだけ美味しく作れるなら、毎回入れてみようかな。

お弁当を食べ終え、下山の準備をし始めていた。

「美味しそうなお弁当だったなあ」

不意に聞こえた不気味な声、間違いなくあの祠だ。

「だ、誰なの?」

「おいらの声が聞こえるのか、珍しい人間もいるものだなあ」

いきなり強い風が吹いて、辺りの木がざわざわと揺れ始めた。すると目の前に、人間ではない何かが姿を現した。

「お前何しにきた、ここに来るなんて物好きはそうそういないぞ」

「ただ山を登りに来ただけです。というか、あなたはなんなんですか」

九つに分かれた尻尾を左右にゆっくりと揺らし、私を不思議そうに見つめる狐の姿をした何か。ある程度検討はついているが、あえて訊いてみる。

「おいら? ここの守り神の九尾っていうもんだ。普通人間には見えないんだがなあ」

「私もなんで見えてるのかわからないです。この前だって……」

先週の出来事を言いかけてすぐに口をつぐんだ。これを言うとまた厄介なことに巻き込まれそうで怖い。

「あ、もしかして烏天狗が言ってたのはお前のことか」

「烏天狗を知ってるの?」

「知ってるも何も同じ守り神だからな、集まることもしばしばあるのさ」

あの烏天狗め、余計なことを。

「じゃ、じゃあ私はこれで」

「何を言っている、ただで帰すわけがないだろう」

やっぱり、面倒なことになってしまった。全てはあの烏天狗のせいだ。

「おいらと勝負して勝ったら好きに帰ってもいいぞ」

「わ、わかりましたよ、何するんですか」

「かくれんぼだ。日没までにおいらを見つけることができたら勝ちにしよう」

神様相手に人間が普通に勝負して勝てるはずがない。この勝負に勝つのはほぼ不可能だ。

「そんなの無理に決まって……」

「よーいスタート!」

九尾は私の言葉を聞かず勝手に始めてしまった。こんなのどうやって探せばいいの?

山は当然広い、人間一人が探せる範囲じゃない。でも見つけることができなければ帰れない。

「烏天狗も九尾も無茶苦茶すぎる!」

私は怒りに震えながら体力の続く限り探しまくった。そして日没まで残り一時間になってしまった。

「はあ、見つかるわけないじゃない、もう限界」

祠がある場所まで戻ってきてベンチに腰掛けた。もう帰れない、沈んでいく太陽を見ながら絶望していた。

「なーんだ、つまんないの」

目の前を見ると九尾が私をじっと見つめていた。

「ど、どうして」

「おふざけはこの辺にしといてあげるよ、そもそも僕たち守り神は直接人間に何かしたりはできないから」

私はその言葉を聞いた瞬間、意識がすうっと遠のいていった。


少し風が当たっているのを感じて目が覚めた。周りを見るともう真っ暗で、私は山の麓のベンチで横になって寝ていたのだ。

「あれ、山頂にいたはずなのに」

不思議に思ったけどとりあえず家に帰ることにした。

先週と今週の出来事を改めて思い返してみると、山神はただ遊びたかっただけだったのだと納得した。烏天狗が最後に言っていたことも冗談だったのだろう。九尾は意識を失った私を山の麓まで運んでくれた良いやつだった。

とは言っても、もう一度会いたいとは思わない。ましてや他の山神になんて会ったら、今度こそ何をされるかわからない。良い思い出なのか悪い思い出なのか、ものすごく微妙なラインだ。


あれから一ヶ月が経った。あのあとも毎週山に登っているが、あれ以来山神には会っていない。もう一度同じ山に登ってみたりもしたが、烏天狗も九尾も私の前に姿を現すことはなかった。

これで安心して山登りができる。美しい景色に美味しいお弁当、いつも一人で登っているけど別に寂しくはない。今週も辛い仕事をやり遂げて山に登っていた。

「さて、行くかー」

周りの景色を堪能し、山頂に辿り着く。お弁当を開き、箸をすすめる。お弁当を食べ終え、下山の準備に取りかかる。

「お、また珍しい客が来たものだな」

どうやら山神巡りは続くようだ。

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