テラーノベル
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静寂の隙間に、蓮司の声が滑り込んだ。
「さっきの、見たんだろ?」
遥は返事をしなかった。蓮司はそれを確認の代わりにしたように、片手で校舎の壁を軽く叩きながら、ふっと笑った。
「俺が日下部に何したかなんて、言葉にしなくても分かるはずだよな? 遥、おまえなら」
遥の喉の奥が、焼けるように痛んだ。怒りでも、恐怖でもない。自分のせいで巻き込んだ、という痛みだった。
あのとき——
空き教室で、日下部は声も上げず、ただ耐えていた。制服のシャツは乱れ、机に押し付けられた背中が不自然に歪んでいた。蓮司は片手で彼の顎を上げ、もう片方の手を、スラックスのベルトにかけていた。
唇を寄せ、囁くように何かを吹き込んでいた。甘やかすような声色で、ただし、そこにあるのは支配と暴力だった。
遥が入ったとき、日下部は蓮司の顔を見ていなかった。睫毛が震えていて、目は閉じられたまま、拒絶もせず、ただじっと耐えていた。
「おまえは、どうするか迷った顔してたな」
蓮司が言った。
「止めるふりして、でも結局、足が動かなかった。……仕方ないよな。だって、おまえのせいで日下部が標的になったんだから」
遥は唇を噛んだ。血の味が広がる。でも痛くはなかった。
「おまえって、さ。自分が地獄にいるのはどうでもいいくせに、人を巻き込むと急に慌てるよな」
蓮司は肩をすくめた。
「そういうとこ、かわいそうだと思うよ。ほんとに」
遥の足元が少しぐらついた。地面にある影が、どんどん濃くなる。自分が踏んでいるものが、もはや地面なのかもよく分からない。
「日下部、変わったよな。……いや、もともと静かなやつだった。でも最近、沈黙の質が違う。前は“壁”だったけど、今は“楯”みたいだ。おまえのために立ってる感じ。……違うか?」
蓮司の声は低く、淡々としているのに、何より深く抉ってくる。
「でもな、希望なんて、ほんの少しでも芽が出れば、それを潰すのが一番、効果的なんだよ」
遥の拳が震えた。
……巻き込んだのは、オレだ。
アイツは、オレに関わったから——
何も言わなければよかった。見なければ、近づかなければ、笑わなければ。
それでも——
遥は、ほんのわずかに首を振った。
見捨てられないとか、守りたいとか、そんな綺麗な言葉じゃない。
ただ、自分が唯一触れた誰かを、黙って「壊される」のを見ているのが——耐えられないだけだった。
「……やめろ」
声は掠れていた。でも、確かに出た。
蓮司は目を細めた。
「言葉にできたの、久しぶりじゃないか?」
嘲笑ではなかった。ただ、興味深げに見ていた。
遥の中で、何かが擦れていた。もうすり切れて、声にならない叫びが、喉の奥で反響していた。
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