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私はごくりと生唾を飲み込んだ。あの女性のことを話そうとしてくれているのかと、息を詰めるようにしながら、私は補佐の言葉の続きを待った。
補佐は組んだ手の上に顎を乗せると、ゆっくりと口を開いた。
「あの人は……」
言いにくそうにいったん言葉を切った後、再びゆっくりと話し出す。
「妻だった人なんだ」
つ、ま……?元カノではなく、元妻?補佐は過去に結婚していたことがあるということ?
「あ、の…」
頭がうまく働かない。私はぎこちなく、ゆっくりと瞬きをした。どんな反応をすればいいのか分からない。言葉がすぐに出てこない。
今どきバツイチなんて珍しいことではない。きっと色々な事情があっての選択だったと思うし、その別れ方にも様々な形があるだろうと理解している。
ただ、補佐たちはあまりいい別れ方ができなかったのかもしれないと思った。それはさっきの二人、特に補佐の様子からそう想像できた。
補佐は上目遣いで私をそっと見た。
「驚いたよね」
「はい……まぁそれは……」
補佐は目を伏せると、静かにけれどはっきりとした口調で続けた。
「このことは、今の会社の人間は誰も知らないはずだ。離婚したのは六年くらい前のことで、この会社に転職したのはその後だったからね。唯一知っているのは、俺を拾ってくれた社長くらいかな。だからそれ以外だと、岡野さんに話したのが初めてだ」
「そうでしたか……」
そんな反応しか返せなかった。心の準備をする暇もなく突然入ってきた情報だ。それを処理するのに頭が追いつかない。
「ごめんね。こんな話は聞きたくなかったと思うけど、岡野さんには伝えておきたかった」
補佐は苦しそうな顔をしている。本当は思い出したくなかったとでもいうように。
疑問が口を突いて出た。
「どうして私に?」
補佐は私の問いに低い声で答えた。
「あの時の岡野さんが、傷ついたような目で俺とあの人を見ていたように感じたから」
「それは……」
私は唇の端を軽く噛んだ。自分がそんな目をしていたとは、全然気づかなかった。補佐はそれを見て、私の想いに気づいてしまっただろうか。けれどもしそうなら――。
「補佐、私……」
私は弾かれたように身を乗り出すと、今日こそは伝えようと思っていた言葉を口にしようとした。
ところが補佐はそれを止めるかのように話し始めた。
「岡野さんからあの店を指定された時も、例え偶然にだって絶対に会うことはないと思っていたけれど……」
補佐は大きなため息をつくと、組んでいた手を崩して片方の手を額に当てた。
「あんな偶然。まさか、あの人と顔を合わせることになるなんて思っていなかった……」
それを聞いて、私は悟った。以前あの店に一緒に来たその相手は元妻である、あの女性だったのだ。なぜ別れたのか、補佐のあの表情と態度の理由が気になった。
思いつくのは性格の不一致、不倫、暴力くらいだ。しかし補佐が相手に暴力をふるうような人だとは思えない。もしもそれが理由だったとしたら、あの時あの人が補佐の腕に自ら手を伸ばすようなことはしないと思うのだ。
補佐は自分の手元に視線を落とした。
「あの人に会ったら思い出してしまった。どうして俺たちが離婚したのか。そのもともとの原因がなんだったのか」
私は黙って補佐の話に耳を傾ける。
「離婚を決めてからも色々あった。あんな思いをするのはもう二度とごめんだと思った。それならこの先、誰のことも好きにならなければいいんじゃないかと、単純にそう思った。それなのに白川さんを好きになった。離婚してから四年ほどが過ぎていて、色々と落ち着き出した頃だったと思う」
遼子さんを好きになったその頃のことでも懐かしんでいるのか、補佐の表情が和らいだ。
「その話の顛末は知っているよね」
補佐は微笑んで私を見た。
「結果的には振られてしまったけど、あの時分かったんだ。離婚を経験して、この先はもう誰も好きにならないなんて思ったくせに、俺はまだ誰かを好きになったりするんだ、ってね。それともう一つ。誰かを好きになるっていう気持ちは、ブレーキをかけようとしても止められないものだっていうこともね」
それはよく分かると思った。私も同じように思ったことがあったから。
「白川さんに振られたのを最後に、恋愛をしたいとは特に思わなくなっていた。任される仕事が増えて忙しくなったせいもあるけど、好きだとか嫌いだとか、そういうのを煩わしく感じるようになっていた。ところが」
補佐は言葉を切ると、水滴だらけになったグラスに手を伸ばした。喉を湿らせてから再び口を開く。
「気になる人ができた」
「気になる人……」
その言葉に頬をはたかれたような気がした。
「最初はただ単純に気になったくらいで、どうこうなりたいっていう気持ちは全然なかった。でもいつの間にか、その気持ちが変化し始めていることに気がついた。だけど自分の気持ちを信じられなくて、そんなわけはないと自覚するのにだいぶ時間がかかってしまった」
そんな人がいたのに、私と食事に行ったりしていたのかと思うとショックだった。補佐と一緒にいられることを喜んだり緊張したり、浮かれたり舞い上がったりしていた私は、なんて間抜けなのかと恥ずかしい。
「この気持ちを認めてからは、その人とゆっくりと距離を縮めていきたいと思っていた。だけど、他の男と仲が良さそうな場面を目にしたり、出くわしたりする度に、居てもたってもいられないような、焦りに似た感情が湧き起るようになった。そんなことが度々続いたある時、俺はとうとう衝動的に行動してしまった。営業から戻ってきたあの日、二人の間に何かがあったような空気を感じたら、今動かないと後悔する――そう思ったんだ」
冷静で穏やかな補佐をそこまでにしてしまうほどの人なのかと、彼女を羨ましく思う。そこまでの存在にはなれなかった自分が悲しい。
泣きたくなるのを我慢して補佐の顔をそっと見あげた時、彼の視線とぶつかった。彼は僅かに眉根を寄せながらも、微笑みを浮かべて私を見ている。
「だけど、行動を起こしたことを少し後悔している。あの人に会って昔を思い出してからは、俺を慕ってくれている目の前のその人に、このまま素直に気持ちを伝えていいのだろうかと迷っている。俺はバツイチだ。女性一人を幸せにできなかった男だ。そんな俺はその人の隣にいてはいけないんじゃないかと思っている。その人には、気を許せるお似合いの同期の男がいるから」
補佐を慕っている?目の前の人?同期の男……?
まるでクイズのような話の内容に、私は混乱する。自意識過剰と思われるかもしれないが、今の言葉には思い当たるところがいくつもあったと思う。私はつぶやくようにぼそりと言った。
「『その人』というのは、まさか私……?」
補佐の口元が僅かに緩んだように見えたが、彼は私を見つめたまま、否定も肯定もしない。
私はため息をついた。彼が私の質問に答えようと答えまいと、今夜私が伝えたいと思っていた言葉は一つしかないのだ。私は気分を落ち着かせるために何度か胸を上下させて息を整えると、緊張でかすれそうになる声を励まして口を開いた。
「私は補佐が、好きです。補佐の過去がどんなものであってもその気持ちは変わりません。補佐の傍にいたいと思っています――」
ようやく言えた。言い切ったという安心からか、涙があふれそうになった。それをごまかすために何度か瞬きしたら、一滴頬を伝う。こんな時に涙を見せるのは卑怯だと、私は慌てて頬を拭いた。
補佐がおもむろに口を開いた。
「――俺といる時の岡野さんは、いつもほんの少し困ったような顔で笑っているんだ。気づいていた?」
「え?」
「でもね。宍戸といる時の君は、本当に自然に楽しそうに笑っているんだ」
「何を、おっしゃりたいんですか?」
低い声で訊ねる私を見て、補佐は微笑みながら目を伏せる。
「さっきも言ったけれど、君は宍戸の傍にいた方が幸せなんじゃないかな」
「それは、どういう意味です?」
「宍戸はきっと、君のことを大切にしてくれるよ」
「どうして今ここに、宍戸の名前が出てくるんですか?」
膝の上で組んでいた手に力がこもる。今話しているのは私と補佐のことなのに、まるで宍戸を勧めるような言い方をするなんてと、自分のことは棚に上げて恨めしい気持ちになった。
再び泣きたくなるのをこらえて、私は言葉を続ける。
「補佐が何を言いたいのか、どうしたいのか、全然分かりません。私に他の人を勧めるくらいだったら、最初からきっぱりと振っていただいた方が良かった。まるで私に気持ちがあるような、そんな思わせぶりなことを言わないでほしかった。あんな風に言われたら、もしかしたら、あるいはいつかは、って期待してしまうじゃないですか」
「すまない……」
補佐のかすれた声がした。
「岡野さんの言うとおりだ。君の気持ちに対する答えがまだ出ていないのなら、わざわざ言うことじゃなかったし、確かにずるいよな。でも、君に言ったことは思わせぶりでも何でもない。……あぁ、こんな言い方は君の気持ちをつなぎ止めておこうとしているようで、卑怯だな」
私たちの間に重苦しい空気が漂う。
「私にどうしてほしいですか?」
私は静かに訊ねる。
「おっしゃって下さったら、その通りにします。今後はこんな風に会ったりしないというのなら、もちろん私からお誘いするようなことはしませんし、教えていただいた連絡先も消します。でも、少しでも私に気持ちがあるのなら……」
補佐が息を飲む気配が伝わってきた。
「私とのことを、考えてみてはいただけませんか」
自分からこんなことを言うのは、かなり勇気のいることだった。けれど私は言わないで後悔するのではなく、言って後悔する方を選んだ。補佐が私とはもうこんな風には会わないと言うのなら、それは受け入れようと思う。傷つくことにはなっても後悔はしない。むしろ、きっぱりと振ってもらうことで前に進めると思うから。
しかし補佐は言う。
「もう少しだけ時間をくれないか」
もう少しとはどのくらい?
そう思いはしたが、結局私は頷いた。
「分かりました。補佐の答えが出るまで待ちます」
「ありがとう」
礼を言う補佐の声に苦悩めいた感情がにじんでいるように思えた。