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教室の空気は、いつもより白かった。まるで酸素が薄くなったように、呼吸が浅くなる。
チャイムの音が遠くて、隣の席の声も、雑音みたいに聞こえる。
遥は、ノートの端にボールペンで何かを書いていた。
──いや、書いてはいない。
ペン先は紙の上で止まったまま、まるで時間だけが流れている。
「……遥」
名前を呼ばれて、ようやく視線を上げる。
そこにいたのは、日下部だった。
朝の光を背負って、あのまっすぐな目で、こっちを見ている。
いつもなら、遥は顔をそらしていた。
でも今は──何も、感じなかった。
だから、そらさなかった。
ただ、見た。
それだけだった。
「……具合、悪い?」
「……別に」
声はひどく乾いていた。
けれどそれすら、本人は気づいていないようだった。
日下部が机に手を置き、少しだけ身を乗り出す。
「昨日……あのあと、ちゃんと帰れた?」
「……ああ。別に、普通に」
「蓮司とは……」
その名前が出た瞬間、遥の手が、ぴたりと止まった。
何かが脈打つような沈黙が、二人のあいだに落ちた。
けれど遥は、静かに、笑った。
「気になんの?」
「──ああ。気になる」
「……だよな」
そこにあったのは、感情のない笑みだった。
嘲るでもなく、拒むでもなく──ただ“無”に近い。
「……心配なんだよ」
日下部の声は、ほんの少し、揺れていた。
「なにが?」
「おまえが、……ひとりで、耐えてるのがさ」
その一言に、遥の目がわずかに揺れる。
けれど、口元は動かなかった。
「耐えるの、慣れてるし」
「そういう問題じゃないだろ」
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ」
今度は、ほんの少し、声に棘が混じった。
「泣けって? 叫べって? 誰かにすがって、助けてくださいって? ──そんなの、できるわけないだろ」
「……誰も、すがれって言ってない」
「じゃあ、なにが正解なんだよ」
遥の声が、一瞬だけ震えた。
そして──その震えすら、本人は気づいていなかった。
日下部は、答えなかった。
ただ、そっと手を伸ばす。
触れるか触れないかの距離。
でも──遥の肩に、届く直前で止まった。
「……触れていいか、聞いても、だめなんだろうな」
遥は、微かに唇を噛んだ。
「おまえが、触れたがる理由ってさ──
……俺が“壊れてるから”じゃないの?」
「違う」
即答だった。
「壊れてるかどうかじゃない。……おまえだからだよ」
遥の目が、大きく見開かれた。
でも──その先の感情が、もう追いついてこなかった。
「……わかんねえよ、そんなの」
日下部は、俯いた。
そして、悔しそうに息を吐いた。
「だったら……俺が、わかるまで言うから」
その言葉に、遥は何も返さなかった。
でも──逃げもしなかった。
あの日の夜、遥は「耐える」ことを選んだ。
けれど今、目の前の誰かは「諦めない」ことを選んでいた。
そのズレが、まだ届かない距離のまま、
教室の空気だけが、静かに流れていた。