テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第1部 買収
第1章 使えない一枚
進行表は三枚目、NGリストは四枚目にある。
仁人はスタジオの隅で、それを編集者の目の前に差し出し、上から順に指で押さえながら読み上げた。
「居住エリア、最寄り駅、交友関係。この三点は、記事にも写真にも出さないでください」
「承知しています。事前にいただいた資料にも書いてありましたし」
「承知していただくのと、守っていただくのは別なんですよ。」
編集者は、笑って肩をすくめた。三十代半ばの、場数を踏んだ人間の笑い方だった。怒らせないぎりぎりのところで、一歩だけ踏み込んでくる。最初のメールの文面で、仁人はそういう相手だと見当をつけていた。
「厳しいですね、COOは」
「守るものが多いので」
十月の木曜、午前九時半。
都内の貸しスタジオには、白い壁と、天井から下がる大きな傘型のライトと、機材ケースの黒だけがあった。経済誌とファッション誌の合同特集で、二人の撮り下ろしに六ページが割かれている。
仮の見出しは「誰にも似ていない二人」。ジュエリーブランド「Lueur(リュール)」の創業者・舜太と、全作品のデザインを手がける柔太朗。創業三年目、社員三十人に満たない会社が受ける扱いとしては、破格だった。
破格だからこそ、仁人は神経を尖らせている。
露出は会社の資産だが、資産は目減りもする。
記事一本で取引先の信用が上がることもあれば、書かれ方ひとつで投資家が慎重になることもある。そして投資家がとりわけ嫌うのが、事業が特定の一人の才能に寄りかかっている状態だ。キーパーソン依存、と呼ぶ。その人物が抜けた瞬間に、会社の価値が消えてしまうからだ。
Lueurは、まさにそういう会社だった。
ブランドの九割を、柔太朗という一人のデザイナーが担っている。それを承知の上で、彼を顔として前に出す。何を見せて、何を見せないか。その線を引くのが、仁人の仕事のいちばん重い部分だった。
「おはよう、仁人」
入口から、聞き慣れた声がした。
舜太がジャケットの裾を揺らして入ってくる。182センチの背丈は、こういう場所では否応なく目立つ。タレ目の笑顔で編集者とカメラマンに順に頭を下げ、機材の名前をひとつ尋ね、スタッフの名前を二つ覚える。この男が現場に入ると、三分で空気が変わる。
その少し後ろから、柔太朗が入ってきた。
透けるように白い肌に、涼しい目元。舜太より半歩遅い歩幅で周囲を見渡し、仁人と目が合うと、小さく頷いた。178センチの細い体に、今日は襟の高い黒のシャツを着ている。人が着れば奇抜になりかねない服を、何でもない顔で着る男だった。
「広いね、ここ」
「今日の仕事に、広さは関係ない」
「まぁ、確かに」
それだけ言って、柔太朗はもう機材の方を見ていた。
取材は、撮影の合間に、スタジオの一角に置かれた二脚の椅子で始まった。
ライターがレコーダーを置く。仁人は二人の斜め後ろに立った。契約で同席が認められている。銀行で融資の面談に立ち会っていた頃から、世間話の形をした質問がいちばん多くを引き出すことを、仁人は知っていた。
「起業のきっかけを、あらためて教えてください」
「柔太朗の作品を、見つけてしまったからです」
舜太が笑って言った。「見つけてしまった」という言い回しを、仁人は頭の中でだけ繰り返した。
「最初は、もっとたくさんの人に見せなきゃいけないと思ったんです。才能って、見つけた人間に責任があると思っていて。見せる責任が」
「大げさじゃない?」
隣で柔太朗が、小さく笑った。舜太が「大げさじゃないよ」と返し、ライターが二人を見比べて頷く。
「柔太朗さんは、そう言われていかがですか」
「僕はビジネスのことは、よく分からないので。舜太が見つけてくれて、仁人が会社にしてくれて、僕は作っているだけです」
言葉はそれだけで、余計な熱はなかった。ただ「見つけてくれて」の一言だけ、声の温度がほんの少し違った。気づいたのは、おそらくライターではなく、仁人と舜太だけだった。
質問は資金の話に移る。
「創業から三年目で、海外のバイヤーとも取引があると。資金面は、どう乗り越えたんですか」
「そこは、うちのCOOの担当です」
舜太が振り返り、仁人が半歩前に出た。
「創業時は三人の自己資金で、その後は銀行からの融資で賄いました。」
「株主は?」
「創業の三人だけです」
「外部の投資家を入れれば、もっと早く大きくなれたのでは?」
「入れる話もありました」
答えたのは舜太だった。
「でも、誰かに渡したくなかったんです。この会社は」
仁人は何も言わず、手元のメモに視線を落とした。ペン先が、一度だけ止まった。
「三人が、本当に運命共同体なんですね」
ライターは満足そうに頷き、続けた。
「お二人は、大学時代からのご友人だと伺いました。休日も、一緒に過ごされたりするんですか?」
「いえ、休日はそれぞれバラバラですよ」
舜太は笑顔で答えた。柔太朗は、カップの縁を指でなぞっている。表情は変わらない。ポーカーフェイスは、この男の得意技だ。
「意外ですね。仲がよさそうなのに」
「仲がいいことと、休日を潰すことは別なので」
「では、プライベートでいちばん長く一緒にいる時間は——」
「すみません」
仁人の声が、質問を切った。
「その質問は、事前のお約束の外です」
「あ、失礼しました。世間話のつもりで」
「あ、そうですか。」
平らに言った。ライターは「すみません」と笑い、次の質問に移った。
昼の休憩は、スタジオの奥の控室で取った。
ロケ弁当を並べた長机に、三人だけが残った。スタッフは全員、外で機材を組み直している。ドアが閉まった途端、舜太はジャケットのボタンを外し、大きく息を吐いた。
「あー、しんど。笑いすぎて頬が痛いわ。仁ちゃん、俺、ちゃんと喋れとった?」
「喋りすぎだ。半分は削らせるがな」
「ええー」
「削る前提で聞いとけ」
柔太朗は窓際のパイプ椅子で、弁当の蓋を開けている。細い指が、箸を取る動作まで丁寧だった。
「舜、口の横、ソース」
「え、どこ」
「そこじゃない」
柔太朗が手を伸ばし、親指で舜太の口の端を拭った。舜太は一瞬固まり、それから何事もなかったように「ありがとうな、柔」と笑った。
仁人は、弁当の蓋に視線を落とした。見なかったことにする。それも、仕事のうちだった。
「来週の話だが」と、仁人は話を戻した。「水曜に、パリのバイヤーとの商談が入った」
「バイヤーって、お店の人でしょ」
柔太朗が、箸を止めずに聞く。
「店に並べる商品を、仕入れる側の担当者です。彼らが首を縦に振らなければ、どれだけいい作品でも店には並ばない。逆に、一人が気に入れば、一度に何十点も動く」
「なんか、すごいね」
「他人事みたいに言うな。作るのはお前だ」
「うそでしょ、僕の仕事、そんなに重いの」
柔太朗が小さく笑う。その笑い方が、記事のために作る笑顔とは違うことを、仁人は知っていた。撮影用ではない、力の抜けた笑い。この顔は、載せない。載せる必要も、ない。
「でも、ええやん」舜太が言った。
「柔の作ったもんが、パリの店に並ぶんやで。めっちゃすごいことやん」
「並べるのは、仁ちゃんと舜でしょ」
「作るのは、柔や」
一瞬、控室の空気が、会話以外のものを含んだ気がした。仁人は咳払いをした。
「食え。冷める」
「はい、仁ちゃん」
撮影は午後に入り、白いレフ板の前に二人が並んだ。
カメラマンは、指示の少ない男だった。立ち位置だけを決めると、あとは二人に任せる。舜太は肩の力を抜いて笑い、柔太朗は何もしないまま、ただそこに立った。それだけで画になった。二人の間は、拳ひとつ分。近すぎず、遠すぎない。リハーサルの段階で、仁人が決めた距離だった。
「手元も撮りたいので、指輪、新作に替えましょうか」
スタイリストが、柔太朗の右手を取った。中指の細い銀の指輪に、指先がかかる。爪の先が、白い手の甲を軽くかすめた。
「——Wait.」
声は、モニターの前でカメラマンと光の話をしていた舜太から出た。
スタジオの動きが、一拍止まった。いちばん驚いた顔をしていたのは、舜太自身だった。それは一秒にも満たず、すぐにいつもの笑顔が戻った。
「すみません。その指輪は、そのままでお願いします。最初の試作品なんです。ブランドの顔みたいなものなので」
半拍、遅かった。理由としては正しい。正しすぎるくらいに、正しい。それが仁人の感想だった。
スタイリストが「失礼しました」と手を離す。柔太朗は自分の右手をゆっくり下ろしながら、舜太の方を見た。
「あ、そうなんだ」
トーンの低い、落ち着いた声だった。責めても、笑ってもいない。試作品であることは、作った本人がいちばんよく知っている。頷いたのは、その後の一言に対してだった。
舜太は「ありがとうございます」と誰にともなく言って、カメラマンとの話に戻った。声が、半音だけ低かった。話しながら、視線は柔太朗の指輪から離れなかった。
二秒。仁人は数えていた。
撮影は夕方に終わった。
カット選定は、スタジオの奥のモニターで行う。カメラマンが写真を一枚ずつ送り、編集部が選び、企業側が確認する。掲載前に、原稿や写真を企業が確認し、修正を求められる権利。業界ではゲラ確認と呼ぶ。契約書にこの条項を入れることを、仁人は初回の打ち合わせで真っ先に求めた。
三十枚目あたりで、カメラマンの手が止まった。
「これ、いいでしょう。今日の一枚です」
二人が並んだカットだった。柔太朗はカメラを見ている。舜太は、カメラを見ていない。隣の柔太朗を見ている。口元は笑っていなかった。ただ、視線の先だけが、疑いようもなくはっきりしていた。
「いい顔してますね」編集者が言った。「表紙の候補にしたいくらい」
「使えません」
仁人の声は、平らだった。
「理由を伺っても?」
「視線がカメラに向いていません。広報素材としては使いにくいので」
「それが、いいんじゃないですか」
「弊社の判断です」
編集者は肩をすくめて、「いい写真なんですけどね」と言った。仁人はマウスを動かし、その一枚に「NG」のチェックを入れた。理由なら、いくらでも言える。それを言うのが、自分の仕事だ。
モニターの中で、舜太の視線だけが、まだ同じ場所にあった。
振り返ると、その本人は別のスタッフと笑い合っていた。画面の中の顔と、いま笑っている顔と、どちらが本当なのか。仁人は、考えないことにした。
搬入口の前に、仁人が手配した車が待っていた。
三人で動くとき、ハンドルを握るのはいつも仁人だ。運転手は雇わない。車内に、第三者を入れない。それも、仁人が決めた「守り」のひとつだった。
「めっちゃ疲れたなぁ! 仁ちゃん、ありがとうな」
後部座席に沈み込んで、舜太が息を吐いた。スタジオを出た途端、口調が変わる。三重の訛りが、抑えていた分だけ戻ってきた。
「一番喋ってたからな」
「せやかて、喋るんが俺の仕事やん」
「半分は削らせるって言っただろ」
「うそでしょ、まだ言い合うの」
柔太朗が窓の外を見たまま言った。声は低く、笑いを含んでいる。舜太が「柔もなんか言うたって」と振ると、「別に。二人とも元気だなって」と返した。
しばらく、誰も喋らなかった。車が幹線道路に出て、窓の外を、ビルの明かりが後ろへ流れていく。
「なぁ、舜」
先に口を開いたのは、柔太朗だった。視線は窓に向けたままだった。
「さっきの、指輪」
「うん?」
「ブランドの顔、って言ってたでしょ」
「……事実やん。最初の試作品やし」
「うん。そうだね」
それだけだった。柔太朗はそれ以上追わず、舜太もそれ以上は言わなかった。追及しないのが、柔太朗のやり方だ。追及しない代わりに、答えを待つ。待たれることが、舜太にとっていちばん居心地の悪いことだと、仁人は知っている。
後部座席で、舜太が小さく息を吐く気配がした。
信号で車が止まる。仁人はルームミラーに目をやった。
後部座席の、シートの中央。柔太朗の右手の上に、舜太の左手が重なっていた。指輪のある中指の上に。偶然のような置き方だった。偶然ではないことを、知っているのは仁人だけだ。
ミラーの中の二人は、前を向いたまま、互いの方を見ない。見なくても、そこにいることが分かっている距離だった。
この二年半で、隠すことだけは上手くなった。
信号が青に変わる。仁人は視線を前に戻し、アクセルを踏んだ。
コメント
1件
おお、これは…めっちゃおもろいわ。 バトルとかダンジョンじゃなくて商談・メディア対応が“戦い”になってるところが新鮮やった。 仁人の“守り方”のプロっぽさ、舜太の視線の制御できないところ、柔太朗の静かな鋭さ——3人の距離感が1ミリ単位で描かれてて、解像度えぐい。 あと「使えない一枚」に「NG」入れるシーン、胸にきたわ。一番伝えたい顔が、一番使えないっていう皮肉。 続きめっちゃ気になる🔥
𝕣𝕖𝕒𝕣
395
#ご本人様には関係ありません
あか
261
#からぴち
琉愛˚𓆩✞𓆪˙
191