夜の空気は、昼間の熱気をほんの少しだけ引きずったまま、ゆるやかに肌を撫でていく。屋台から漂う甘いりんご飴と香ばしい焼きとうもろこしの匂い。草の青臭さ、水面を揺らす金魚すくいの風——すべてが、夏の夜を確かに形作っていた。
この街の祭りでは参道を中心に屋台が並び、奥には広場が広がっている。
毎年そこでは名物の“大輪の花火”が打ち上がり、今年もいい場所を取ろうとする人々で徐々に賑わいを見せはじめていた。
***
「キルア、金魚すくいだって!どっちの方が多くとれるか勝負しようよ!」
遠くを指さすゴンの声が響く。
「いいぜーゴン!クラピカとおっさん!おいてくぜ!!」「おっさんじゃねえ!レオリオだ!」と、いつもの会話を済ませたところで、ゴンとキルアが跳ねるように走っていった。
そして、案の定はぐれた。が、こんなことはしょっちゅうで、レオリオとクラピカは慣れていた。
「……行ってしまったな」
「ま、あいつらのことだから放っておいても大丈夫だろ。」
「キルアに、“花火が始まる前に広場で合流しよう”とメールをいれておいた。」
「おう、……ってお前、キルアにはメアド教えてんのかよ」「断る」「まだ何も言ってねーよ!」
レオリオは浴衣の襟を直しながらうちわで扇ぐ。紺地に白の線が入ったシンプルな柄。
クラピカも白地に藍の細い縞が走る、涼しげな浴衣を着ていた。派手すぎず、かといって地味すぎず、着慣れない様子ではあるけれど、どこか完璧に似合っていた。
祭囃子が遠くで鳴っている。
屋台の明かりが風に揺れ、提灯の影が地面にふわふわと落ちる。
二人はそんなにぎやかな夜道を、自然と肩が触れそうな距離で歩いていた。
「クラピカ、わたあめ食うか?」
「いらない。口の中が甘ったるくなる」
「じゃあチョコバナナは?」
「……いらないといった」
「冷やしパイン」
「君は子どもか?」
「なんだよ、気使って聞いてやってんのに」
そうやって小さく笑いながら歩く。
けれど、ふとクラピカの足取りが少しだけ乱れた。ほんの、ほんのわずか。
レオリオがすぐに気づいたのは、伊達に医者志望を名乗っていない証拠だ。
「……クラピカ、足どうした」
「…平気だ、なんともない」
「履き慣れてないんだろ、下駄」
そう言ってしゃがみこんだレオリオは、何の躊躇もなくクラピカの足元を覗き込んだ。
「うわ……擦れてんじゃねえか、皮めくれてっぞ。ったく……」
この程度の傷は、ホーリーチェーンを使えば容易く治すことができた。
が、念能力を使うにはあまりにも人が多すぎる。それにレオリオの前でまだこの能力を披露したことはない。
医者志望のレオリオの前で、“一瞬で傷を癒す能力”(実際にはそんなに万能なものではないのだが)を見せるのは、少しばかり気が引けた。だから我慢することを選んだ。
「気にするな、大したことない」
「気にするに決まってんだろ。ほら、乗れ」
レオリオはそのまま手に持っていたうちわを帯に挿すと、クラピカの前でしゃがみ、背中を差し出した。
「…………馬鹿にしているのか?」
「してねえよ」
「私はまだ歩ける」
「強がるなっつってんだろ。おぶってやるから」
「………」
クラピカはしばし躊躇ったが、再び足を地につけた瞬間、ぴしりと痛みが走った。
わずかに表情が歪む。そんな様子を見て、レオリオはため息を吐いた。
「……言っとくけどな。医者の卵の俺様が、怪我した足で無理に歩こうとしてるやつを見逃せるわけねぇだろ」
その言葉で、ようやくクラピカが折れた。
「………重いと感じたら、すぐに降ろしてくれて構わない」
「オレは8トンの扉を開けた男だぜ?お前なんざ余裕だっつーの!」
そう言って笑ったレオリオは、ひょいとクラピカを背負った。
「お、意外とお前人間らしい体重してんだな」
「….、失礼だぞ…」
「わりぃな」
肩越しに視線を逸らすと、クラピカの耳がわずかに赤く染まっていた。
「……それで、これからどこへ向かうつもりなんだ?」
背中から投げかけられた問いかけに、レオリオは小さく眉を動かす。
「そうだな……このまま花火見るのも、なんか違ぇしな」
ぼそりと呟いたレオリオの声には、わずかにためらいが混じっていた。
(ってか、キルアにでも見つかったら一生ネタにされるだろーが……)
二人の間に沈黙が流れる。
「……じゃあさ、うち寄ってくか? 傷の具合も見てやんよ」
唐突な提案に、クラピカがピクリと反応する。
「……なっ……!まさかとは思うが、下心があるわけじゃないだろうな」
「はァ!?あるかバカ!オレをなんだと思ってんだよ!」
「君はそういう人間だろう」
即答するクラピカの声音は冷静そのものだが、そこにわずかな冗談めいた色が混ざっていることを、レオリオは聞き逃さなかった。
「お前なぁ……」
嘆息まじりに顔をしかめながらも、どこか嬉しそうに口元が緩む。
「いいぜ、だったらオレが善良な市民だって証明してやるよ!」
どこが善良な市民なんだか、と呆れたように笑う。
二人の間に、ただ緩やかな時間が流れていた。
賑やかな通りを離れ、少し静かな裏通りを歩いていく。
肩に感じるクラピカの体温。背中に乗る小さな重さ。
「なにあれ!カップル?」
「祭りだからってはしゃぎすぎじゃねー?」
そんな声が少し離れた屋台から聞こえてくる。
クラピカはうつむいたまま、かすかに声を落とした。
「……私のせいで、すまない…」
「別に気にしてねぇよ」それに悪い気もしねーし、——そう続けかけた言葉の端を、なんとか胸の奥に押し込んだ。
そう。二人は恋仲ではない。
レオリオにもそういう気は一切ない。……ない、はずなのだ。
それなのに、クラピカとそう見られることが、なぜか悪い気はしなかった。
むしろ、少しだけ嬉しく思ってしまった自分に戸惑いを隠せなかった。
クラピカもまた、自分を支える腕のぬくもりに不思議と落ち着いてしまっていることに気づいていた。
「誰かに頼ること」を長いあいだ忘れていたのに、こうして自然に身体を預けている今が、どこか心地よい。
そんな自分に少しだけ戸惑いながらも、拒む気にはなれなかった。
互いに言葉にはできない想いが、胸の奥でかすかに揺れていた。
気づいてしまえばきっと、何かが変わってしまう。
でもいまはまだ、この曖昧な距離のままでいい。
そうやって無意識に線を引こうとするくせに、もう二人の境界線はとっくに滲んでいた。
神社の鳥居が遠くに見える。
その手前の木陰で、レオリオはゆっくりとクラピカを降ろした。
「……大丈夫か?」
「ああ」
レオリオはスマホを取り出した。キルアに連絡を入れるためだ。
通話が繋がった瞬間、向こうから元気な声が響いた。
『おー!リオレオどこ行ってたんだよ!花火もうすぐ始まっちまうぞ!』
「レオリオー!それにお前らが先に走ってったんだろーが!」
『はいはいそんで?2人はいつ頃着くのさ』
「いや、それがこっちもちょっとゴタついててな。ハンター協会様に呼ばれちまってよ、オレ一人じゃ片づけらんねーからクラピカ連れて先帰るわ」
『えー!?なんだよそれ!』『4人で見るっていったじゃん!!』
ゴンが横から割り込み、2人の声がわちゃわちゃと重なる。
その騒がしさを断ち切るように、クラピカがレオリオのスマホを奪い取った。
「……私の足に、鼻緒ズレができてな。帰るのはそのせいだ」
『なーんだ、じゃあ最初からそう言えって!』
『クラピカ、大丈夫?』
「平気だ。……私のせいで、4人で花火を見られなくなった。すまない」
『気にしないでよ!早く治るといいね!』
「あぁ、ありがとう」
通話が終わり、クラピカは無言でスマホを返した。
その横顔を見ながら、レオリオは呆れたように笑みをこぼす。
「ったく……ちょっとは俺の見栄に付き合えよ」
「君のせいにする必要はない」
「だからよー…そういうとこ、ホンット損な性格してんな。」
そんな風にふたりが言葉を交わしたあと、レオリオが背を向け、再びしゃがむ。
「……悪いな」
クラピカは、さっきよりも少しだけ素直に、その背に身体を預けた。
しっかりと両腕で支えると、レオリオは歩き出す。
ゆるやかな歩幅が、背中に預けられた体をそっと運んでいく。
やがて、花火を待つ人たちの声が聞こえてきた。
「そろそろ始まるぞ」「今年は何発上がるんだっけ?」
そんな期待に満ちた声が風に乗ってくる。
その声の向こうに、ゴンとキルアもいるのだろう。
本当ならあの中に自分たちもいて、一緒に空を見上げていたはずだった。
楽しみにしていた花火の時間は、もう間近に迫っていた。
「……しかし、やはりレオリオだけでも2人の元へ行くべきではないか?」
「は?」
「私のせいで、君まで花火を見損なうのは……」
「……………っはぁ~~~~~~…………………………」
レオリオは止まらずに歩きながら、でっかいため息をついた。
ほんの少しだけ、返事がないまま沈黙が続く。
そしてぽつりと言葉が落ちた。
「………お前がいなきゃ、意味ねぇんだよ………」
あまりに素直すぎるその言葉は、夜風に紛れてしまいそうなほど小さな声だった。
案の定、クラピカは聞き取れなかったらしい。
「すまない、今なんと?」と小さく聞き返した。
レオリオはがっくりと頭を落とし、また大きい溜息をついたあと、前を向き勢いよく声を上げた。
「……あーーー!!だからよ!!」「花火なんざ来年も見られんだろ!?また4人で集まって見りゃいいじゃねぇか!!」
“来年”。
その言葉は、クラピカにとってあまりに遠く、不確かなものだった。
__自分には、「来年」があるのだろうか。
この命がどれほど持つのかもわからない。
それでも止まることはできない。自分は今、復讐のために生きている。
だがこの男は、そんな事情など物ともせず、まるで当たり前のように“また来年も”と言ったのだ。
何のてらいもなく。
何の疑いもなく。
それが、どれだけクラピカの胸を揺らしたことか。
その言葉のひとつで、どれだけ心の奥の冷えきった部分があたためられたか。
嬉しかった。
どうしようもなく、胸がいっぱいになった。
けれどそれと同時に、苦しさも連れてきた。
自分はそんな言葉に、答えてしまっていい人間だろうか――
そんな考えが、波のように打ち寄せる。
この背中の温かさに、少しずつ、すこしずつ削られていく。
そうして絆されてしまうことが怖かった。
クラピカは、返事をせず曖昧なまま、沈黙で答えを隠す。
だが次の瞬間、レオリオはピタリと足を止め、わざとらしく肩越しに振り返った。
そして、やけに大げさな声で言い放つ。
「いいか、クラピカ!絶対に!来年も、だ! わかったか!?」
クラピカは目を見開き、思わず小さく息を呑んだ。
ああ、この男は――
こちらがどれだけ黙っていても、ちゃんと引き戻してくるのだ。
あの時もそうだった。着信を無視し続けても、何度だってかけてくる。
この男がどこまでも諦めが悪いことを、自分は誰よりも知っていた。
しばしの沈黙ののち、クラピカは静かに目を伏せ、ぽつりと呟いた。
「……君には、敵わないな……」
レオリオは満足げに笑う。
夜空に、ひゅうう……と高く昇る音が響く。
続いて、ぱあん、と夜の帳に花火が咲いた。
大輪の光が、視界いっぱいに広がっては、音を残して夜に溶けていく。
人々の歓声が、遠く遠くから聞こえてくる。
「きれい……!」
「今年のはすごいね!」
祭りの喧騒は、もう遠ざかっていた。
甘かったりんご飴の匂いと、焼きとうもろこしの香ばしさ。草の青臭さ、水面を揺らしていた金魚すくいの風――
すべてが夏の記憶として、鼻の奥にそっと残っていた。
ゆるやかな夜。少しだけ湿った空気。遠くで咲き続ける光と音。
――“来年も”。
その響きが、いつまでも耳の奥で、やさしく残り続けていた。
やがてクラピカは、小さく目を閉じた。
心の中の境界線――
誰にも踏み込ませなかったその線が、
今静かに、しかし確かに、滲みはじめていた。
そしてそのことに、もう抗う気にはなれなかった。
ただ夏の風だけが、二人のあいだをやさしくすり抜けていった。