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赤桃・桃赤
「人之子。__之子。」
――捨てられた命が、拾われた夜。
人は、いつ“生まれた”と呼ばれるのだろう。
母の腹から出た瞬間か。
名を与えられた時か。
それとも――生きる理由を与えられた時か。
俺が本当に生まれたのは、きっと、あの夜だ。
*
雨が降っていた。
音もなく、冷たく、世界を洗い流すような雨だった。
路地裏のコンクリートは黒く濡れ、ゴミ袋の隙間から滴が落ちて、規則正しいリズムを刻んでいる。
赤ん坊の俺は、段ボール箱の中にいた。
毛布は薄く、濡れて重く、体温を奪うだけの存在だった。
泣く力すら残っていなかったのか、声はもう出なかったらしい。
――らしい、というのは。
その時の記憶が、俺にはないからだ。
ただ、何度も夢に見る。
息ができないほどの冷えと、世界から切り離された感覚だけが、体の奥に残っている。
「……ちっ」
雨音に混じって、低い舌打ちが聞こえた。
革靴が水たまりを踏み、段ボールの前で止まる。
「こんなとこに、ガキ……?」
男の声は、落ち着いていて、怒りも驚きもなかった。
ただ、状況を“確認”する声だった。
段ボールの蓋が開く。
街灯の光が差し込み、俺の世界に、初めて“明かり”が落ちた。
「……生きてるな」
その男――ないこは、そう呟いた。
マフィアのリーダー。
後に裏社会でその名を知らぬ者はいなくなる男。
だが、その夜の彼は、ただの一人の人間だった。
「捨てた、か」
濡れた毛布をめくり、俺の顔を覗き込む。
眉ひとつ動かさず、冷静な目で。
「……運が悪いな。こんな世界に」
そう言いながらも、彼は俺を放置しなかった。
コートを脱ぎ、俺を包む。
迷いは一瞬だけだった。
「死なせる理由は、ない」
それが、彼の選択だった。
*
――そして、俺は“拾われた”。
名前も、戸籍も、過去もない俺は、
マフィアの屋敷で育つことになった。
ないこは、俺に名前をくれた。
「りうら。……特に意味はない。呼びやすいからな」
「俺の、名前……?」
「そうだ。今日から、お前は“りうら”だ」
その瞬間、俺は初めて“自分”になった。
人之子として生まれ、
だが、親を持たず、
血を持たず。
俺は、どこにも属さない存在だった。
――少なくとも、その時までは。
*
マフィアの屋敷は、静かだった。
銃声も怒号も、日常ではない。
むしろ、規律と沈黙が支配していた。
ないこは、感情を表に出さない。
怒ることも、笑うことも、ほとんどなかった。
だが――
「りうら。そこ、違う」
書類の読み方。
銃の分解手順。
立ち居振る舞い。
彼は、俺を“部下”として育てた。
子ども扱いは、されなかった。
だが、突き放されてもいなかった。
「俺は、お前を守らない」
ある夜、そう言われたことがある。
「ここでは、自分で生き残れ」
「……それでも、俺は……」
「――だが」
ないこは、俺の目を見て言った。
「無意味には殺させない」
それは、約束だった。
優しさとは違う。
だが、冷酷でもない。
この男なりの、保護だった。
*
俺が十五になった頃、初めて“仕事”に同行した。
取引の場。
裏切り者の処理。
血の匂い。
吐き気を堪えながら、俺は立っていた。
「逃げたいか」
ないこが聞いた。
「……いいえ」
「なら、見るんだ。目を逸らすな」
引き金が引かれる。
人が倒れる。
その瞬間、俺の中で何かが壊れ、同時に何かが組み上がった。
――ここが、俺の世界だ。
捨てられた俺が、生き延びる場所。
*
夜。
屋敷の廊下で、ないこに呼び止められた。
「りうら」
「はい」
珍しく、彼は少しだけ疲れた顔をしていた。
「お前は、自分が何者だと思う」
唐突な質問だった。
「……捨て子です」
「そうだな」
「でも、今は……」
言葉に詰まる。
「今は?」
俺は、正直に答えた。
「あなたのところにいる人間です」
ないこは、少しだけ目を細めた。
「……それでいい」
その言葉は、許可だったのか、肯定だったのか。
わからない。
だが、胸の奥が、わずかに温かくなった。
*
俺はまだ知らなかった。
この男が、
俺を“拾った”理由を。
俺が、
単なる捨て子ではないことを。
そして――
「人之子。__之子。」
その空白に入る言葉が、
血と罪と、そして選択によって刻まれることを。
この時の俺は、まだ、
何も知らずに、
ただ、生きていた。