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日が暮れて辺り一帯が暗くなるとそれが嫌というほど分かった。一帯が未だに停電しているため、家の灯りというものがほとんど無くなった。わずかに自家発電機で灯りをともしていた家も住民が避難したのだろう、ほとんどが暗闇の中に沈んでいた。
不要不急の外出は極力避けるよう市役所からの通達が出ていたため、もともと人通りは少なくなっていたが、それでも多少は道のあちこちから車のエンジン音や話し声が聞こえていたが、もうそれも絶えて、夜になれば病院の外から聞こえて来るのは風の音と、時折響く野鳥の声ぐらいになった。
亮介が休憩を取りに一階の待合室へ行くと、さっきとはうって変わってがらんとした光景の中で児玉がテレビのニュースをしかめっ面で眺めていた。画面の中では、被災地を「死の街」と発言したの、どうのこうの、という問題でとある国会議員が非難されていた。
「何も間違っちゃいないじゃねえか」
苦々しげな口調で児玉はテレビの画面に向かって言った。
「そんな事で騒いでいるヒマがあるんなら、自分の目で見に来いよ、くそったれ!」
多くの患者が避難した後の南宗田中央病院は見違えるほどガランとして見えた。一階受付ロビー、待合室に足の踏み場もないほどすし詰め状態で横たわっていた患者は全ていなくなり、簡易ベッドも片づけられた。
五十三人の残った患者のうち、美穂を含む意識不明のままの二十三人が二階の外科入院病棟に集められ、意識のある患者は三階の内科病棟に移された。一階の隅には六十一体の死亡した患者の遺体が並べられて、その場所はカーテンで仕切られていた。
エアコンが使えない事がここでは幸いし、遺体の腐敗はほとんど進んでいなかった。とはいえ、漂う死臭は隔てようがなく、看護師たちはカーテンに消臭剤や芳香剤を一日に数回も吹き付けた。
あれほど邪魔に思えた横たわる患者の列も、なくなってしまうと逆に寂しささえ亮介は感じていた。昨日まで、まるで降り積もった雪の上を歩く時の様に、足元を見つめながらゆっくりゆっくり移動していた廊下も、走ってでも通れるようになった。
亮介が外科病棟に行くと、宮田と残った看護師たちが、透明なビニール袋をいくつも抱えて低体温症の患者のベッドを回っていた。床には大きなプラスチックのバケツが三個置いてあり、中からかすかに湯気が立ち上っていた。何をしているのかと亮介が訊くと、宮田が額の汗を指で払いのけながら答えた。
「輸液パックをバケツのお湯につけて温めたんですよ。これを患者さんの腹部にあてておくんです」
「湯たんぽみたいな物ですか?」
「ええ、少しでも体を温めないと」
「でも、加熱したら中身が使えなくなるんじゃ?」
その亮介の懸念に宮田はベテラン看護師らしい自信に満ちた表情で言った。
「これは全部、生理的食塩水のパックです。加熱しても成分は変質しません。必要になったら中身は問題なく使えますよ」
亮介は年季の違い、という物を実感させられた。
翌日、末期の肺癌で家族が看取りに来るのを待っている老齢の患者が、とうとう最期の時を迎えようとしていた。だが、家族はまだ病院に現れていなかった。連絡を取ろうにも、一般回線の電話は相変わらず不通のままだった。
内科の医師たちと院長と宮田が外科病棟のその患者のベッド脇に集まったが、どうする事も出来なかった。透明な酸素吸入マスクで口と鼻を覆われたその老人は、意識がないまま、もう何時間も同じうわごとを繰り返していた。
「息子……嫁……孫……」
ただそれだけを呪文のように繰り返しながら、老人の心拍数と呼吸を示すデジタル表示のグラフは徐々に弱まって行った。
宮田が老人の右手を自分の両手で握りしめながら、藁にもすがるような目つきで回りの医師たちに言った。言ってどうなるものではない事を百も承知の上で。
「なんとかご家族に来てもらえないんでしょうか?」
院長が床に視線を落としたまま答えた。
「屋内退避地域である以上、三十キロ圏の外からこっちに入って来る事は難しいでしょうね。せめて私たちの手で、ご最期を見届けてあげましょう」
その老人が息を引き取ったのは、三月十八日午後六時を少し回った頃だった。
その夜、院長室に置いてあった衛星電話が鳴り、念のため医師全員が集まった。相手は自分の車で自主避難した近隣住民の一人で、避難先の市役所の災害対策本部の衛星電話からだと告げた。そして彼は怯えて震える声で、矢継ぎ早にまくし立てた。
「今から避難する連中にすぐに伝えてくれ、院長さん。こっちへ、中通り方面には来るなと」
「既にほとんどの方は避難なさっていますが」
院長は当惑して亮介たち医師に視線を向けながら答えた。
「一体どうなさったんですか?」
スピーカーがオンになった衛星電話から悲鳴のような声が響いた。
「高いんだよ、こっちの方が! ほれ、あの何とかベルトとかいう、放射線の」
「マイクロシーベルト毎時、あれの事ですか?」
「そ、それだ。その数字が、こっちの方が高いんだよ。市役所が発表してる、そこの数字より、郡山で三倍、福島で五倍、伊達や二本松はもっと高いって話なんだ」
「じゃあ、そちらでも避難指示や屋内退避指示が?」
「それが、こっちでは何も出てねえんだ。避難指示も屋内退避指示も出てねえ中通り地方より、南宗田の方が数字が低いって、おかしいだろ? とにかく院長さん、これから避難するって連中がいたら、この事を伝えてくれ」
「分かりました。出来る限りやってみます」
通話が切れた途端、山倉が眉間に縦皺を刻みながらつぶやいた。
「それじゃ、わざわざ放射線量が高い方に向かって逃げた事になるじゃないか」
児玉も怒気を露わにした口調で言った。
「自主避難した人たちの中には、小さい子供がいるから、子供の方が放射線に弱いから、それで避難したのも大勢いるんだぞ」
今まで愚痴めいた事を口に出した事がない院長も、衛星電話機を置く手がぶるぶる震えていた。そして妙に甲高い声で言った。
「国は一体、何をやっているんだ? お役所仕事にも、程ってものがあるだろうに!」
その夜から看護師たちが交代で食事当番になり、職員の寮から持ち込んだ炊飯器や調理器具で暖かい食事を出してくれるようになった。おかずは缶詰やレトルト食品ばかりだったが、連日の激務で疲れ切っていた医師、看護師たちには暖かいというだけで何にも勝るご馳走だった。
皮肉な事に、大勢の患者が避難して去り、口から食事を取れない意識不明の患者が多い事で、逼迫していた病院内の食糧不足は一気に解消した。
亮介はわずかでも時間が空くと、外科病棟の美穂のベッドへ一日に何度も行った。運び込まれて来て以来、一度も意識を回復していない美穂は、栄養剤、生理的食塩水、昇圧剤と三種類の点滴を常時受けていた。
美穂の体は日ごとにやつれてわずか十日ほどの間に、痩せ衰えていった。亮介は毎回、脈拍と心音と呼吸音を確かめ、なんとか危険がない状態である事を確認するたびに深い安堵のため息をついた。