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【中間層・白い廊下】
切れ目の向こうは、白じゃなかった。
白が“ほどける”みたいに裂けて、その裂け目の奥から、
金属の匂いが滲み出してくる。
機械油と、埃と、冷えた空調の匂い。
現実の匂いだ。
ハレルは、踏み込む足を一拍だけ止めた。
止めたせいで、床の白がきしんだ。
音が遅れて追いかけてくる。
(止まるな)
さっきの文字が胸に残っている。
サキが袖を掴む。
指が震えているのに、力は抜けない。
「……お兄ちゃん、ここ……」
「歩幅、合わせろ」
声は低く。
命令じゃない。確認だ。
二人で、同時に息を吸う。
同時に吐く。
足を出す。
裂け目を越えた瞬間、白い廊下の“空気”が変わった。
軽かったはずの白が、急に重くなる。
まるで、濡れた布を肩に掛けられたみたいに、全身にまとわりつく。
胸元の主鍵が、痛いほど熱を増した。
熱は一点に集中して、鼓動と同じ周期で脈打つ。
その脈に合わせて、バッグの中の薄緑が――沈んだ。
(……また)
薄緑の光が薄くなる。
黒い粒が、混ざるというより“寄る”。
脈が一瞬、途切れかけて――戻る。
戻るけど、波形が崩れている。
サキが唇を噛み、スマホを見下ろさずに言った。
「……いま、コアが……痛そう」
「感じるのか」
「分かんない。でも……胸が、きゅってなる」
ハレルは、答えないまま拳を握った。
感情で確定させたら負ける。
でも、感情を捨てたら――ここまで来た意味が薄れる。
セラが、前で足を止めた。
近づきすぎない距離を保ったまま、白の壁へ手を伸ばす。
白が、薄い膜みたいに揺れて、そこに“輪郭”が浮いた。
扉の形。
だが、扉はない。
輪郭だけがあり、向こう側の光景が薄く滲む。
コンクリの灰色。
配管。
非常灯の赤。
【現実世界・オルタリンクタワー/サービス導線・内部】
見えた瞬間、視界が“反転”した。
白い廊下が、現実の通路へ滲み出る。
通路の壁材が一拍だけ、石畳の灰に見えて――すぐ戻る。
だが戻りきらない。
壁の角に、白い粒が引っかかっている。
数字みたいな光粒が、ゆっくり落ちて、消えた。
ハレルは、息を呑んだ。
白い廊下の中にいるはずなのに、足の裏は金属の冷たさを拾う。
冷たいのに、肩のあたりは妙に暑い。
二つの世界の温度が、身体の中で喧嘩している。
サキが、喉の奥で小さく呻いた。
「……酔う……」
「目、閉じるな」
「閉じない。……閉じたら、置いてかれそう」
その言葉が、ハレルの胸を刺した。
セラが、静かに言う。
「ここが“縫い目”です。いま、解けかけています」
「解けたら、どうなる」
「……重なります」
セラは言い切る。
逃げ道のない言い方だった。
通路の奥――
本来なら何もないはずの空間に、赤黒い線が一瞬だけ走った。
床の金属に“焼き付いた”みたいな線。
次の瞬間には消えるのに、目の奥には残る。
そして、遠くで、鐘の音がした。
あり得ない。
ここは現実の塔の内部だ。
なのに、石の鐘楼みたいな残響が、壁を通って響いた。
ハレルの喉が乾く。
(――来る)
直感が先に走る。
次の瞬間、耳が追いつく。
ゴゥ――と低い振動。
塔の奥から、何かが回っている。
機械の回転じゃない。
世界の継ぎ目が擦れる音。
サキのスマホが震えた。
画面は見ない。見ないまま、文字だけを“感じる”。
短い合図が一つだけ来た。
《いま》
セラが、扉の輪郭へ手を置く。
白い膜が、薄く破れる。
破れた瞬間、向こう側の“赤い熱”が、こちらへ噴き出した。
◆ ◆ ◆
【異世界・オルタ・スパイア/塔内部・基礎区画】
真ん中の杭は、息をしていた。
赤く、強く、脈打つ。
折れた固定杭の残骸を吸うみたいに、
赤線が真ん中へ集まり、紋が膨らむ。
黒ローブは、そこに輪を作って立っていた。
手の動きだけが揃っている。
声はない。祈りでも呪文でもない。
“維持”という作業だけが、淡々と続く。
リオは鎖を走らせながら、歯を食いしばった。
「……間に合え」
呟きは、自分に向けたものだ。
誰かに届かなくていい。
アデルは剣を構え、ローブの動線を切る。
人じゃない。けれど“人の形”をしたものは、切れば止まる。
止まらないなら、止まるまで切るだけだ。
鎖が、真ん中の杭へ噛みついた。
紋が、鎖を焼こうとする。
リオの腕輪が熱を増し、皮膚の下で金属が唸る。
「ノノ、今だ」
イヤーカフが震える。
『うん。今なら、ズレが最大。――抜ける』
ノノの声は焦っていない。焦ったら“確定”になるのを知っている声だ。
アデルが、剣を杭の根元へ差し込んだ。
「一拍で抜く」
「分かった」
リオは鎖を引く。
アデルは剣で“支え”を切る。
黒ローブが一斉に手を伸ばした。杭の紋へ。赤線へ。
遅い。
ほんのわずか遅い。
それだけで十分だった。
真ん中の杭の紋に、亀裂が走る。
亀裂が、赤黒い線を吐き出す。
吐き出された線は空間を舐め、塔全体の“腹”を引き攣らせた。
――世界が、折れた。
基礎区画の壁が透明になる。
透明というより、“別の景色を重ねて映す”。
白い廊下。数字の光粒。
その向こうに――灰色の通路。配管。非常灯。
そして、そこに、ハレルとサキ。
今度は薄くない。
薄いガラス越しじゃない。
同じ空気を吸っている距離感がある。
リオの喉が鳴った。
名前を呼びたい。
だが呼んだら、固定になる。
代わりに、拳を握る。
アデルが、息だけで言った。
「……来た」
「来たな」
リオは短く返した。
黒ローブが、初めて“前へ”出た。
杭を守る動きじゃない。
“反動”をこちらへ向ける動きだ。
真ん中の杭が、折れた。
折れた瞬間、赤い熱が爆ぜる。
爆ぜた熱は、波になる。
波が、二つの世界を同時に叩く。
◆ ◆ ◆
【現実世界・オルタリンクタワー/サービス導線・内部】
衝撃が来た。
床が一拍、沈む。
非常灯が揺れ、壁の配管が鳴る。
なのに、その揺れの中に――石畳のきしむ音が混ざる。
ハレルは咄嗟にサキの肩を掴んだ。
サキが崩れそうになるのを、引き戻す。
サキの目が、驚きで見開かれる。
「……お兄ちゃん、いま、向こうの……!」
「言うな。……言葉で固定する」
それだけ言って、喉の奥で息を止めた。
通路の奥が、歪んだ。
歪みは、裂け目になる。
裂け目から、赤い線が走る。
赤い線が床を焼く。
焼けたはずなのに、焦げた匂いはしない。
代わりに、ガラスを削る冷たい粉の匂いがする。
セラが、一歩だけこちらへ寄った。
寄ったのに、触れない距離。
「来ます。重なります」
その言葉が終わる前に――視界が“二重”になった。
壁の灰色の上に、石の壁が重なる。
床の金属の上に、赤黒い線が走る。
天井の配管の上に、黒い梁が影を落とす。
そして、通路の先に、二つの影が現れた。
剣を持つ長身。
腕輪を嵌めた少年。
リオ。
アデル。
サキが息を止める。
ハレルも、止めた。
止めたのに、胸の中だけが熱い。
(……本当に、同じ場所だ)
(やっと――会えた)
リオの視線がこちらに向く。
目が合った瞬間、胸の主鍵が一拍、強く脈打った。
それは合図じゃない。
“繋がった”という実感だ。
アデルが剣先をずらし、通路の奥を睨む。
「来るぞ」
言葉が、普通に聞こえた。
白い廊下越しじゃない。
同じ空気の振動として届く。
黒ローブが、裂け目の向こうから溢れ始めた。
塔の壁から滲み出るように。
スパイアの床の赤線から立ち上がるように。
二つの世界の“どちらから”とも言えない場所から現れる。
セラが言う。
「今ここは、現実でも異世界でもありません。縫い目の上です」
「じゃあ――」
サキが声を出しかけて、飲み込んだ。
代わりに、ハレルの袖を掴む力を強める。
ハレルはバッグの中を押さえる。
薄緑の光が、また薄くなる。
黒い粒が、増えた。
脈が、途切れかける。
(……急げ)
(器に近づけ)
リオが、こちらへ一歩踏み出した。
その一歩が、現実の床を鳴らし、同時に石畳を鳴らした。
アデルも続く。
二人が来る。
こちらへ、同じ通路の上を。
「ハレル」
リオが名前を呼ぶ。
呼んだのに、固定される怖さより、現実感が勝った。
「待たせたな」
「待ってない」
ハレルは短く返した。返してしまった。
喉が痛くなるくらい、嬉しさが来た。
サキが、リオとアデルを見て、目を揺らす。
怖い。
でも、逃げない。
アデルがサキを一瞬だけ見て、頷く。
「守る」
短い言葉。余計な説明がない。
それだけで、サキの肩が少し落ちた。
黒ローブが、数を増す。
そして、その背後――
通路の奥の奥で、何かが“動く”気配がした。
機械の音。
いや、機械じゃない。
“器”が移動する時の、空間の擦れる音。
セラが、息を少しだけ強く吐いた。
「……日下部の器は、この先です」
「間に合うか」
ハレルが問うと、セラは視線だけで答えた。
間に合わせるしかない。そういう目だった。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都/解析室】
結晶板の地図が、白く跳ねた。
数値が一瞬、全部ゼロになる。
次の瞬間、二つの座標が――同じ点を示した。
ノノは、椅子から半分立ち上がっていた。
「……重なった」
声が、かすれる。
かすれたのに、笑えない。
これは“成功”じゃない。現象だ。
イヤーカフに指を当てる。
「リオ、アデル。聞こえる?」
返事は、すぐ来た。
『聞こえる』
『聞こえる』
二人の声が、同じ距離で返る。
ノノは唇を噛む。
「……じゃあ、次。ローブの補助が切れた反動が来る。気をつけて」
言い終えた瞬間、結晶板の端に小さな点が灯った。
薄緑。
遠い薄緑。
それが、黒く濁りかけている。
(コア……)
(間に合え)
ノノは机の上に手をつき、もう一度だけ呟いた。
「……お願いだから、誰も落とさないで」
◆ ◆ ◆
【現実世界・オルタリンクタワー/サービス導線・内部】
通路の先が、また揺れた。
赤線が走り、白い粒が降り、非常灯が一拍、明滅する。
その中で、ハレルたちは同じ方向へ走り出した。
ハレルとサキ。
リオとアデル。
セラは少し前を行く。触れない距離で、道だけを示す。
世界は、完全に重なっているわけじゃない。
でも――もう、戻れないほどには重なった。
バッグの中で薄緑が、弱く脈を打つ。
途切れかけて、戻る。
戻りきらない。
(……待ってて、日下部さん)
ハレルは心の中で言った。
言葉にしない。
言葉にしたら、ここで固定される気がした。
通路の奥で、黒ローブが壁から滲む。
その向こうに、“器”の気配がする。
奪われた座標が、すぐそこにある。
ハレルは息を吸い、走る速度を上げた。
サキが並ぶ。
リオが並ぶ。
アデルが半歩前へ出る。
四人は、同じ床を蹴った。
同じ“今”へ向かって。