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「あの人は、妻だった人なんだ」
山中の口からこぼれた言葉は、みなみに動揺を与えることになった。
これだけ素敵な人が、過去に恋人の一人もいなかったはずはないと思ってはいたが、結婚歴については想像していなかった。しかし今どきバツイチなど珍しくはないし、様々な理由や事情があっての結果だったのだろう。とは言え、彼女への彼の態度を思い出すと、少なくとも山中はまだその過去を消化しきってはいないように思える。
その理由が何であるかと考えて黙り込んでしまったみなみを、山中は上目遣いで見る。
「驚いたよね」
「それは、はい……」
山中は固い表情で続ける。
「このことは、今の会社の人間は誰も知らないと思う。離婚したのは今から六年程前のことで、この会社に転職したのはその後だったからね。知っているのは唯一、俺を拾ってくれた社長くらいかな。だからそれ以外だと、岡野さんに話したのが初めてだ」
「そうでしたか……」
「ごめんね。こんな話、聞きたくなかったと思うけど、岡野さんには言っておきたかった」
みなみは首を大きく横に振った。それは聞きたいと思っていた内容だ。しかしなぜ、話そうという気になったのか、その訳を知りたくなる。
「どうして私に、そのお話を?」
おずおずと訊ねるみなみを見て、山中は眩しそうに目を細める。
「そうだな……。あの時、俺とあの人を見る岡野さんが、傷ついた顔をしたように見えたから、かな」
まさか自分がそんな表情をしていたなんてと、みなみは息を飲んだ。
山中は大きなため息をつき、ソファに背を預ける。
「岡野さんからあの店を指定された時、例え偶然にだって、あの人に会うことは絶対にないと思っていたんだけどね。なのに、まさかあんな風に出くわすとは全く予想もしていなかった」
彼の話からみなみは悟った。以前彼があの店に一緒に行った相手は遼子ではなく、その時妻であったあの女性だったのだ。そして、二人が別れた理由が気になり出す。経験値の少ないみなみが思いつく離婚理由と言えば、不倫、暴力、性格の不一致くらいだ。しかし、山中が暴力をふるうような人だとは思えない。仮に暴力が離婚の原因だったとしたら、あの時あの人は自ら山中の腕に手を伸ばそうとはしなかったと思うのだ。
「あの人に会ったら思い出したんだ。俺たちが離婚したもともとの原因は何だったのかをね」
山中はグラスに口をつけてひと息入れてから、再び話し始める。
「離婚を決めてからも色々あった。もう二度とあんな思いはしたくないと思うくらいにね。だからこの先、誰のことも好きになるまいと思った。それなのに、俺は白川さんを好きになった。離婚してから四年ほどが過ぎていて、色々と落ち着いた後のことだったと思う」
その当時のことを懐かしんでいるのか、山中の表情が和らぐ。
「その話の顛末は知っているよね。彼女にはフられてしまったけど、あの時気づいたんだ。誰かを好きだという気持ちは、止めようとしても止められないものなんだ、っていうことをね。離婚を経験して、この先二度と誰かに恋愛感情を持つことはないと思っていたくせに、また誰かを好きになるなんてって、懲りない自分に呆れたけどね」
好きだという気持ちは止めたくても止められない――。その言葉はみなみにも十分に理解できる。
「でも、白川さんにフられたのを最後に、その後の俺にとっての恋愛は、どうでもいいものになっていた。好きだとか嫌いだとか、そういう感情を向けるのも向けられるのも、煩わしく感じていた。ところが、再び俺の心を捉える人が現われたんだ」
「心を捉える人……」
それはいったい誰なのかと、みなみは半ば呆然としながら彼の最後の言葉を繰り返した。心臓をぎゅっと掴まれたかのような痛みを感じて、顔を歪ませる。山中と一緒にいられることを喜んだり緊張したり、浮かれたり舞い上がったりと、それまでの自分を思い返して、恥ずかしくてたまらなくなった。
「最初はただ気になる程度だったのが、気づけばその人を目で追うようになっていた。これは『好き』だという感情なんだと自覚するまで、ずいぶんと時間がかかってしまったけどね。この気持ちを認めてからは、その人との距離をゆっくりと少しずつ縮めていきたいと思った。だけど、その人が他の男と仲が良さそうにしているところを目にする度に、居てもたってもいられないような、焦りに似た感情が湧き起るようになった。そんなことが続いたある時、俺はとうとう衝動的に行動してしまった。あの日営業から戻ってきて、乗ろうとしたエレベーターの中に、その人は他の男と二人きりでいた。おまけに、彼女とその男の間には何かがあったような空気が漂っていた。それを感じた瞬間、今行動しないと後悔すると思ったんだ」
山中の話を聞いているうちに、みなみの鼓動は早鐘を打ち出した。彼が話す内容に思い当たる部分があったのだ。
「だけど、行動を起こしたことを、今は少し後悔している。あの人に会って昔を思い出してしまってから、迷っている。俺を慕ってくれているその人に、自分の気持ちを伝えて本当にいいのだろうか。バツイチの俺がその人の傍にいたいと思うのは、間違っているんじゃないか。なぜならその人には、お似合いの同期の男がいる。彼といた方が、その人も幸せなんじゃないか、って……」
話し終えた山中は、みなみを真っすぐに見つめていた。
自意識過剰かもしれないと思いながらも、みなみは頭に浮かんだ疑問を恐る恐る口にする。
「『その人』というのは、まさか……」
山中は否定も肯定もしなかった。しかしその口元は優しく笑みを刻み、その瞳には切なげな光が浮かんでいた。
彼がはっきりと言葉にしないのなら、それはそれで構わない。どのみち、今夜伝えたいと思っていた言葉は一つしかない。伝えるタイミングなどこの際どうでもいい。みなみは息を整え、緊張でかすれそうになる声を励まして口を開く。
「私は、補佐が好きです。補佐の過去を知った今も、その気持ちに変わりはありません。ずっと傍に、一緒にいたい」
ようやく言い切ったという安堵のために、涙があふれた。それをごまかそうとうつむいた途端に、数滴の涙が頬を伝った。こんな時に涙を見せるのは卑怯だと、みなみは慌てて頬を拭う。
山中がおもむろに口を開く。声が優しい。
「俺といる時の岡野さんはね、いつもほんの少し、困ったような顔をして笑うんだ」
「え?」
「でもね。宍戸といる時の君は、本当に自然に、楽しそうに笑っているんだよ」
「何を、おっしゃりたいんですか?」
声が喉に張り付きそうになった。それを絞り出して、みなみは彼に訊ねた。
山中は目を伏せる。
「さっきも言ったけど、君は宍戸といた方が、幸せなんじゃないかな。あいつは君のことを絶対に大切にしてくれるよ」
みなみは膝の上で拳を握った。
「どうして今ここに、宍戸の名前が出てくるんですか?」
みなみは恨めしい気持ちになった。
「補佐がどうしたいのか、全く分かりません。他の人を勧めるくらいだったら、最初からはっきりとフってもらった方が良かった。思わせぶりなことを言ってほしくなかった」
山中はかすれた声で詫びる。
「君を傷つけてしまったのなら、本当にすまない。ただ、今言ったことは思わせぶりでも何でもなく、本心だ。……あぁ、こんな言い方は、君の気持ちをつなぎ止めておこうとしているようで、卑怯だよな。迷う気持ちを曝け出すべきじゃなかった」
二人の間に重苦しい空気が漂う。
みなみは静かに訊ねる。
「私にどうしてほしいですか?言って下さったら、その通りにします。諦めろというなら、補佐のことを忘れられるように努力します。だけどもし、そうやって迷う中にもほんの少しの可能性があるのなら、私とのことを前向きに考えてみてはいただけませんか」
みなみが今彼に求める答えは、「諦めてくれ」か「前向きに考えてみる」の二つだった。前者だった場合は、受け入れるつもりでいる。そう簡単に諦めはつかないだろうが、きっぱりとフってもらった方がむしろ早く前進できるはずだ。
しかし山中はこう言った。
「もう少し時間をくれないか」
待てないと言って彼の返事を受け入れない選択もあった。しかしみなみは、その言葉に縋りたくなってしまった。
「……分かりました。待ちます」
「ありがとう」
山中の声は苦悩に満ちていた。