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コテージに朝の光が差し込む。
元貴の体調は驚くほど安定していた。
記憶はまだ薄氷のようにもろく、時折「ここはどこ?」と不安げな顔をするものの、若井が差し出すスケッチブックの文字を見れば、すぐに穏やかな表情に戻るようになっていた。
若井は、元貴の指を一本ずつなぞりながら、新しい手話を教えていた。
『 ずっと・いっしょ・だよ 』
元貴がぎこちなくその指を真似し、若井の胸元で小さな花を咲かせるように指を動かす。
「……いっしょ、……ずっと?」
「(そう、ずっとだ)」
若井が微笑み、元貴の額に鼻先を寄せたその時。
静まり返った部屋の中に、場違いな振動音が響いた。
若井が慌てて自分のスマートフォンを手に取る。発信元は「涼ちゃん」だ。
「……涼ちゃん? どうした」
『——今すぐ、そこを離れて。』
受話器の向こうの涼ちゃんの声は、かつてないほど鋭く、焦燥に満ちていた。
『病院側が君の兄貴の車のGPSを特定した。あと、僕の通話記録も洗われた。
……今、警察と病院の車がそっちに向かってる。あと15分で着く。』
若井の背中に冷たい汗が流れる。
「警察……? なんでだよ、俺たちはただ——」
『世間から見れば、君は「病人を連れ去った誘拐犯」なんだよ! 滉斗、早く!! 元貴を連れて、裏の林から岬の方へ逃げて。そこにあるボートハウスに、僕の知り合いの車を待たせてある。』
「……涼ちゃんお前はどうなるんだよ」
『いいから早く行って!! 元貴を守れるのは、君だけなんだから。』
電話が切れた。
若井は迷わず、元貴に厚手のコートを被せ、震える彼を抱き上げた。
「……わか、い? どこいくの……?」
「(散歩だ。……ちょっと、急ぐぞ)」
若井はスケッチブックを書く時間さえ惜しみ、元貴を背負ってコテージの裏口から飛び出した。
直後、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
冬の枯れ木が剥き出しの林を、若井はがむしゃらに走った。
背中の元貴は、耳が聞こえないはずなのに、若井の心拍の乱れから異変を感じ取ったのか、若井の首をギュッと強く抱きしめた。
「……わか、い、……こわい……っ」
「(大丈夫だ、俺がいる。絶対に離さない。)」
若井は何度も心の中で叫んだ。
林を抜け、断崖絶壁の上に立つ岬が見えてきた。
しかし、運命は非情だった。
岬の入り口に、数台の黒い車が滑り込んでくるのが見えた。
「あ……っ」
若井は足を止めた。前方には追手、後方には迫り来るサイレン。
袋小路。
「滉斗くん! 止まりなさい! 彼は治療が必要なんだ!」
車から降りてきた医師や教員たちが、メガホンで叫ぶ。
若井は元貴を背中から降ろし、自分の後ろに隠した。
「……治療なんて嘘だ! お前らは、コイツを閉じ込めて、真っ白な部屋で死ぬのを待つだけだろ!」
若井が叫ぶが、その声は強い海風にかき消される。
その時、追手の集団の中から、一人の男が歩み出てきた。
ボロボロになった制服を着て、息を切らした藤澤涼架だった。
「涼ちゃん……?」
元貴がその姿を認め、震える声で呼んだ。
涼ちゃんは若井と元貴の前に立ち、追手の方を向いて両手を広げた。
「……行かせないよ。彼らは、今日ここで死ぬために来たんじゃない。……二人で生きるために、ここに来たんだ。」
「藤澤くん、退きなさい! 君も共犯になるぞ!」
「最初から、そのつもりだよ。」
涼ちゃんは静かに微笑むと、背後の若井にだけ聞こえる声で囁いた。
「……滉斗。元貴のポケットに、僕の車のキーを入れておいた。……岬の裏道に停めてある。……卒業式まで、絶対に捕まらないで。」
「……涼ちゃん……お前……」
「いいから、行け!!」
涼ちゃんが追手の一人に体当たりして、時間を稼ぐ。
若井はその隙を見逃さなかった。
元貴の手を引き、崖沿いの細い獣道を一気に駆け下りた。
「……わか、い! 涼ちゃんが……っ」
「(信じろ! 涼ちゃんを信じて、俺たちは前へ行くんだ!)」
後ろを振り返ることは許されない。
若井は元貴を抱え、闇夜の向こう側に隠された「自由」へと、再び足を踏み出した。
二人の100日間の物語は、ここから「逃避」という名の、最も純粋な「愛の証明」へと変わっていく。