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「それで、行ったのですか?」
私が訊ねると、空海は大きく頷いた。
「行ったさ。
じゃが、王冰は死んでおった。
蘇った痛みに耐えかねたのであろう。
自らの喉を掻っ切って、こと切れておったわ」
情報量が多すぎて、何から訊ねるべきか迷っていると、空海が話を続ける。
「包袱(ばおふ・風呂敷)に包まれた黄帝内径と、研究資料が部屋の隅に置かれ、そこに、ワシ宛ての文が挟まれておった…」
私が、「何と書かれていたのですか?」と訊ねると、「フッ」と寂しそうに空海が笑う。
「虚ろにも飽きた。人に戻って死んだ娘に会いに行く。お主は、妻子の為に出世せよ。と書かれておった」
二人の沈黙を埋めるように、高燈台からジリジリと燈心の焼ける音が聞こえてくる。
「分かりませぬ」
思わず発した私の呟きに、空海が笑顔を向けてくる。
「何がじゃ。何が分からぬ」
「王冰の悲しい最後を見届けた貴方が、何故、王冰と同じ虚ろになろうとするのですか?」
空海は、少し照れたように右手の人差し指で頬を掻きながら、こう言ったのだ。
「ワシは、あの日から三十七年の長きに渡り罪を償ってきた。
そろそろ、許されても良い頃だとは思わぬか?」
私は素直に頷いた。
「はい。遅いくらいだと思います。
しかし、だからといって虚ろを望む理由にはなりませぬ。
何故なのですか?」
「己の愚行と向き合う為に、死という逃げ道を塞いだ。
罪を償う為に坊主にもなった。
そして、妻子の死を無駄にしない為に出世もした。
もう十分じゃ。
しかし、ここまで来たら、もう少し先が見たくなったのだ。
だから、仏陀と同じ世界に棲んでみたいと思った。
王冰が見た世界を、ワシも見てみたくなったのじゃ…」
私は、空海の話が終わると、空海の背後に浮かびあがる胎蔵曼荼羅に目をやった。
「なるほど、それで私を弟子にしたのですか…
いくら貴方でも、自分で自分の雨を抜くことはできない。
それに、不老不死の法は虚ろ(うつろ)か、俄か(にわか)にしか施せないと黄帝内経にも記されています。
だから、わざわざ綜芸種智院まで開いて、俄か(にわか)である私を探し出し、弟子としてここまで育て上げたのですね。
鍼の知識に乏しい貴方にとって、鍼医者の息子であることも好都合だった。
そうか、だから霊枢の弟子は私一人なのか…」
独りで納得する私を無視した空海が、笑いながらこう言った。
「タダでとはいわぬ。
ワシを不老不死にするのと引き換えに、お主に名をやろう。
湧き立つ雲のように、白く靄(もや)った雨(邪気)を祓うという意味で、白雨(はくう)というのはどうじゃ」
私が空海を睨むと、空海も私を睨み返してくる。
「雨を完全に抜き切れば、自らを攻撃する要因が無くなるので、老化を遅らせることは出来たとしても、虚ろにはならぬでしょう。
ましてや不老不死など…」
すると、空海が満面の笑みを浮かべる。
「ワシが教えてやろう。
鑑真が王冰に施した不完全なものではなく、完全な不老不死の法を…」
S.T.M.yo
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コメント
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第27話、読み終えました…!空海の「もう十分じゃ」という言葉に、37年もの償いの重みがじんわりと伝わってきました。王冰の最期があまりに悲しくて、でも空海がその同じ世界を見たいと願う気持ち、複雑です。そして“白雨”の命名シーン、胸が熱くなりました。名前には祈りが込められているんだなと感じます。続きが気になります…!