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𝕣𝕖𝕒𝕣
395
#ご本人様には関係ありません
あか
261
#からぴち
琉愛˚𓆩✞𓆪˙
191
第1部 買収
第2章 最初の試作品
二年半前、三月。
指輪の内側を、目の粗いやすりで一度だけなぞる。削りすぎないよう、指の腹で確かめる。それを三回繰り返したところで、柔太朗は手を止めた。
作業机の上には、糸鋸と、ペンチと、余った銀の板。部屋の照明は落としてあり、机のスタンドライトだけが、小さな円を作っている。
昼間の仕事は、大手アパレルの企画部で、服に付ける金具やアクセサリーの図面を引くことだった。良いものを描いても、名前が出ることはない。そういう仕事だった。だから夜は、誰の名前も要らないものを、自分の手で作る。
チャイムが鳴った。
「柔、開けてー」
ドア越しの声で、誰か分かった。舜太だった。三か月ぶりだった。
「終電逃してん」
「連絡くらいしなよ」
「したやん、今」
コンビニの袋を提げ、ネクタイを首に引っかけたまま、舜太は当たり前の顔で上がってきた。所謂IT系のメガベンチャーで働き始めてから、彼はよく疲れた顔をするようになったが、笑うと大学の頃と同じ顔になる。缶ビールを一本、柔太朗の前に置いた。
「作業中? 邪魔した?」
「もう終わるところ」
舜太が机の脇に立ち、ふと、スタンドライトの下に視線を落とした。
そこには、仕上げたばかりの指輪があった。幅二ミリの細い銀の輪で、表面に、水面のような細かな凹凸がある。今夜、自分の指に合わせて作ったものだった。
「これ、誰の?」
「僕の。余った銀で、遊んでた」
「売ってるん?」
「売ってない。売るようなものじゃないし」
舜太は答えなかった。指輪を摘み上げ、ライトに透かし、ゆっくり回す。口数の多い男が黙ると、部屋の音が変わる。冷蔵庫の低い唸りが、急に大きく聞こえた。
「………誰かに、見せた?」
「誰にも。見せるほどのものじゃないから」
「……そっか」
その「そっか」に、安堵が混じっていた。柔太朗は気づいたが、何も言わなかった。
「柔、手ぇ出して」
「何」
「サイズ確かめたいだけやって」
右手を出すと、舜太は中指に指輪を通した。指先が、少し冷たかった。缶ビールを持っていたせいだろう。指輪は、初めからそこにあったように収まった。
「めっちゃ似合うやん」
舜太は指輪ではなく、柔太朗の指を見ていた。
「見つけてしもたなぁ、俺」
「何を」
「これ、世の中に出さなあかんやろ。見つけたもんの責任やん、こういうの」
「大げさじゃない?」
「大げさやない。俺、今、めっちゃ真面目に言うてる」
嘘をつく顔ではなかった。
「これ、第一号な。最初の試作品」
「試作品って、何の」
「これから作るもんの」
柔太朗は缶ビールのプルタブを起こし、それ以上何も言わなかった。
一週間後、仁人が指定した店は、裏通りの小さなビストロだった。
先に着いた二人が奥の四人掛けに座って十分ほどで、仁人が入ってきた。細身のダークスーツに、革の鞄。銀行を離れた直後の、きっちりした顔をしている。眉が、いつもより少し険しい。
「で、何の話?急に呼び出して」
「会社、作りたいねん」
舜太が、前置きなしに言った。
「柔の作品を売る会社。ジュエリーの」
仁人は、ゆっくりと眉を動かした。
「いや、おかしいだろ。順番が」
「順番?」
「まず何を作って、誰に売って、いくら儲かるのか。それがない状態で、会社を作るとは言えない」
店員が水を置き、注文を取って去っていく。その間、三人は黙っていた。
「原価は?」と、仁人が柔太朗に聞いた。「一点あたり、材料費と、かかる時間」
「材料は、銀なら数千円。時間は……これだと、三日くらい」
柔太朗は右手を軽く上げた。指輪が、グラスの縁で光る。
「三日で一点。月に十点作れたとして、一点十万円で売っても月に百万円。そこから家賃、材料、宣伝、生活費を引く」仁人は、テーブルを指で叩くように計算した。
「一人が手で作る限り、数は増やせない。一点ずつ手で作るものは、量産ができない。数を増やすなら、職人を雇うか、型を作って同じものを複数作る仕組みが要る。今の話には、それがない」
「せやから、仁ちゃんが要るんやん」
舜太が身を乗り出した。
「拡大の方法を考えるの、仁ちゃんの仕事やろ」
「勝手に俺の仕事にするな」
「熱だけで会社は作れんって、仁ちゃん言うたやん、前」
「言ったな。数字で説明できない熱は、融資も通らない」
そこで、仁人の視線が、柔太朗の右手で止まった。
「……見せてもらっていい?」
柔太朗が指輪を外して差し出すと、仁人は壊れものを扱うような手つきで受け取り、店の照明に近づけた。
長い間、何も言わなかった。
「――きれい」
やがて、それだけ言った。それから、指輪を柔太朗の手に返しながら、少し低い声で続けた。
「こういうものが世に出ていないのは、損失だな」
仁人は文学と芸術の人間だった。本棚には、経済書よりも詩集や画集のほうが多い。その仁人が言う「損失」は、数字の言葉であり、そうでもなかった。
「……俺が今扱ってるのは、数字なんだ」
料理が来る前の、ほんの短い間に、仁人が言った。
「融資の審査の書類とか、格付けとか。一件一件、誰かの生活のはずなのに、顔が見えない。それが悪いとは思わないけど、……たまに、何の役に立ってるのか分からなくなる」
誰も、すぐには返さなかった。舜太が、珍しく何も言わずに、グラスの水を飲んだ。
「まぁ、確かに。仁ちゃん、いつも疲れた顔してる」
柔太朗が言うと、仁人は「うるさい」と小さく言って、視線を逸らした。
「あと、資本金な」
舜太は、話を進めることで空気を戻すのが上手い。
「会社を作るときに、最初に入れるお金のこと。俺の貯金、ほぼ全部突っ込む。その代わり、株は俺が四、仁ちゃんと柔が三ずつ。どう?」
「株の割合って、何か変わるの?」
柔太朗が聞いた。ビジネスのことは、まるで分からない。
「大きく変わる」と、仁人が答えた。「株というのは、会社の持ち分と一緒だから。その割合が、そのまま、大事なことを決めるときの票の重みになる。半分を超えれば、その人は一人で会社のほとんどを決められる」
「四、三、三やと?」
「四、三、三なら、誰も一人では半分に届かない」
仁人は、水のグラスを見つめたまま続けた。
「誰も一人では、この会社を決められない。……それが、一番安全な配分かもな」
「めっちゃええやん、それ」
舜太が笑った。柔太朗は、その言葉を、少しだけ長く頭に残した。
仁人は結局、その場では答えなかった。
「一週間、考えさせろ」
「一週間な。じゃあ、来週の同じ曜日に」
「勝手に決めるな」
そう言いながら、仁人は手帳を開き、来週の欄に何かを書き込んだ。柔太朗は、見なかったふりをした。
店を出ると、夜風が冷たかった。
仁人は「こっちだ」と反対方向に歩いていき、二人は駅に向かった。並んで歩く。舜太の歩幅が、いつもより少しだけ狭い。
「柔」
「何」
「見せてくれて、ありがとうな」
「こちらこそ……見つけてくれて、ありがとう?」
舜太は一瞬黙り、それから笑った。「せやな」と言った。
「あ、まだ他のやつには、見せんとってな。俺がちゃんと段取りするから」
「まぁ、確かに、僕は段取りできないしね」
そう言いながら、柔太朗は「段取り」という言葉を、少しだけ不思議に思った。誰かに見られて困るものを、作ったつもりはなかったからだ。
翌朝、スマートフォンが震えた。
仁人からだった。添付ファイルが一つと、一行だけ。
『事業計画書のたたき台。A4三枚。読んどけ』
柔太朗が「事業計画書って?」と送ると、返信は舜太のほうが先に来た。
『事業の見通しを、数字で書いた書類。いくら売れて、いくらかかって、いつ黒字になるかとか』
『仁ちゃんがそれ書いたってことは、つまり』
『やる気ってこと!!』
続けて、三通。感嘆符ばかりの返信を、柔太朗はしばらく眺めた。
窓から、朝の光が入る。右手の中指には、昨夜の指輪があった。
外す理由が、見つからなかった。
コメント
1件
うわ、このエピソード、すごく良かったです……! 冒頭の指輪作りの描写、やすりをかける手加減から照明の落とし方まで、細部に職人技が滲んでいて一気に引き込まれました。三人の距離感も絶妙で、舜太の「見つけてしもたなぁ」にはゾクっとするものがありましたね。仁人が「きれい」と呟くシーンが一番好きです——あれまで数字でしか語らなかった男が、初めて感性で認めた瞬間で。設定の伏線がもう効いてるのがすごい。