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「漆塗り細工だそうだよ。しおりとしても、かんざしとしても使えるらしい。気に入ってもらえたらいいんだけど」
「こういう細工物って大好きなんです。ありがとうございます」
私は手の中のそれを眺めながら礼を言った。細工物が好きなことは本当で、しかも補佐が選んでくれたのだと思うと余計に嬉しい。ただ……。
「あの……」
私は失礼を承知の上で訊ねた。
「これ、お高かったのでは……」
細工物と言ってもピンからキリまであるけれど、これはちょっとしたお土産とは言えないよう代物に見えた。補佐の押しに負けたように受け取ってしまったが、受け取ったままでいるのは心苦しいようなきがする。何かの形でお返しすべきなのではないかと思う。
すると補佐は照れたように笑った。
「ごめん。実はそんなに高くはない。だから、気は遣わないでほしい」
「でも……」
「どうしても気になって仕方ないっていうなら、そうだな……」
補佐は少し考えるように顎を軽くなでていたが、にっと笑うと言った。
「今度、何かご馳走してくれる?だから今回はそのまま受け取って」
今度?また、こうやって会えると思っていいの……?
期待感で胸がどきどきした。私はその細工物を両手で包み込みながら頷いた。
「分かりました。それなら、これはありがたく頂戴します。大切に使わせていただきます」
細工物を袋の中に丁寧に戻し、バッグの中にそっと仕舞いこむ。視線を感じて顔を上げると、補佐と目が合った。笑みを浮かべて私を見ている。
「どうかされましたか?」
私の声に彼ははっとした顔をしたが、すぐに位置を直すように眼鏡に触れながら言った。
「えぇ、と。そろそろ出ようか?」
少し慌てているように見えるのは気のせいだろうか。彼の様子を不思議に思いながら私は頷き、それからおずおずと言った。
「ちょっとお手洗いへ……」
「あ、あぁ」
それから十数分後、私は補佐の待つテーブルへと戻った。彼の背中が見えて、あと一、二歩という場所で、正面から近づいてきた女性とすれ違う時にうっかり彼女に肩をぶつけてしまった。
「申し訳ありませんっ」
「私こそごめんなさい」
ぶつかった瞬間に私たちは互いに謝り合う。
彼女は転倒することもなく無事だった。
ところが、私の方は軽くバランスを崩す。転びそうになるのを察して、補佐が座る椅子の背もたれを掴んでかろうじて体を支えた。
危なかった……。
安堵のため息をついた時、両側から私を気遣う声がほぼ同時に聞こえた。
「大丈夫ですか?」
「岡野さん、大丈夫?」
「すみません、大丈夫です。お騒がせしてしまって……」
そう言いながら顔を上げたが、私の動きはそのまま止まった。すぐ目の前で、補佐と女性が固い表情で見つめ合っていたのだ。
はじめに口を開いたのは、女性の方だった。呆然とした表情で補佐の下の名前を口にする。
「匠……?」
続いて懐かしい人に会ったとでもいうように目元を和らげて、補佐に一歩近づいた。
フローラル系の甘い香りが、私の鼻先をふわりとくすぐる。優し気な雰囲気のその女性によく似合うと思った。
「元気、だった……?」
細い声でそう言いながら、彼女は補佐の腕に手をかけようとした。
しかし補佐はその手を振り払った。
息を殺すようにしながら二人の様子を見守っていた私は、驚いて補佐の横顔を見た。
補佐は眉間にしわを寄せて、初めて聞く冷たい声で彼女に言った。
「早く戻った方がいいんじゃありませんか。どなたかを待たせているのでは?」
その人はびくりと肩先を震わせて、補佐に伸ばしかけていた手を下ろした。
「そうね。ごめんなさい……」
悲しさ、懐かしさ、恨めしさ、そして申し訳なさ。その顔に、様々な感情が入り乱れているように見えた。
彼女は補佐から目を逸らし、自分たちの間に立ち尽くしていた私をじっと見た。
「……この人はあなたの彼女?」
しかし補佐は無言だった。
自分を拒絶するような補佐に、彼女は悲し気な目を向けた。
「今度はちゃんと大事にしてあげて……」
その一言を聞いた瞬間、補佐の表情が固まったような気がした。
「お元気で」
最後に短くそう言うと、彼女は店の奥の方へ歩いて行った。柱の影になっていて気づかなかったが、そこにも席があったのだ。彼女の姿が消えた辺りに、おそらくは男物のジャケットがちらと見えた。
「岡野さん、出ようか」
声をかけられて私は我に返る。
無理に笑っているのが分かる固い表情で、補佐は私を見下ろしていた。
私は頷き、荷物を手に取った。
その後すぐに私たちは店を出たが、会話はない。補佐の振る舞いはいつも通り紳士的で優しかったがどことなく上の空だ。先ほどの女性のことで占められている――そんな様子がうかがえた。
私は前を行く補佐の背中を見つめながら、少しだけ距離を置いて歩いていた。
今日こそは自分の気持ちを伝えようと決めて来た。あの店にいる間にそれができなかったことを、本当であれば後悔しているはずだった。ところが私の頭をいっぱいにしているのは、帰り際の一件のことだった。補佐をここまで動揺させたあの人は誰なのかと疑問に思いながらも、きっと昔の恋人に違いないと察していた。可能ならば補佐の口から事情を聞きたいと思うけれど、私にはそれを聞く権利はない。
タクシー乗り場が見えてきた。
普段の補佐であれば、一緒に乗って送っていくよと言ってくれるだろう。けれど今夜は、私がタクシーに乗るのを見届けたら、私には想像できない複雑な気持ちを抱えながら一人帰って行ってしまうような気がした。
補佐が不意に足を止めて振り返り、ぽつんと言った。
「色々ごめん」
どうして謝るんですか――。
そんな言葉が出そうになったが飲み込んだ。その代わりの言葉を思いつかなくて、私は口ごもった。
「いえ、あの……」
すると補佐はくるりと向きを変えて、私の正面に立った。
「もう少し、時間ある?……話しておきたいことがあるんだけど」
街灯と道沿いの店から洩れる明かりが、補佐の表情を照らす。その顔が穏やかな表情を取り戻したように見えてほっとする。私は彼を見返して頷いた。そして決心する。
私も今夜こそ話そう――。
そんな決意を抱いたまま、補佐に連れられて行ったのはバーだった。木目調の分厚い扉を開けると、ドアベルがレトロな音を鳴らした。店の中は全体的に暗めで、所々に間接照明が置かれている。平日の夜だからか客の姿はまばらだった。
補佐は店の常連でもあるのか、出迎えた店員の男性と気安い様子で挨拶を交わした。
店員は私に気づくと補佐に訊ねた。
「お二人、ですか?」
補佐が頷くのを見ると、私に笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ」
案内されたのは、奥まった席だった。丸いテーブルと、座り心地が良さそうなソファが周りに三つ置かれていた。真正面で向き合うよりは気が楽だが、互いの距離が少しだけ近く感じられそうな配置だと思った。
私たちが腰を下ろすと、その店員はトレイの上に乗せていたおしぼりや、お通しと思われる小皿をテーブルの上に並べた。小脇に挟んでいたメニューを補佐の前に置くと、なぜかまた私に向かって笑みを向ける。
反応に困ったが、私はひとまず愛想笑いを返した。
「お決まりになったら、お声がけくださいね」
店員はそう言うと、軽く一礼して去って行った。
補佐は疲れたようなため息を一つついたが、すぐに気を取り直した様子で私の前にメニューを開いて置いた。
「何か飲み物でも頼もうか」
「はい」
返事をしてメニューに目を落とす。
この後のことを考えると、軽いものにしておいた方がいいのだけど――。
そう思いつつ文字を追っていたら、ちょうどいいドリンクを見つけた。
「私はこれにします」
補佐は軽く眉を上げた。
「ノンアルコールカクテル?これでいいの?」
「はい」
「じゃあ、俺は……これを一杯だけ」
「どうぞ、遠慮なさらず」
「ははは。ありがとう」
心ここにあらずのような顔で、補佐は笑う。それからカウンターの方に体を向けると、合図するように片手を上げた。
席に案内してくれた店員がすぐにやってきた。
「お決まりですか」
「これと、これを」
「かしこまりました」
店員は注文を取り終えて立ち去る時、意味ありげな顔で補佐をちらりと見た。
補佐本人はその視線に気づいていないようだったが、それを見た私は気になってしまう。カウンターの内側に入った店員が忙しそうに立ち働いているのを、私はじっと眺めていた。
すると、彼は私の視線に気がついて盛大な笑顔を作った。
我に返った私が慌てて店員から視線を外したタイミングで、補佐が言った。
「あの店員が気になる?」
「いえ、気になると言いますか……」
語尾を濁らせ目を伏せる私を、補佐は頬杖をついてじっと見た。
「ふぅん?さっきからずっと見てるみたいだけど」
「さっきって……」
いつから観察されていたのだろうと思ったら、恥ずかしくなった。
「匠、彼女をいじめちゃかわいそうだろう」
そこに例の店員がやって来た。補佐を見下ろすようにして立っている。
彼女――。
そこに特別な意味などなく、単なる三人称だと分かってはいても、その響きに思わずどきりとしてしまう。
しかし補佐はその言葉に反応した様子はなく、むっとした顔で店員を見上げている。
「いじめてなんかいない。それよりも営業用の口調じゃなくなってるぞ」
「お前相手なら別にいいだろ」
あははと笑って、店員は私たちそれぞれの前に飲み物を置いた。
「こちら、ご注文のお飲み物です。それと」
彼はいったん言葉を切って、私の前にだけスイーツの乗ったお皿を置いた。
「……あの?」
「当店人気のデザート、ティラミスです。サービスだよ」
「あ、ありがとうございます」
私は礼を言ってから、おずおずと店員に訊ねた。
「私だけですか……?」
店員は頷いた。
「こいつは甘いものが苦手だからね」
「そうなんですね」
補佐が不機嫌そうな顔で店員を見た。
「もう仕事に戻れよ」
「初対面なんだから、自己紹介くらいさせてくれたっていいだろ」
仕方ないとでもいうように補佐は肩をすくめた。
「手短にどうぞ」
「はいはい。ということで改めまして。俺は匠の親友で、一応ここのオーナーやってる築山慎也って言います。よろしくね」
「慎也、もう終わり」
「早っ。もう少し彼女と喋りたいんだけど」
築山さんは唇を尖らせて不満そうな顔をしたが、補佐はそれを冷たくあしらった。
「お客さんがお前のこと呼んでるみたいだぞ」
築山さんは苦笑した。
「邪魔者は消えればいいわけね」
そのまま立ち去るのかと思ったら、彼は笑顔で私に言った。
「こいつ、分かりにくい所が色々あるけど、いいやつなのは間違いないよ。よろしく頼むね」
よろしく頼むって――。
その言葉にも深い意味がないことは分かっていたが、どきりとする。窺い見た補佐の表情は変わらない。そのことにほっとしたが、私のことはなんとも思っていないのかと、平坦なその反応に少し傷ついた。
「あっちへ行けって」
補佐がほんの少し苛立った様子を見せた。
「あとはもう邪魔しないからそんな顔するなよ。――それではどうぞごゆっくり」
築山さんは仕事モードの笑顔で一礼すると、私たちに背中を向けた。
はあっとため息をついて、補佐は申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、賑やかなやつで」
「いえそんな。とても気さくな方ですね。補佐の親友の方なんですね」
補佐は苦笑した。
「一応ね。たぶんあいつが、俺の事を一番よく知ってるかもしれない」
築山さんは、補佐が過去にどんな人と付き合っていたのかを知っているということだろうか。例えばさっきの女の人のことも?聞いたら教えてくれるだろうか――。
そんな考えが浮かんで慌てる。私は急いで頭の中からそれを振り払った。
「乾杯でもする?」
「そうですね」
私たちはグラスを軽く触れ合わせた。透き通った音が鳴る。
その音を聞きながら、何に対しての乾杯なのだろうと複雑な気持ちになった。
綺麗なノンアルコールカクテルだ。けれど今、私にはその色や味をじっくりと味わう余裕がなかった。とくとくと小刻みに鼓動が震え始めている。
――今夜こそ言おう。
私は姿勢を正し、口を開こうとした。
しかし口を開いたのは補佐の方が早かった。
「さっきのことだけど」