テラーノベル
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あれから数日
私の世界は、音を立てずに少しずつ侵食されていた。
朝、マンションの集合ポストに投げ込まれた、中身のない封筒。
通勤電車で感じる、粘りつくような視線。
会社に届く、出所不明の大量の着払いの荷物。
(……冷静になれ。私は佐藤凛よ)
デスクに座り、必死にキーボードを叩く。
けれど、文字が滑って頭に入ってこない。
一度崩れた「安心」という土台は、驚くほど脆かった。
睡眠不足のせいで視界が時折ぐにゃりと歪む。
「……っ」
不意に、吐き気が込み上げた。
私は口元を押さえ、逃げるように給湯室へ駆け込む。
「はぁ、はぁ……っ……」
シンクの縁を掴み、荒い息を吐き出す。
鏡に映る自分は、かつて宏太に怯えていた「あの頃」の顔をしていた。
あんなに努力して、地位も、自信も、強さも手に入れたはずなのに。
あの男の影がちらつくだけで、私はまた、無力な小娘に引きずり戻される。
「……課長。やっぱり、おかしいですよ」
背後から聞こえた低い声に、肩が跳ねた。
振り返ると、入り口に高瀬君が立っていた。
いつもの明るい笑顔は、今の彼には微塵もなかった。
「高瀬、君……?…勝手に入ってこないで」
「顔色、死人みたいです。…さっきの会議中も、ペンを落としてるのに気づいてなかった。あんなの、課長らしくない」
「うるさいわね……放っておいてって言ったでしょ。あなたに、私の何がわかるのよ」
突き放そうとして、声が震えた。
彼は一歩、また一歩と、逃げ場のない給湯室の隅へと私を追い詰めてくる。
いつもなら「ワンコ」だなんて揶揄される彼の体躯が
今は、一人の圧倒的な「男」のそれに見えて、心臓が跳ねた。
「わかんないですよ…課長が何も話してくれないから」
高瀬君が、壁に手をつく。
至近距離で、彼の熱が伝わってくる。
「でも、これだけはわかります。今のあんたを、一人にしちゃいけないって。…今日の帰り、送らせてください。家まで、必ず」
「……っ、そんなの、ダメよ。言っておくけど、後輩にわざわざ送ってもらうほどヤワな女じゃないから───」
「そんなこと、今のあんたの命より大事なことですか?」
射抜くような鋭い眼差し。
初めて見る彼の強引さに、私の鉄壁の自制心が、みしみしと音を立てて軋んだ。
甘えたい
助けてと言いたい。
けれど、弱さを見せれば
また踏みにじられるのではないかという恐怖が、喉元で言葉をせき止める。
「…いいから、高瀬君は……定時に、帰りなさい」
私は彼の腕をすり抜け、震える脚で給湯室を後にした。
背中で、彼が舌打ちをしたような気がした。
窓の外は、もう暗い。
あの日以来、私は夜が来るのが死ぬほど怖かった。
おまる
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