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海沿いのコテージ。
古い木の床が歩くたびに軋むその場所で、二人の「生活」が始まって三日が経った。
学校も、病院も、世間の目もない。
あるのは、窓の外に広がる灰色の海と、二人の体温だけ。
若井は朝早くに起き、元貴のためにスープを作っていた。
「……ん」
ベッドから、元貴が起き上がる気配がする。若井は笑顔で振り返り、スケッチブックに
『 おはよう、元貴 』と書こうとした。
けれど、元貴の反応がいつもと違った。
元貴はベッドの隅に体を縮め、震える手でシーツを強く握りしめている。
その瞳には、今まで若井に向けていた信頼も愛も消え失せ、代わりに剝き出しの「恐怖」が宿っていた。
「……だ、だれ……? ここ、どこ……?」
若井の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「……元貴? 何言ってんだよ、俺だよ。
若井だよ」
若井は慌てて駆け寄り、元貴の手に触れようとした。しかし、元貴はそれを激しく振り払った。
「触らないで!! こわい……っ、誰なの!? 涼ちゃんは……? 涼ちゃんを呼んで……!」
元貴はパニックに陥り、自分の耳を塞いで叫ぶ。
耳は聞こえないはずなのに、彼は自分を襲う「無音の恐怖」に耐えきれず、幻聴のようなノイズに怯えていた。
若井は呆然と立ち尽くした。
涼ちゃんが言っていた「記憶の混濁」。
昨日まで、あんなに愛おしそうに自分の名前を呼んでいた男が、今は自分を「得体の知れない侵入者」として見ている。
若井は震える手で、スケッチブックをめくった。
『 俺だよ。滉斗。お前の、……恋人の、若井滉斗だ。 』
元貴はその文字を凝視したが、首を横に振った。
「……わかんない。そんな人、知らない……。お父さん? お母さん? 助けて……」
元貴は子供のように泣きじゃくり、部屋の隅で丸くなった。
若井は、胸が引き裂かれるような痛みを感じた。
「俺を忘れても、何度でも惚れさせてやる」
病院でそう豪語した自分を殴りたかった。現実は、そんなに甘いものじゃない。
愛する人に「怖い」と拒絶されることが、これほどまでに絶望的だなんて。
若井は、ふと思い出した。
ポケットに入れていた、涼ちゃんから託されたあのビデオカメラを。
(これ、……今使うしかないのか……?)
若井は震える指で再生ボタンを押し、液晶画面を元貴の方へ向けた。
そこには、数日前の音楽室で、若井のギターに合わせて幸せそうに笑う元貴自身の姿が映っていた。
『 ねぇ、若井。僕が君を忘れちゃったら、これを見せて。……僕は、君を愛してた。世界で一番、かっこいい僕のヒーロー。 』
画面の中の元貴が、手話でそう伝えている。
元貴は、画面の中の自分を見つめ、ピタリと動きを止めた。
「……これ、……ぼく……?」
「(そうだよ、元貴。俺たち、ずっと一緒だったろ)」
若井は泣きながら、画面の中の自分たちの姿を指差した。
元貴はゆっくりと、若井の顔に手を伸ばした。
相変わらず、その顔はぼんやりとした灰色の塊にしか見えない。
けれど、元貴がその頬に触れた瞬間——。
若井の目から零れた熱い涙が、元貴の指先を濡らした。
「……温かい。……この色、知ってる……」
元貴の脳裏に、真っ暗な闇を切り裂くような「オレンジ色の火花」が、一瞬だけ弾けた。
記憶は戻らなくても、魂がその熱を覚えていた。
「……わか、い……? ……若井、なの?」
「……ああ、そうだ。そうだ、元貴……!」
若井は元貴を力一杯抱きしめた。
元貴はまだ怯えていたが、若井の腕の強さと、その懐かしい匂いに、少しずつ体の力を抜いていった。
「……ごめんね。僕、……また忘れちゃうかもしれない」
「いいよ。何度でも思い出させてやる。何度でも、お前の前に現れてやる」
若井は、元貴の額に優しくキスをした。
外は冷たい冬の雨。
二人の「100日後の卒業式」まで、あとわずか。
けれど、若井の心には、もう迷いはなかった。
たとえ元貴が「大森元貴」でなくなったとしても、自分が「若井滉斗」である限り、この愛は終わらない。