【中間層・白い廊下】
白は、相変わらず白だった。
壁も床も天井も、塗り潰したみたいに同じ色で――
なのに、歩くたびに距離だけがずれていく。
ハレルは視線を正面に固定したまま、呼吸だけを数えた。
一、二。吸って、吐く。
足音は遅れて返ってくる。
音が自分の背中を追いかけてくる感覚が、気持ち悪い。
隣でサキが、喉を鳴らして息を呑んだ。
「……壁、さっきより……近い……」
「見すぎるな」
声を低くすると、白に吸われて輪郭が丸くなる。
届くかどうか分からないのに、言ってしまう。
サキの掌のスマホが、また震えた。
画面の明るさが勝手に落ち、白い砂みたいな粒が流れて――
二つの足跡のような影が、並んで点滅している。
《歩幅》
《そろえて》
短い文字。説明じゃない。
指示だけ。
「……これ、私に……言ってるよね」
サキは笑えない顔で、でも逃げずに言った。
「違う。俺たちに、だ」
ハレルは言って、バッグの中の“重さ”を意識した。
薄緑のカプセル。
日下部のコア。
持っているのに、手元にいる気がしない。
さっきから、揺れが一拍ずつ遅れる。
脈が、途中で止まりかける。
薄緑の奥に、黒い粒が――
増えてはいないのに、寄っている。
片側へ、引っ張られるみたいに。
(……向こうだ)
答え合わせみたいに、胸元の主鍵が熱を持った。
セラが、一歩ぶん前を歩く。
近づきすぎない。
振り返りすぎない。
橋渡しの癖――いや、必要な距離。
「セラ」
ハレルが呼ぶと、彼女は足を止めずに答えた。
「はい」
落ち着いた声。
ここが狂っていても、彼女の声だけが“人間の温度”を保っている。
「日下部さんの器は、どこにある」
セラは少しだけ首を傾けた。
白い廊下の奥の、何もない空間を指先でなぞる。
「現実側に“あります”。
ただし――同じ場所に留まっていません」
「移されてる?」
「引かれています」
言葉が、刺さった。
引かれる。 見えない糸で、座標ごと持っていかれる。
セラの指が、廊下の壁へ向く。
白が、薄く波打った。
そこに“窓”が開く。
扉ではない。穴でもない。
ただ、向こう側の景色だけが、紙の裏みたいに透けてくる。
熱。
鉄の匂い。
赤黒い線が走る床。
そして、杭の紋。
サキが息を呑む。
「……なんか、暑い……こっち、寒いのに……」
「視線、固定しないで」
セラが小さく言う。
「“窓”は便利ですが、便利なものほど、確定させやすい」
確定。
その言葉が出るたび、ハレルは喉の奥が乾く。
窓の向こうで、影が動いた。
黒いローブ。顔がない。
顔がないのに、こちらを“見ている”感じだけが残る。
その瞬間。
バッグの中で、薄緑が一拍、暗く沈んだ。
黒い粒が、ぱらりと散るように揺れる。
(――やめろ)
ハレルは反射でカプセルを押さえた。
触れた指先に、遠い震えが返る。
声じゃない。
でも、“声になりかけた何か”が、喉元まで上がってきて消えた。
セラが言う。
「向こうが、縫い目を留めているのです。杭で」
「縫い目?」
サキが訊く。
セラは歩きながら、簡単な身振りで示す。
「二枚の布を重ねて、糸で縫うと、そこは一体になります。
けれど杭を打てば、縫い目は“引っ張られる方向”を持つ。
今は――引きずり込む方向に」
ハレルは、窓の奥の赤い線を見た。
赤線が、一本ずつ、どこかへ向かって伸びている。
現実の塔の中枢へ。
自分たちが向かう先へ。
(父さん……?)
胸の主鍵が熱い。
熱が、怒りじゃない。
“知っている”という感覚に近い。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都/解析室】
ノノ=シュタインは、
机に肘をつきながら、結晶板の表示を睨んでいた。
赤点と線。境界地図。
いつもなら“綺麗に合う”はずの数が、今日は合わない。
「……やっぱ変だな」
独り言が漏れる。
数字が、ずれている。
ずれているのに、合おうとしている。
無理やり、引き寄せられている。
イヤーカフに指を当てる。
「リオ、アデル。今の揺れ、感じた?」
返事はすぐに来た。
『来た。床が跳ねた』 リオの声。
息が近い。戦っている息。
続いて、低い声。
『固定の杭か』
アデル。
短い言葉が的確すぎて腹が立つ時がある。
「うん。固定のほうが、先に弱った」
ノノは結晶板を指で弾く。
映像の端で、“白い線”が細く伸びる。
まるで廊下。 いや、廊下そのもの。
「それとさ。白い廊下――あれ、地図に出てきた」
『……出るのかよ』
リオが唸る。
「出る。出ちゃう。
たぶん“通路”って扱いなんだろうね。座標の」
ノノは、簡単な言い方に変えた。
「杭って、画鋲みたいなもん。
二枚の紙を重ねて、画鋲で留めると、ズレないでしょ。
今の杭はそれ。で――真ん中の杭は、
ホチキスの針みたいに、二枚を“引っ張って閉じる”やつ」
『閉じる?』
アデルが問い返す。
「うん。閉じて一枚にする。
その時に……重いものを基準にする」
ノノは結晶板の赤点の一つを、
爪先でなぞるみたいに指先で追った。
そこだけ、濃い。
「日下部の器。あれが“重り”にされてる。
器が引かれるから、コアのほうが薄くなる。
戻ろうとしても、戻り先が動くんだもん」
『……だから、コアが濁る』
リオが低く言った。
「そう。だからお願い。真ん中は最後。
今、ローブが真ん中を補助してる。
固定をもう一つ殺せたら、引きずり込みは一回、息継ぎするはず」
言いながら、ノノの胸の奥がざわつく。
息継ぎ――それは、次に大きく引くための間かもしれない。
結晶板が、また白く明滅した。
一瞬だけ、ノノの目に“白い廊下”が映った。
遠い。 けれど、確かにそこにある。
「……ほんと、ハレルの父さん、厄介な橋作ったな」
ノノは笑えないまま呟いて、イヤーカフに息を吹き込んだ。
「二人とも、無茶しないで。
今のまま進めば――向こうと、もっと近くなる」
◆ ◆ ◆
【異世界・オルタ・スパイア/塔内部・基礎区画】
基礎区画は、塔の“腹”だった。
石と金属が混じった壁。床を走る赤黒い線。
線が脈打つたび、空気が熱を持ち、息が鉄臭くなる。
三本の杭。
右は折れている。
砕けた紋が、まだ赤く燻っていた。
残るは二本――左の固定。真ん中の引きずり込み。
アデルが剣先で床の線をなぞる。
「線が真ん中へ集まっている」
「だろ。気持ち悪いくらい“呼んでる”」
リオは腕輪の熱を堪えながら、黒ローブたちを見る。
奴らは前に出てこない。
戦う気配じゃない。
ただ、杭の周りに立って、手を動かして――
“維持”している。 儀式の補助。呼吸みたいに淡々と。
「邪魔
リオが一言落として、鎖の術式を走らせた。
赤黒い線の上を、銀の鎖が滑る。
ローブの足首に絡みつく。引き倒す。
だが倒れても、別のローブがすぐ手を伸ばす。杭へ。線へ。
「数で維持してるな」
アデルが息だけで言う。
次の瞬間、剣が一閃した。
鎖に絡んだローブの腕だけを、正確に落とす。
血は出ない。 出ないのに、黒い霧が散る。
リオは舌打ちした。
(人じゃない。けど、動く)
(動くなら、止める)
「ノノ、左からでいいんだな?」
『うん。左。今なら、割れる』
耳の中の声が、いつもより近い。
リオは左の杭へ鎖を回した。
鎖が紋に噛みつき、魔力を吸って震える。
アデルが杭の根元へ剣を差し込む。
固定の杭は硬い。だが、“固定”は壊れ始めると早い。
「……いける」
リオが息を吐いた瞬間。
杭の紋が、ひび割れた。 赤黒い線が、一拍だけ逆流する。
――世界が、透けた。
白い廊下。
数字みたいな光粒。
そして、そこに、二人と一人。
黒い制服の少年。
隣の少女。
少し前を歩く白い影。
薄い。
でも、さっきより輪郭がある。
リオの心臓が跳ねる。
(ハレル……) 口に出しかけて、噛み殺す。
見たら固定される。
でも――近い。近すぎる。
アデルが、視線を逸らしたまま言った。
「窓が大きくなった」
「固定が死んだからな」
リオは鎖を引きちぎるように引いた。
左の杭が、音もなく折れる。
熱が、ひゅっと抜けた。
抜けた瞬間に、真ん中の杭が――
赤く、強く脈打った。
まるで“次はこっち”と言っているみたいに。
『今、真ん中が勝手に反応してる』
ノノの声が掠れる。
『ローブが、補助してる。引く準備――してる』
リオはローブを睨んだ。
「じゃあ、準備ごと潰す」
アデルが剣を構える。
「行くぞ」
二人は、真ん中へ走った。
◆ ◆ ◆
【中間層・白い廊下】
白い廊下が、かすかに震えた。
床が沈む。沈んだぶんだけ、前に進む距離が伸びる。
サキが小さく声を漏らす。
「……今、揺れた」
「向こうが杭を折った」
セラの言葉は断定だった。
「固定が一つ外れました。だから窓が開く」
窓の向こうが、少しだけ鮮明になる。
赤黒い線。 杭。 走る二つの影。
サキが思わず目を凝らしそうになって、ハレルの袖を掴んだ。
「……お兄ちゃん、あれ……!」
「見るな」
ハレルは強くは言わない。
強く言ったら、サキの心が折れる。
だから代わりに、袖を握り返す。
サキのスマホが震え、短い文字が灯る。
《いま》
《いきはあわせて》
《とまるな》
ハレルは頷き、歩幅を合わせた。
一、二。
サキの靴音が、ほんの少し遅れる。
ハレルは半歩だけ速度を落として、同じリズムに揃えた。
バッグの中で、薄緑がまた一拍、沈んだ。
黒い粒が揺れて、脈が途切れ――
戻る。 戻るけど、戻りきらない。
(……待ってろ)
(戻す。絶対に)
白い廊下の先で、空気が切れ目を作った。
扉のない扉。
そこから、機械油みたいな匂いが、うっすら混じってくる。
現実の匂い。 異世界の熱。
二つが、混ざりはじめている。
セラが立ち止まらずに言う。
「次を越えたら、もう少し“重く”なります」
重く。 近く。 同じ場所に。
サキが喉を鳴らして、でも頷いた。
「……置いていかれない」
ハレルも、頷く。
「置いていかない」
二人は、白の切れ目へ踏み込んだ。






