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「ユカリは時々後先を考えないよね」とベルニージュは本の感想でも話すみたいに言う。
「時々ね」気落ちした様子でそう言うとユカリは後ろを振り返る。
ユカリたちは大通りを通って来たが、その末端は細くなって人通りも減った。行き交う人々は奇妙な一行に目を向けるが、魔導書と詐欺にまつわるごたごたとの関係を疑う者はいない。
誰もついて来ていないことを確認すると立ち止まり、ユカリは胸につかえていた言葉を吐きだす。「もし本当に魔導書だったら、何を呑気なことをやってるんだって思うと腹が立ってきて」
「それはまあ、確かにそうだね」ベルニージュはうんうんと頷く。「でも相談くらいして欲しいね?」と言ってレモニカの方を見る。
レモニカははっと息を呑み、何度か頷く。「そうです。そうですわ、ユカリさま。わたくしのことも頼りにしてくださいまし」
「もちろんだよ。頼りにしてるつもり。それより……」ユカリは言い淀み、主人を失った影のように佇まい方を忘れた喪服の貴婦人の方をちらりと見る。「大丈夫ですか? 少しふらついているように見えますけど」
ユカリはさっきまで握っていた貴婦人の手の感触を思い出す。細身に見えて義手か、あるいは籠手でも着けているらしく、手袋越しでも冷たく硬かった。
その黒い衣は全身を覆っていて、着ている者が見えず、似合うという言葉が使えない。日の当たらぬ宮で一日を過ごす砂漠の国の王女の髪のように艶めく絹で誂えられていて、いま買ったばかりかのような新しさだ。涼やかに揺れる面紗もあって、貴婦人の肌は少しも曝されていない。
「ありがとうございます。大丈夫です。ユカリ様。ベルニージュ様。レモニカ様。何とお礼を言ったら良いものか」優雅な水鳥のような柔らかな声色で貴婦人言う。「あの店主様にも悪いことをしてしまいました。元はと言えば私の失敗が原因なのに……」
ユカリはぎくりとする。確かにその通りだと思った。
ユカリはしどろもどろに言う。「あんな風に当てつけるのはやり過ぎだったかな……」
「あの店主も不当な請求をしようとしたのですから、ユカリさまが気になさる必要はありませんわ」とレモニカが断言してくれてユカリは少しだけ心が軽くなる。
「それとて私が世間知らずでなければ……」喪服の貴婦人は小さな鞄を探って言う。「ともかくまずは銀貨三十枚ですね」
「十枚で良いですよ」とユカリが言うと、
「良いわけないでしょ」とベルニージュに脇腹を小突かれる。
「重ね重ね申し訳ございません」と貴婦人は気品を保って謝罪した。「銀貨そのものは持ち合わせていないのですが。お礼も兼ねてということで、これでどうか」
貴婦人が小さな鞄から取り出した物は人間の眼球よりも二回りは大きな……。
「これ、真珠!?」とユカリは感嘆する。
ベルニージュもレモニカも同じくらい驚いて息を呑む。
特有の光沢に劣るところはなく、吸い込まれそうな上品な乳白色の輝きが三人娘の瞳を惹きつける。
レモニカは貴婦人に近づきすぎないように大きな真珠を覗き込む。「このようなもの、レブネ氏のところにもありませんでしたわ。とても銀貨三十枚で釣り合う品ではありません」
ユカリは拒むように両手を前に差し出して首を振る。「私、お釣り持ってませんよ?」
「構いません。むしろ換金する手間がかかって申し訳ないくらいです」
そう言って貴婦人はユカリの手を取って、片手には収まらない大きな真珠を握らせる。ユカリはまるでなけなしの水を零さないようにする砂漠の民のように両手で真珠を捧げ持つ。
しかしこれでは身に着けることもできなさそうだ、とユカリは心の中でだけ呟く。果たして需要があるのだろうか、と。
「貴女も真珠商か何かなのですか?」とベルニージュは驚愕と不審を隠すことなく貴婦人に率直に尋ねる。
「まあ、そのようなところですね」そう言って頷く貴婦人は朝露の重みで傾く鈴蘭の如しだ。「真珠と真珠を使った装身具をいくつか。ほとんどは連れが持ち運んでくれていますが」
だとしても商品を持ってて貨幣を持ち合わせていない商人などいるだろうか、とユカリは考える。もっと多くのことをベルニージュは考えているだろう、とその表情を見て分かる。
とはいえ、有り難く頂戴しておかなければ旅はここで終わってしまう。
三人は懇切丁寧に礼を言い、貴婦人はあくまで返済と謝礼に過ぎないと言って礼節に則って拒む。
「申し遅れました」そう言って貴婦人は背筋をしゃんと伸ばす。二本足で歩く者どもの中でもただ人間だけが知ることのない湖に棲む白鳥の王のように優雅に佇む。「わたくし、名を真珠のごとき娘と申します。訳あってシグニカへの旅をしていたところ、恥ずかしながら揉め事から救われるも何かのご縁、どうぞよろしくお願い申し上げます」
ユカリたちも口々に名乗った。三人も訳ありの訳のところは言葉を濁す。アギノアは一人一人の言葉から何かの教訓でも見い出そうかという風にじっくりと耳を傾ける。
「皆さんも旅人なのですね!」アギノアは仲間を見つけたとばかりに大袈裟に喜ぶ。「私は人生で初めて、こうして旅をしているのですが、毎日胸を打たれる出来事ばかりで、閉じこもっていた今での人生を悔いていますよ」
「分かります!」とユカリも同調する。「私もずっと旅をしたくて、まあ、わりと大変ですけど、でも旅で出会った色々な人や景色や食べ物や動物や……。とにかく素敵な出会いばかり、でもないですけど、最高に刺激的です! アギノアさんはシグニカのどちらに? もしかしたら私たちと同じかも」と言った後にユカリはシグニカのどこに行くかなど決めていないことを思い出す。
アギノアは嬉しそうに答える。
「先程申しました連れの者とわたしは、シグニカは北西の焼き払われた土地王国にある、かつて浄火の礼拝堂と呼ばれた遺跡を目指して旅しています。お三方はどちらへ?」
「ああ、残念」とベルニージュがユカリに先んじて答える。「ワタシたちは旧喉を潤す者たち領。ところで失礼ですが、アギノアさんは船の伝手があるんですか?」
ベルニージュは抜け目なく、求めている情報を探る。
アギノアは首を振って夏の濃い影の如き面紗を揺らす。「わたくし、恥ずかしながら海が怖くて、泳ぐのも苦手ですし、陸路でシグニカに向かう予定です」
「陸路ってユーグ・ラスの巡礼道ですか?」とユカリは念のために尋ねる。
「ええ、そのようなことを連れが申しておりました。彼が今、足を探しているのです」
先の見えない沈黙が辺りを包む。その連れとやらに騙されてはいないだろうか、とユカリは不安になる。他人のことは言えないが、この貴婦人は確かに世間知らずのようだとユカリは思った。
「不躾ながら、アギノアさま」とレモニカが控えめに口を開く。「どなたかお亡くなりに?」
聞くべきか聞かざるべきか判断を迷っていたことを尋ねてくれて、ユカリはほっとする。とても旅装代わりになる服装とは言えない。
「ええ、まあ、ですが冥福を祈るまでもなく幸せに過ごしていますよ、きっと」とアギノアは言った。
ユカリはその意味を探るが分からない。レモニカは分かった風に頷き、ベルニージュは変な人を見る目をアギノアに向けている。
「ああ、申し訳ありません」アギノアがちらと空の様子を見て言う。「そろそろ連れとの待ち合わせの時間です。失礼させていただきますね。今日はまことに申し訳ありませんでした。そして本当にありがとうございました。お三方の旅の無事といつかの再会をお祈り差し上げますね。ごきげんよう」
まるで夢見心地に花にでも語り掛けるようにそう言うと喪服の貴婦人アギノアは通りの反対の端から薄暗い裏通りへと入って行った。
「さて、お尋ね者だということをすっかり忘れてユカリを名乗った誰かさんを叱るのは後にするとして」とベルニージュが言うと、合切袋の底の穴に落ちないことを確認してから真珠を片づけたユカリは少しだけ縮こまる。
ベルニージュは気にせず問う。「やっぱりワタシたちも陸路にする?」
「関所はどうなさいますの?」とレモニカは尋ねる。
「よく分かんないけどどうにかする、という点では海路も陸路も同じだね」とベルニージュは冗談めかして答える。
「ベルニージュさまもユカリさまのことは言えませんわね、ユカリさま。ユカリさま?」
ユカリの不安と疑念を秘めた視線は通りの反対側、アギノアの消えた薄暗い裏通りに向けられていた。ただでさえ暗い呪いが潜んでいそうな通りだ。そして今まさに傭兵崩れか盗賊か柄の悪い男たちが同じ裏通りに入って行くところだった。その中にさっきの騒動の野次馬の中にいた、あまりにも鍔の大きな帽子をかぶる魔法使いがいる。
ユカリは男たちを追って駆け出し、ベルニージュとレモニカも慌ててユカリを追いかける。
すぐにユカリに追われていることに気づいた男たちも走り出す。アギノアの姿は見えない。入り組んで狭い裏通りを男たちは手慣れた様子で駆け抜けていく。勝手知ったるようだ。
男たちを見失う前にユカリは歪んだ窓枠に足をかけ、弛んだ雨樋に手をかけて屋根によじ上る。
「グリュエー」
「足滑らさないようにね、ユカリ」
グリュエーの目に見えないが力強い後押しを受けて、ユカリは屋根の上を飛ぶ矢の如く走り抜ける。すぐさま男たちを追い抜き、アギノアの姿をその先に見つけるも、なお三人の男が貴婦人の背中に迫っていることに気づく。屋根から飛び降り、背後を警戒しつつも魔法の杖を空中から引き出して、裏通りをすり抜けていく男たちを追う。
すると先を行く三人の男が立ち止まる。ユカリも立ち止まって男たちの向こうを覗き込むと、アギノアが行き止まりに突き当たったらしい。右は壁、左は深く幅広の用水路。さらにユカリの後ろに男たちがやって来て挟まれる格好になった。
鍔広帽の魔法使いがユカリに呼びかける。「またお前か。俺たちはそっちの女に用があるんだ。失せろ」
見慣れぬ杖に警戒するだけの知性はあるらしく、鍔広帽はユカリに飛び掛かろうとする男たちを制止する。
「何の用か教えてくれたら立ち去るよ」とユカリは適当に言った。
「真珠だ真珠!」男の一人が言う。「決まってんだろ。どでかい真珠に用があるんだ。その女に貰ってただろう。そうだ、そいつも寄越せ」
「寄越せって?」ユカリはユカリを通路に挟む男たちを交互に見る。「奪い取る自信がないってわけ?」
何人かの男が短剣を構え、魔法使いは帽子の鍔を摘まむ。
「おい!」また別の男が怒鳴る。「あの女どこ行きやがった!?」
ユカリは慌てて振り返る。見れば行き止まりの壁の前にいたはずのアギノアの姿が消えている。
ユカリはグリュエーの風に乗って屋根の上に飛び上がる。視線を方々に向ける。用水路に落ちた音はしなかった。しかし屋根の上にもアギノアの姿はない。
野太い悲鳴が聞こえ、屋根の下を覗くと一羽の冠鴎が通路を飛び交い、男たちに襲い掛かっている。その向こうでその光景をベルニージュとレモニカも眺めていた。
「ベルニージュー? これ、何が起きてるのー?」ユカリは手を振って呼びかける。
「実験だよー」とベルニージュは楽しそうに答えた。
「どこに消えたんだろう、アギノアさん」と宿へ戻る道すがらユカリが呟くが、その疑問に対する答えを持ち合わせている者はいない。
「ユカリ、何も見なかったの? 何か呪文を唱えてたりはしなかった?」とベルニージュがユカリの深刻そうな顔を見上げて言う。
「うん。背中向けてる時に消えちゃってね。ああ、さっきの連中の誰かが見てるかもしれないけど。戻る?」
ユカリは少しだけ振り返るが、もうあの場に残っている者はいないだろうと分かっている。
ベルニージュはすまし顔で首を振る。「まだ鴎に追いかけられてるだろうし」
「いったいいつの間にあんな魔法を仕込んでたの?」とユカリは敬いと呆れを込めてベルニージュに尋ねる。
「侮るなかれ、ユカリ君。ワタシが魔法を仕込んでいないのなんて本を読んでる時くらいだよ」とベルニージュは気障ったく答えた。
レモニカは真面目な顔で質問する。「眠っている時はどうなのです?」
「もちろんワタシの寝言は全て呪文だよ」とベルニージュは得意げに言う。
「そう言われると確かに」レモニカは感心してため息をついていた。「寝言はともかく。ベルニージュさまは独り言が多いですものね」
「独り言じゃなくて呪文!」とベルニージュははっきりと否定する。
どこまで本当なのかユカリには皆目見当もつかない。
とうとう宿の前まで戻ってくると、疲れがどっと混み上げた一行を待ち受けて、泣きそうな顔の青年が宿の前で突っ立っていた。青年は三人の顔を見るなり跪いて汚れた石畳の上に頭を垂れる。
「いったい何? 通りの真ん中で」とベルニージュが首を傾げる。
「どうしたんですか!? 気分が悪いんですか!?」ユカリも青年のそばに屈み、顔色を見ようとするが拒まれる。
「すみませんすみませんすみません」青年は何度も謝罪の言葉を繰り返している。
その青年がこの宿で働く馬丁だと、ようやくユカリは気づいた。丁度今朝ユビスを預かってもらった青年だ。
「どうかなさいましたの?」とレモニカが優しく尋ねる。「何があったのか話してもらえなければわたくしたちも何を謝られているのか、さっぱりです。困るばかりですわ」
青年が涙声でしゃくりあげながら答える。「お客様の馬が、毛長馬のユビスが盗まれてしまいました!」