それから数日がたったその夜、みなみはとある店の前にいた。山中が答えを保留にしている理由の手がかりを何かしら得られないものかと思い、彼の親友の店にやって来たのだ。
本来なら山中本人に聞くべきなのは分かっている。しかし彼は多忙だったし、答えをもらえるのを待つと言った手前、こちらから連絡しにくい。そこで他力本願であることは承知の上で、彼をよく知る人物を訪ねてみようと思いついた。それは、みなみにしてはだいぶ勇気を振り絞った末の行動だ。宍戸の体当たり的な行動から影響を受けてしまったのかもしれない。
みなみはドアノブに手をのばした。そのひんやりとした金属部分に触れた瞬間、迷いが生まれて慌てて手を引っ込めた。こんな方法はやはり取るべきではないと思い直し、店の前から立ち去ろうとした。ところがみなみに声をかける者がいる。
「こんばんは」
みなみは恐る恐る振り返った。山中の親友である築山が立っていた。買い物にでも出ていたのか、手にビニール袋をぶら下げている。
「こんばんは」
みなみはどきどきしながら築山に挨拶した。
彼はしばらくみなみの顔をしげしげと見ていたが、さほど間を置かずに嬉しそうに笑った。
「君、この前匠と一緒に来た人だよね」
「はい、先日はご馳走さまでした」
「どういたしまして。匠と同じ会社の人だったっけ?今日は一人?」
「はい」
築山はにこにことみなみに笑いかける。
「ありがとね、飲みに来てくれて」
「え、えぇと……」
みなみは言葉を濁した。にこにこした築山の顔を見てしまった今、帰りますとは言いにくい。
「さ、どうぞ入って」
「は、はい……」
築山はドアを開け、みなみの先に立っていそいそとカウンター席まで案内する。
「ここの端っこの方に座ってもらえる?その方が話しやすいから」
「はい」
カウンターに入った築山は、そこに控えていた他のスタッフに声をかける。
「ここは俺がやるから、ホールの方頼める?」
「はい、分かりました」
そのスタッフがホール側に出て行ったのを見て、築山は改めてみなみに向き直った。その視線は、まるで頭の中まで見透かすかのようだ。
みなみは居心地が悪くなり、落ち着かなくなった。ここに来たことは、今夜のうちに山中の知る所になるだろう。その結果彼を怒らせることになってしまったらどうしようかと、今になって恐ろしさに青ざめる思いがしてきた。やっぱり帰ろうとバッグをつかんだ時、築山の声が飛んでくる。
「岡野さん、って言ったっけ?良ければ下の名前も教えて?」
立ち上がるのを諦めて座り直し、みなみは素直に答える。
「『みなみ』と言います」
「みなみちゃん、ね。これ、メニューね。何がいい?俺これでも一応バーテンなんで、そこに載っていない物でもいいよ。なんでも作れるから」
みなみはメニューの中をざっと眺め、少し迷った後、結局飲み慣れているカクテルの名を伝える。
「カシスオレンジをお願いします」
「了解。少し待っててね」
築山は手際よくカクテルを作り、ナッツを入れた小皿と共に、それをみなみの前にことりと置いた。
「どうぞ」
「いただきます」
みなみは礼を言って、早速グラスに口をつけた。築山の顔を見た時からずっと緊張が続いていて、口の中が少し乾いていた。喉を潤してグラスをテーブルに戻した途端、築山が前置きなく問いかけてきた。
「匠のことで来たのかな?」
みなみは答えに迷った。しかしここまで来て、ごまかす意味も必要もない。素直に頷き、言い訳じみた説明を付け加える。
「ご本人に直接聞くべきなのは分かっているんです。でも、補佐はお忙しいので……」
それは逃げの言い訳なのかもしれない。電話をかけても出ない、折り返しがない、メッセージを残しても返信がない、などという現実に直面して傷つきたくないというのが、みなみの本音だった。
「あいつ、相変わらず忙しいんだ?」
「はい。会社ではほとんどお見掛けしません。私が会社にいる間は、という意味ですが」
「そっか。そういやあの後、また二人で会ったりは?」
「いえ……」
会えていたなら今夜ここには来なかっただろうと、みなみは苦い笑顔を作った。
築山が静かな口調で話し出す。
「実を言うと、匠から頼まれていたんだ。もし君がここに来ることがあって、その時に何か訊ねられたりしたら、俺の口から答えてやってくれ、って」
「あ、あの、私のこと、何か聞いてらっしゃるんですか……?」
みなみはおどおどと築山に訊ねた。
彼は首を横に振る。
「何も聞いていないよ。だって俺はあの時まで君のことを知らなかったからね。匠に連れられてきた君を見た時、驚いたよ。だって、あいつが親友の俺のこの店に女性を連れて来たのは、君が初めてだったからね。だからそれで察したんだ。匠にとっての君がどういう存在なのかってことをね」
築山はみなみに微笑みかけ、それから苦笑いを浮かべる。
「それでね。話は戻るけど、俺、匠に何度も言ったんだ。自分のことなんだから自分で言えよ、って。それなのにあのバカは、自分で話すとそこにマイナスの感情が入ってしまうのが嫌だ、とか言うわけ。第三者目線で客観的に話された方が、聞いた側は冷静に判断しやすいはずだ、と。とにかく、匠がそんなことをいう話と言えば、もうあのことしかないんだよね。で、君が何を聞きたがっているのかも、あいつはちゃんと分かってるということだね」
築山は目元を緩めてみなみを見る。
「たぶん君は、ここに来たことを匠に知られたくないと思っただろうけど、あいつも了承済みだから心配いらないよ。俺の話せる範囲になるけどね。ただその前に確認したいんだけど」
築山の真剣な表情を前にみなみは緊張する。
「みなみちゃんは、匠のことが本当に好きなの?」
彼にとっても山中は大事な人だからこその質問なのだろう。築山の視線をみなみは真っすぐに見つめ返す。
「本当に、真面目な気持ちで好きです。受け入れてもらえるのなら、ずっと補佐の傍にいたいと思ってます。ただ……」
みなみは目を伏せる。
「こんなこと、会って間もないような方に話すのは恥ずかしいんですが、実は先日補佐に気持ちを伝えたんです。だけど、返事は待ってと言われて……。すぐに答えを出せない原因は過去にあるようでした。だから、それを知りたいと思ったんです」
「なるほどね……」
しみじみと築山はつぶやいた。
「みなみちゃんの気持ちは分かった。というか、本当は前回会った時にはもう知ってたんだけどね。意地悪なこと聞いてごめんね。さて、本題に入ろうか。聞きたいのは、あいつの離婚に絡む話でいいのかな」
みなみはこくんと首を縦に振る。
「実はあの日、ここに来る前に偶然会った女の人がいたんです」
「あぁ……。だから、あの日の匠、ちょっと荒れ気味だったのか」
築山は眉根を寄せ、忌々し気に顔をしかめる。
「それに関しては、俺も冷静に話せる自信はあまりないんだけどね」
築山は眉間にしわを寄せ、みなみに確認を取るように訊ねる。
「本当に知りたい?別に知らないままでもいいと思うんだけどね、俺は」
「いえ、教えて下さい」
みなみのきっぱりとした様子に築山はため息をつく。
「分かった。心にわだかまりを持ったままでいるよりは、いいのかもね」
築山はみなみに優しく微笑みかけ、おもむろに話し出した。
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