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第八十六話 約束の場所
歩道橋を下りてから、二人はしばらく無言で歩いた。
彼の頭の中には、さっきから同じ言葉が残っている。
――ずっと、待ってて。
事故の前に交わした約束。
その約束を、今も誰かが守っている。
そう考えると、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
「……ねえ」
彼女が口を開く。
「うん?」
「さっきのメッセージ」
「『今も』ってやつ?」
「うん」
彼はスマホを見る。
画面には、まだその言葉が残っている。
「本当に、あの人が今も待ってるなら……」
「うん」
「どうして今まで何も言わなかったんだろう」
彼女は少し考えた。
「言えなかったんじゃないかな」
「言えなかった?」
「あなたが思い出してないから」
彼は足を止めた。
「……」
「もし全部知ってる人なら、直接教えることもできる。でも、その人はずっと手がかりだけを残してる」
彼女は写真を見る。
「たぶん、私たちが自分で思い出すのを待ってる」
「……そうかもしれない」
再び歩き始める。
写真に写っていた道を進んでいくと、
住宅街の中に小さな公園が見えてきた。
彼はそこで立ち止まった。
「ここ……」
「知ってる?」
「分からない。でも、見たことがある」
公園の入口には、古い時計があった。
写真の端にも、同じ時計が写っている。
二人は中へ入った。
奥にはベンチが一つ。
その前に、小さな木が植えられている。
彼はその木を見た瞬間、頭の奥に映像が浮かんだ。
晴れた日。
隣にいる誰か。
二人でベンチに座っている。
『ここなら、誰にも見つからないね』
『何が?』
『秘密』
「……秘密」
彼が呟く。
彼女が振り向いた。
「今、何て?」
「ここで……秘密の話をした」
「どんな?」
「分からない」
けれど、記憶は少しずつ戻ってきていた。
『いつか、全部話す』
『いつ?』
『あなたが忘れたとき』
「……」
彼は息を止めた。
「今の……」
「思い出した?」
「うん。でも、おかしい」
「何が?」
「『忘れたとき』って言ってた」
彼女も考え込む。
「事故のことを知ってた?」
「分からない」
そのとき、ベンチの下から紙が見えた。
彼女がしゃがんで拾い上げる。
そこには、あの印。
そして一行。
『秘密は、忘れたから隠したんじゃない』
彼は紙を見つめた。
その下には、もう一行あった。
『守るために隠した』
「守るため……」
彼女が呟く。
その瞬間、彼の頭の中に雨の日の記憶が戻った。
誰かが自分の前に立っている。
その手には、あの小さな箱。
『まだ開けないで』
『どうして?』
『今は、知らない方がいい』
『でも……』
『お願い』
そして、自分が頷く。
『分かった』
「……」
彼は額に手を当てた。
「箱は……秘密を守るためだった」
「誰かから?」
「うん」
「じゃあ、あの箱の中には……」
彼女が言いかけたところで、スマホが震えた。
知らない番号。
『箱を開けるのは、まだ早い』
彼は眉を寄せる。
『じゃあ、何が入ってる?』
既読。
しばらくして返事が来た。
『君が忘れた理由』
彼の顔から表情が消える。
「……理由?」
『箱の中には、事故そのものが入っているわけじゃない』
『事故の前に、君たちが決めたことが入っている』
彼女が画面を見る。
「私たちが……決めたこと?」
『そう』
『だから、箱を開ければ全部思い出す』
彼は手を握った。
「じゃあ、開ければいいじゃん」
『まだ駄目』
「なんで?」
返信は少し遅れた。
『思い出す準備ができていないから』
彼は苛立ちを抑えながら画面を見る。
「いつになったら準備ができるんだよ」
すると、最後のメッセージが届いた。
『君が、あの日の最後の言葉を思い出したら』
「最後の言葉……」
彼は目を閉じる。
雨。
道路。
伸ばされた手。
そして――
「……待ってて」
また同じ言葉。
でも今度は、その先があった。
『ずっと待ってる』
誰かの声。
そして自分の声。
『じゃあ、俺も――』
そこで記憶が途切れる。
彼は目を開けた。
「……まだだ」
「何が?」
「最後の一言だけ、思い出せない」
彼女は静かに頷いた。
そのとき、公園の入口に誰かの影が見えた。
二人が振り返る。
けれど、そこには誰もいなかった。
ただ、ベンチの上に――
見覚えのない白い封筒が一つ置かれている。
表には、あの印。
そして、その下に短く書かれていた。
『最後の言葉は、ここに残した』
彼は封筒を見つめた。
今度こそ、
事故の日の記憶に隠された最後の一言へ――
手が届きそうだった。
コメント
1件
うわあ、この回すごく良かったです…。「忘れたから隠したんじゃない、守るために隠した」って一文、胸に刺さりました。主人公が少しずつ記憶を取り戻していく過程が丁寧で、特に公園のベンチで「秘密」って呟くシーン、映像が浮かぶようでした。ラストの白い封筒も気になる…「最後の言葉」が何なのか、続きが待ち遠しいです!