果樹園での暮らしは、穏やかやった。
街の外れに広がるこの土地は、静かで、風の音と鳥のさえずりしか聞こえん。朝になれば太陽がゆっくりと果樹を照らし、葉が揺れるたびに光の粒が地面に踊る。陽が昇れば果樹の世話をし、夕方になれば収穫したリンゴを市場に運ぶ。手は土にまみれ、身体は汗に塗れるが、それも慣れたもんや。忙しないっちゃ忙しないが、追放された直後の頃に比べれば天国みたいなもんやった。
謎スキル【ンゴ】頼りで始めたリンゴ栽培も、気付けばすっかり軌道に乗っとる。街の商人が買い付けに来るほどや。
スキルで直接増やしたやつと、スキルで成長を促しただけのやつとでは、出来に差がある。ええやつはピカピカ光っとるし、甘みも強い。せやから高く売れるんやけど、傷モノや形の悪いもんは、ワイが食うか、近所の子どもらにやるのが常や。
子どもらはリンゴを受け取るたび、目を輝かせて「ありがとう!」言うてくる。そんで、勢いよくかじりつき、果汁を滴らせながら笑うんや。その様子を見るたび、なんや心があったこうなる。こういうのも、農業の醍醐味っちゅうやつなんやろか。
たまに獣に荒らされることもある。せっかく実ったリンゴが齧られとったり、木の根元に転がっとったりすると、ちょっと悔しい気もするけど、まぁそれも自然の流れや。人間だけのもんちゃうしな。程々にやられるぶんには、しゃあない。
今日も畑を見回りながら、たわわに実ったリンゴを眺める。風が吹いて、葉がさわさわと揺れる音が心地ええ。ええ感じや。ほんま、始めた頃には想像もせんかったが、リンゴ栽培も悪ないな。
「……まぁ、ええ暮らしやろ」
独り言のように呟く。食うもんに困らん、寝る場所もある、それだけで十分すぎるくらいや。欲を言えば、もう少し話し相手が欲しい気もするが、それも贅沢なんやろな。
そんな日々が、ずっと続くと思っとった。
──けど、その夜は違ったんや。
「……う、うう……」
妙な声が聞こえる。ワイの声やない。
眠気を振り払いながら布団を跳ねのけ、足元に転がっていた上着を引っ掴む。戸を開けると、ひんやりとした夜の空気が肌を刺した。鼻をくすぐるのは、土と葉の匂い。それに混じる、微かな鉄の匂い──血の匂いやった。
果樹園の端。闇の中に、何かが横たわっとる。
「……なんや?」
警戒しつつ近づく。左手は自然と腰の短剣に伸びる。夜の畑には小型の魔物が出たりするし、盗人の類が紛れ込むこともある。足音を殺しながら歩を進め、月の光が当たる場所まで来たとき、ようやくそれが人の形をしていると分かった。
地面に倒れとったのは、少女やった。
泥と血にまみれ、息も荒い。ボロボロの服がかろうじて身を覆っとるが、ところどころ裂けて肌が見えとる。腕や足には擦り傷が無数に走り、足首には重そうな鉄の枷がついとる。まるで何度も引きずられたように、周囲の土には浅い傷跡が残っとった。
「……奴隷、か?」
その言葉に、少女の体がビクッと震えた。
怯えた目がこちらを見る。大きな瞳は、まるで小動物みたいに揺れとった。光を失いかけた瞳やのに、それでも必死に何かを訴えようとしとる。恐怖と戸惑いが入り混じった表情は、どこか痛々しく、そして……妙に胸を締めつけるもんがあった。
唇は乾き、血の気が引いとる。頬はこけ、身体は細すぎるほどに痩せ細っとる。まるで今にも崩れそうな細枝のようや。
「……ごめんなさい、盗むつもりじゃ……ただ、空腹で……」
か細い声。消え入りそうな、絞り出したような言葉。喉が渇いとるんか、それとも怖さのせいか、声が途切れ途切れになっとる。
視線の先を追うと、少女の小さな手が震えながら何かを握っとるのが見えた。赤い果実──うちの果樹園のリンゴや。
手のひらに収まりきらんほどの大きさのそれを、彼女はまるで宝物みたいに、大事そうに握りしめとる。けど、指には力が入っとらん。震える手の隙間から、赤い皮がちらりと覗いとる。
「……ふぅん」
息をつきながらしゃがみ込む。ゆっくりと、少女と目線を合わせるように。
少女は反射的に身を引いた。リンゴを隠そうとしたんやろうけど、指がか細すぎて、うまく握り直せん。わずかに開いた指の間から、果実のつややかな表面が見えた。
「そんなもん、隠さんでええ」
少女の肩がピクリと揺れる。
「好きなだけ食えや。それくらい、いくらでもある」
そう言うと、少女は一瞬、呆然とした顔をした。信じられへん、みたいな顔や。大きな瞳がさらに見開かれ、息を詰めとる。
「……え?」
戸惑いと疑念の混じった声が漏れる。
「食え言うとんねん。それは、ワイの果樹園のもんや。ぎょうさんある。お前みたいなガリガリの子どもが一個持ってったところで、誰も困らん」
少女の喉が、小さく鳴った。唾を飲み込む音やった。
「ほら」
促すように言うと、震える指先でリンゴを口元へ運ぶ。歯形がついた瞬間、少女の目から涙がこぼれた。
「……っ、おいしい……」
ボロボロの顔のまま、しゃくしゃくとリンゴをかじる。その度に涙がぽろぽろ落ちた。
「……しゃあないな」
ため息をつきながら、そっと少女を抱え上げた。細い腕、痩せこけた頬、軽すぎる体重。抱き上げた瞬間、その華奢さに胸が詰まった。どこをどう見ても、まともに食べてきたとは思えん。
軽い。骨ばってる。ほんま、ようここまで生き延びたな。
足元には少女がつけていたはずの枷が転がっていた。痩せすぎて抜けてしもたんか。錆びつき、鍵穴の周りは擦り切れとる。長い間、逃げ出そうと何度も試みたのかもしれん。その度に諦めさせられて、それでも生きようとした証や。
「もうええ、しばらくワイのとこ住めや。好きなだけ食わしたる」
そう言うと、少女は驚いた顔をした。大きく見開かれた目は、安堵とも疑念ともつかん色を宿していた。信じたいけど信じられへん。そんな顔やった。それでも何かを言おうと、かすかに唇が動いた。
だが、そのまま力尽きたように意識を手放した。
──こうして、ワイとこの奴隷少女は出会ったんや。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!