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決算業務の終わりが見えてきて、みなみが担当していた分も一区切りついた。
その日のルーティン業務が少しだけ残っている。あとちょっとだと自分を励ましてそれに取り組み、ようやく退社できる状態になってデスク周りを片づけて引き出しに鍵をかけたところに、課長の声が飛んできた。
「岡野さん」
「はいっ!」
みなみは席を立って課長のもとへと急ぐ。
「もう帰るって時に悪いんだけど、ちょっとお願いがあるんだ。これをね、資料室に戻してほしい。その後はそのまま帰っていいから」
課長のデスク脇には、ファイルが数冊入った段ボール箱がひとつ置かれていた。台車を使うまでもなさそうな量だ。みなみは箱を持ち上げる。
「承知しました。では、お先に失礼します」
「お疲れ様。悪いね。助かるよ」
みなみは課長に挨拶した後、倉庫に向かった。誰もいない廊下を進みながら、数か月前の『事件』をふと思い出した。その舞台だった倉庫は今日も相変わらずひっそりとしている。
中に入り備品置き場を過ぎたところで、段ボール箱をいったん床に下ろし、首にぶら下げた社員証を入り口のセンサーに近づけた。この先は重要書類を保管している場所でもあるから、きっちりと入室管理がなされているのだ。ロックの解除音を確認して、みなみは再び箱を持ち上げて資料室の中に足を踏み入れた。
天井に届く高さのキャビネットが等間隔に並んでいる。端っこにある小さな作業台に箱を置き、ファイルを数冊ずつ胸に抱えながら戻すべき場所を探す。さほど時間をかけることなく資料を棚に戻し終えた。
「よし、帰ろう」
空になった箱に手をのばしかけた時、資料室のドアが開いた。
「あれ?電気がついていますね」
宍戸の声がした。なんと言って出て行こうと考えたところに新たな声が聞こえてきて、みなみはどきりとする。
「誰かいるんじゃないのか」
山中の声だと分かった瞬間、みなみはキャビネットの影に身を隠した。
「誰かいるなら顔を出すんじゃないですか。消し忘れかなんかですかね」
「だとしたら、改めて注意喚起が必要だな。まずは探そう」
「はい。俺は去年の四月の所から見てみます」
「あぁ。頼んだ」
二人の会話を聞きながら、みなみは息をひそめてじっとしていた。今頃になって出て行くのはためらわれるし、気まずい。二人が出て行ってから、こっそりと自分も外に出ることにする。
「ありました。これでしょうか」
しばらくして、比較的入り口に近いキャビネット付近で宍戸の声が聞こえた。
「ちょっと見せて。あぁ、うん、これだな。あとは……」
すぐ近くに彼がいると思うと、胸が苦しい。みなみは胸元を抑えながら、彼の気配に意識を向ける。
山中の離婚の経緯は、築山から聞くことができた。それを知っても、やはり彼への気持ちは変わらなかった。あれからずっと、そのことを早く伝えたいと思っているが、山中からはまだ何の連絡もない。日が経つにつれて、いつまで待てばいいのだろうと、切ない気持ちが大きくなっていく。どんな答えでもいいから、自分を縛るこの鬱々とした感情から早く解放してほしいと思う。
「戻ろう」
山中の声が耳に入り、追いすがりたいような気持ちになりながらもほっとする。
その時、宍戸が山中を引き止めた。
「待ってください。少し話があるんですけど」
「話?今?」
山中の訝し気な声が聞こえる。
「はい。今です」
「会議室に行こうか?」
「いえ、ここで大丈夫です。仕事の話じゃないんで」
息を飲む山中の気配を感じる。
「……何の話だ?」
間髪入れずに宍戸は答える。
「岡野のことです。こう言えば分かりますよね」
二人の間に緊迫した空気が流れたような気がして、みなみもまた緊張する。宍戸が何を言おうとしているのか気になって、キャビネットの隙間から二人の様子をそっと覗く。
「なんのことか分からないな。もう行くぞ」
山中がふいっと背を向けた。
その背中に向かって宍戸は鋭い声をぶつける。
「逃げるんですか」
山中が足を止めた。しかし向こうを向いたままだ。
宍戸は続ける。
「俺、知ってるんです。岡野が補佐の答えを待ってるってこと」
山中がかすれ声で問う。
「彼女がお前に話したのか」
みなみは今すぐ飛び出して行って、宍戸の口を塞ぎたいと思った。山中との間のことを全て宍戸に打ち明けているなどと、あらぬ誤解をされたくなかったのだ。しかし結局、出て行くべきかどうか迷ったものの、みなみはその場を動けなかった。
「あいつは何も言ってませんよ。俺がそう仕向けて聞き出しただけです」
「何が言いたいんだ?」
山中の声は固い。
宍戸は彼を真正面から見つめ、ゆっくりと告げる。
「俺が岡野をもらってもいいですよね」
その話はもう決着がついているはずだ。それなのに宍戸はまだ諦めてはいないのかと、みなみは動揺する。
「もらうとかもらわないとか、岡野さんは物じゃないだろう。ほら、もう戻るぞ」
それ以上話を聞くつもりはないのか、山中はドアの方へ向かって歩き出した。
そんな彼の腕を宍戸は捉えて引き留める。
「待ってください。答えて下さい。岡野が物じゃないなんて、そんなことは分かってるんです」
山中が振り向いたのを見て、宍戸は彼から手を離す。
「とにかく、岡野のことを何とも思っていないのなら、補佐はもう、あいつには近づかないで下さいね。俺は全力であいつを堕としに行きます。だから邪魔はしないでください」
「どうしてわざわざ、俺にそんなことを言うんだ」
山中の声には明らかな苛立ちが混じっていた。
「まだそんなことを言うんですか……。じゃあ、いいんですね。俺があいつを抱いても」
「何を急に、訳の分からないことを……」
「岡野を俺のものにするためには、そういう手段もあるってことですよ」
宍戸は壁に背を預けて立ち、話し続ける。
「俺は、これまで何度も岡野に気持ちを伝えてきたんです。でもその度に、補佐のことが好きだからってフられました。こないだなんかはもう我慢できなくなって、あいつが弱ってるのをいいことに、いっそこのまま抱いてしまおうかとも思ったんですよ」
「お前いったい……」
山中の口から低く静かな声がもれた。みなみの耳にそれは、感情の発露を抑え込もうとしている声に聞こえた。
「もちろんそんなこと、できませんでしたよ。だって、あいつ、泣くんですよ。補佐の名前を言って。だから俺は……」
宍戸は言葉を切って、自分の足元に視線を落とした。
「補佐が岡野の気持ちを受け入れられないっていうんなら、さっさとフってやってくれませんか。そうすれば、あいつだって諦めがつくはずだ。そもそも選択肢なんてものは、『イエス』か『ノー』かのどちらかしかないんだから、答えは簡単でしょ。俺は、あいつが泣く顔なんて見たくないんですよ」
山中は声を絞り出す。
「彼女のことをなんとも思っていないわけじゃない。俺だって本当は、そんな顔をさせたいわけじゃないんだ」
「だったらどうして、すぐに岡野の気持ちに答えてやらないんですか。俺なら絶対に岡野を泣かせたりしない。だから、最初の話に戻りますけど、岡野は俺がもらいますから」
宍戸は断固とした口調で言い、山中の顔を見据えた。