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370
パタンッ
勇斗の部屋の扉が閉まる。
するとおずおずと、勇斗の手が俺に触れてきた。
あの後会話はなく、ただ並んで車に乗ってここへ帰ってきた。
窓の外の景色が高速で通り過ぎるのをただ眺めていた。
一度だけ、信号が止まった時に、仲良さそうに手を繋いで歩くカップルが目に止まった。
幸せそうな笑顔。楽しそうに何かを話している。
それがどうしようもなく遠くに感じられた。
手を伸ばせば届いたのに。
そんな二人だったはずなのに。
今は多分………
「…仁ちゃん?」
「…あ」
「…あの…大丈夫?」
「…うん」
気付いたら繋がれていた手。
そこに嫌悪も幸福もなかった。
無機質な人形になったような、そんな感覚。
変だなと思うけど、どうすれば元通りになるかなんて分からなかった。
「…仁ちゃん、今日ご飯食べてなかったよね?」
「…ああ」
「お腹、空かないの?」
「…うん」
「…」
「…いや…なんか…食べるよ」
「…じゃあ俺作るから、待ってて」
離された手が空気に触れて冷たい。
なんだろう。
やっぱりなにか変だ。
…………
「いただきます」
「頂きます」
勇斗の作ったご飯の前で二人で手を合わせる。
いつも通り…いつも通り。
「…」
濃紺の皿に乗せられたリゾットをスプーンで口に運ぶ。
温かい。
横に置かれた水は勇斗の家のもの。
炭を入れた水。飲み慣れた水。
いつものグラス。
いつものテーブル。
隣から聞こえる咀嚼音。
まだぼんやりとする。
いつも通りの部屋なのに、別の部屋にいるようだった。
誰かを通して自分を見ている、そんな気分。
「…仁ちゃん、食べないの?」
「…うん…たべる」
「…」
また一口、スプーンを口に運ぶ。
……その時やっと違和感に気付いた。
温かい。
けど味がしないんだ。
昨日は…あの後タクシーで家に帰って…
水を飲んだ。
お風呂に入って……それで……
「…仁人」
「…なに?」
「…ごめんね」
「…なにが」
「…」
なにが、なんて言わなくてもわかる。
勇斗がなにを謝っているかもわかる。
だけどわかりたくない。
忘れたいんだ。
なにも知らなかった頃の、昨日までの自分に戻りたい。
「…」
頬に生暖かいものが伝う。
視界が歪んだ。
「…っ、仁ちゃん」
「…え」
「…仁ちゃん、」
「…なに?」
カチャン、と食器の音が鳴ったすぐあとに、勇斗が俺を抱き締めた。
「俺、ほんとに…」
「…勇斗」
「取り返しのつかない事…」
「…」
手で頬に触れると、涙のようなものが伝っていて。
なんで泣いてるんだろう。
悲しい訳じゃない。
特別辛くも感じない。
なのに涙だけが止まらない。
「…ごめん、ほんとに、ごめん」
「…もう、いいから」
「…よくないっ」
身体が軋む程抱き締められて、少し痛い。
痛みだけが、生を感じさせるみたいだった。
「…」
「…仁ちゃん」
そのまま顔を寄せられてキスをされた。
唇が触れる感覚。
じっと目を開けてキスを受け入れていた。
キスって、こんなんだったっけ?
「…」
勇斗の舌が入ってくる。
考えそうになって、やめた。
忌まわしい出来事。
忘れたい出来事。
それを思い出しそうになった時少しだけ鳥肌が立つのを感じた。
ソファに押し倒された俺の首筋に熱い息がかかる。
服を脱がされて、素肌が空気に晒される。
俺の下でゴソゴソと動く勇斗が滑稽だった。
何度も何度もキスをされた。
唇に、身体に。
反応をしない俺を悲しそうに見つめた勇斗の頭が俺の下腹部に降りていく。
ジーッというジッパーを下ろす音がやけに耳に響いた。
「…」
生ぬるい口内に自身が包まれるのを感じた。
クチュクチュと音がする。
虚空を見つめたまま俺は抵抗もなくされるがままになっている。
こんな身体じゃ勇斗も満足しないよな。
ただそう思った。
感覚が麻痺したようになにも感じなかった。
へにゃりと力を持たない下半身の感覚が妙に無機質で、本当に俺の身体はどうかしてしまったのかもしれない。
「…勇斗」
未だ俺の身体をどうにか開かせようとしている勇斗の名前を呼んだ。
「…俺…強くなるから」
そう言うと、ピタリと勇斗の動きが止まった。
「……お前のしたこと…忘れるから」
「…俺…勇斗のこと…嫌いには…なれないから」
「……だから…俺…強くなる」
ぼーっと虚空を見つめたままそう言った俺の視界に勇斗が戻ってきた。
その顔は、泣いていた。
「仁、ちゃん」
「…なんで…泣いてるの?」
「…傷付けて、ごめんっ」
「…」
「こんなにしてごめんっ」
「…」
「愛してるっ」
「…俺も…愛してるよ」
「仁人じゃなきゃダメなんだっ」
「…俺も…勇斗じゃないと…嫌だ」
わんわんと泣き出した勇斗の身体を今度は俺が抱き締めた。
ちゃんと温かくて、何故だかとても懐かしい。
匂いや体温、口の中の味が、再び帰ってきたような感覚だった。
「…キスしたい」
「…ん、するよ」
「…ん」
唇を付けられた時胸がきゅうんと締め付けられた。
どう転んでも、俺が勇斗を好きなことには変わりがなかった。
裏切られても、それは変わらない。
だから、辛かったんだ。
感覚が戻ってきた事を自覚した俺は少しだけ安心した。
「あ…ふ…」
いつものようにキスに応える。
情熱的なキスだった。
そしてそのまま、勇斗に抱かれた。
今度はちゃんと身体が反応して、勇斗の熱も感じられた。
けど、それが崩壊の始まりだと俺は気付いていなかった。
…………
最初の異変は身体を重ね終わってすぐだった。
「あっ…あ…」
「はあ…はあ…」
「ん…、あ…」
熱い情事のあとに残る余韻の中で考えていた。
元に戻れるかもしれない。
忘れられるかもしれない。
…また勇斗を信じられる日が来るのかもしれない。
―そう思った時、昨日の感覚がフラッシュバックした。
ぶわっと冷や汗が噴き出して、身体が震える。
呼吸が浅くなった俺に気付いた勇斗が慌てて俺を抱き起こした。
「はっ、はっ、はっ」
「仁ちゃん!?」
「はっ、はっ、はっ、」
「仁ちゃん!!」
苦しい。息ができない。
目を見開いてもがく。
掴んだ腕に爪を突き立てた。
「…っ」
「あっ、はっ、や、とっ」
「仁、ちゃんっ」
「たっ、はっ、はっ、たすけ、てっ」
「待ってて、今救急車呼ぶから!」
「だめっ、そ、れだめっ、はっ、はっ」
「だってそんなこと言ってる場合じゃ!」
「ふっ、ふっ、はーっ、はーーっ」
ぐにゃりと視界が歪んだ。
酸素が、足りてないんだ。
こういう時どうする、どうするどうするどうする
「仁ちゃん息して!」
「んんーーっんーーっ」
鼻から息を吸おうと必死にもがく。
見開かれた目が乾いて涙が溢れた。
「ふーっ、ふーーっ、」
すーーーっと鼻から思い切り息を吸い込んだ。
あ……少し……楽になった……。
「スーーーッ、ふーーーーーっ」
いっぱい吸い込んで口から吐く。
なんとかそれを繰り返した。
「仁ちゃん…」
「ふーーーっ、すーーーーっ」
「あ…顔色、戻ってきたよっ」
「はっ、はーーーっ」
「仁人……っ」
仰向けに勇斗の膝の上に寝かされて、息を吸って吐く。
時折勇斗の涙が俺に降ってくる。
「はあ…はあ…はあ…」
「仁ちゃん…っ」
「も……、だい、じょうぶ」
「うう…ううっ」
泣きながら俺を抱きしめる勇斗が痛々しかった。
さっきまでのパニックで、体力を使い切った俺はただ抱かれながら考えていた。
アレがまた来たらどうする?
もしまたあんな状態になってしまったら…。
死を予感するような恐怖が蘇りそうになり勇斗にしがみ付いた。
「…は、こわい」
「仁ちゃん、大丈夫、大丈夫だよ」
「はやと…」
「どこにも行かない、ずっとここにいるから」
「…はやと」
「仁人」
「…キスして」
「…」
すぐに唇が塞がれた。
乾燥した唇同士が触れ合う感覚。
「………明日」
「…明日?」
「………病院行く…念の為に」
「………俺も行く」
「…そうしてくれると助かる」
「………」
なんとも悲しい空気だった。
強くなりたい…そう思っても俺の中のなにかがもう壊れていた。
それを実感すると、もう戻れない気がして、確かめるように勇斗の顔をただ見つめていた。
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