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Side 誠
「じゃあ、待っています」
そう言って副社長室から出て行った莉乃の背中が見えなくなると、俺は小さくため息をついた。
自分の家で仕事をしたい。だから一度パソコンを見てほしい――
なんの屈託もなくそう言った莉乃に、俺は唖然とした。
これまでの莉乃の行動や態度から、彼女が過去に何かを抱えていて、極端に人や男を怖がっていることは察している。
それなのに、俺に対してそんなに無防備な言葉をかけるなんて、驚きを隠せなかった。
たぶん、莉乃のことだから、ただ純粋に「おかしいことを突き止めたい」一心での発言なんだと理解している。
この数年、俺が誰とも本気の恋愛をしていないことも知っているせいか、俺を“男”として意識していないのも、わかっている。
……それにしても。
そこまで考えたところで、デスクの電話が鳴り、俺は現実に引き戻された。
待っていた連絡を済ませると、俺は会社を後にした。
一度着替えてから行こうかとも思ったが、「仕事の延長として行くのだから」と、そのままのスーツ姿で莉乃の家へと向かう。
この前、彼女を送ったときも思ったが、都心から距離はあるとはいえ、かなり立派なマンションだ。
莉乃から送られてきたメールに従って来客用駐車場に車を停め、いつも彼女が入っていくエントランスへと向かう。
「どうした?」
まだ何かあったのか? そう思いながら彼女の言葉を待つと、意外な言葉が返ってきた。
「ご飯、食べていきませんか?」
「え?」
あまりにも予想外の言葉に、俺は思わず聞き返す。
「あ、無理ならいいんです。でも、副社長っていつもきちんとお食事されてないし……この間のお礼も……」
何やら慌てていろいろと話す莉乃を見て、俺の中であれこれ考えていたことが、すっと静まっていくのを感じた。
ただ、単純に上司と部下として。いや、友人として――
こんな関係も悪くないのかもしれない。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
「もちろん」
そう返すと、莉乃はホッとしたように柔らかな笑顔を見せた。
仕事中のメガネ越しでは見えなかった表情――
初めて会った日、惹きつけられたその瞳に、俺は不意にドキッとする。
その感情を隠すように、俺は視線を逸らした。
なんだ、これ……
自分でも初めての感覚に、戸惑いを隠せなかった。
「なんか落ち着くな」
莉乃の柔らかな雰囲気がにじみ出た部屋は、俺の無機質な空間とは正反対で、どこかホッとできる空気を持っていた。
「そうですか? よかったです」
キッチンで料理をする莉乃は、どこかうれしそうに微笑んでいた。
けれど、やはりまだ“会社の上司と部下”の関係から完全には抜けきれていないのか、どこかぎこちない。
俺はそのもどかしさを払いたくて、口を開いた。
「なあ、莉乃。仕事が終わった今は、“素の莉乃”だろ?」
そう言って彼女のそばへ近づき、じっと見つめる。
慌てたように驚き、目を見開く莉乃が、なんだか妙に可愛い。
……俺って、こんな性格だったか?
自分でも信じられないくらい、今の俺は莉乃に構いたくて仕方ない。
「確かに仕事は……終わりましたね」
視線に耐えきれなくなったのか、彼女は皿に料理を盛り付けながら、そっと目をそらす。
そんな彼女に、俺はさらに言葉を重ねた。
「じゃあ? 俺、オンオフは分けてるって言ったよな?」
グッと返事に困った莉乃は、顔を歪めて俺を軽く睨みつけたあと――
「わかり……わかった。誠、これ運んで」
観念したように名前を呼んでくる彼女が、照れ隠しのように皿を差し出してくるのがおかしくて、思わず笑ってしまった。
「和食にしようと思ったけど、この間一緒に食べたし、あんなにうまく作れないから洋食にしたけど」
言い訳のように色々と話す莉乃だったが、テーブルに並んだ料理はどれも美味そうで――
俺は、彼女の多才さに改めて驚かされる。
「うまそうだな。こんな食事……いつぶりだろう」
ぽつりとこぼれた言葉に、思わず自分でも驚き、口を閉ざした。
軽い付き合いの女たちとは、高級レストランで食事をし、金を払うだけ。
そして、あとくされなくホテルに行く。
プライベートな空間に女を入れることも、自分から踏み入れることも、絶対にしなかった。
――自分で考えても、最低な人間だと思う。
けれど今、こうして莉乃の家にいると――
温かい食事の匂い、エプロン姿でキッチンに立つ女性の後ろ姿が、遥か昔の記憶を呼び起こす。
そして何より、今まで避けてきたものをあっさりと飛び越えて、自分の中に入り込んでくる莉乃に、俺は戸惑いを隠せなかった。
莉乃は、きっとこんな俺の気持ちになど気づいていないだろう。
慣れた手つきで、赤ワインを静かにグラスへ注いでくれる。
「お待たせ。味の保証はないけど……召し上がれ」
少し照れくさそうに言う莉乃に、俺は自分の動揺をごまかすように、つい心にもない言葉を口にする。
「料理、作れたんだ」
「バカにしてる?」
莉乃が目を細める。「一人暮らし長いし。でも、美味しいかは……食べてみないとわからないよ」
そう言ってエプロンを外すと、俺の正面に座った莉乃。
俺は無意識のうちに、ただじっと彼女を見ていたのだろう。
「誠……どうしたの?」
「え?」
問いかけられた理由がわからず、俺は思わず聞き返していた。
「なんか、ぼんやりしてるっていうか、不思議そうな顔してる。……やっぱり、一緒に食事するの、嫌だった?」
莉乃の表情に、不安の色が浮かぶのを見て、俺は慌てて首を振った。
「違う、違うんだ。ただ……慣れてないんだよ、こういうの」
言葉が止まらなかった。
「誰かが俺のために料理を作ってくれて、一緒に食べてくれるなんて――母さんが亡くなってから、そんなことなかったからさ」
言いながら、しまった、と思った。
こんな話、楽しいはずがない。重すぎるだろう。
けれど莉乃は、真っ直ぐに俺を見てくれていた。
その目に、同情はない。ただ、静かで、優しい色が宿っていた。
「そうだったの。お母様……いくつのときに?」
その穏やかな声に、俺は自然と答えていた。
「12歳。……癌で」
「そうだったんだね」
莉乃は目を伏せて、それからゆっくりと俺を見つめ直す。
その瞳はやがて、ふんわりとした笑みに変わった。
「こんな料理でよければ……よかったら、食べてね。お母様の味には到底かなわないと思うけど」
「このハンバーグはね……」
そう言って、明るく料理の説明をする莉乃。
なぜだろう――その声を聞いていると、心の奥がぽかぽかと温かくなる気がした。
ずっと避けてきたもの、閉じてきた感情が、ふと顔を覗かせた気がして――俺は戸惑う。
けれど、目の前にいる莉乃が、あまりに温かくて。
気づけば、言葉が自然と零れていた。
「……ありがとう」
そう口にした俺に、莉乃は、まるで花が咲くような笑みを見せてくれた。
「あっ、そういえばイチゴもあるんだった」
あれこれと気を遣って料理をいそいそと準備する莉乃は、正直可愛らしかった。
けれど、もう少し話がしたくて声をかける。
「莉乃、もう充分だよ。料理はあるし、一緒に食べよう?」
少し考え込むような顔をした後、莉乃は照れくさそうに笑った。
「ごめんね。誰かに食事を作るのなんて久しぶりで、浮かれちゃった」
――なんだよ、めちゃくちゃ可愛いじゃないか。
不意に、こっちの方が気恥ずかしくなって顔が熱くなるのを感じた。
自分のペースが崩れていくのがわかる。そんなの、今までなかったのに。
その焦りをごまかすように、手にした赤ワインを一気にあおった。
しまった。そう思った時には、もうグラスは空になっていた。
「莉乃、ごめん。……明日、車取りにきてもいい?」
俺の言葉に、莉乃がハッとしたような表情を浮かべる。
「そっか……誠、車だったよね。私、いつも通り何も考えずにワイン出しちゃって……」
申し訳なさそうに視線を落とす莉乃に、俺は柔らかく言った。
「飲んだのは俺だから。莉乃が気にすることじゃないよ」
その言葉に、莉乃はホッとしたように表情を緩める。
この2年間、会社で見てきた莉乃はいつも冷静で隙がなかった。
でも、今の彼女は、くるくると表情を変える。
きっと、これが本当の彼女なんだろう。
「もちろん明日、取りに来て。じゃあ……もっと飲めるね」
そう言って、莉乃は再びワインを注いでくれた。
その空気に少し戸惑いながらも、俺は莉乃の手料理を味わうことに集中した。
落ち着いた空間、美味しい食事。自然と会話も弾む。
「本当にうまいよ」
「よかった」
素直な感想に、莉乃が嬉しそうに笑ったあと、ふと肩を揺らして笑い出す。
……もしかして、酔ってる?
「どうした?」
尋ねると、莉乃は天井を見上げたまま呟く。
「だって……本当にあの日、あのBARで会わなかったら、こうして一緒にいなかったなって」
「本当にそうだな。俺も、誰かと思った」
俺の言葉に、莉乃がじっと俺を見据えた。
「あの頃はね、軽薄で、最低な人って思ってたからねー」
語尾が妙に伸びる。やっぱり酔ってる。
だけど、酔った勢いだからこそ出る言葉もある。
俺は少し悪戯心で尋ねた。
「軽薄で、最低?」
「だって、1カ月? 2カ月? 最長で付き合った人。みーんな同じようなタイプでしょ?」
確かに……あとくされのない女性ばかり選んできた。
俺が付き合ってきた人たちの顔が、頭をよぎる。
「……何も言えないな」
莉乃はさらに、俺をじっと睨んだ。
「別れの贈り物とか、どんだけセレブよ? あれ、毎回私が苦労して選んでたんだからね」
「それは……まあ。向こうもそれを望んでたし……」
言い訳のような口調になる自分に、内心で苦笑いする。
「でも、仕事は真面目だし、誠が優しい人だってわかったから。これからは女性関係、ちゃんとしなさい」
ビシッと言い切った後、ふにゃっと笑って、莉乃はトロンとした瞳を俺に向ける。
「莉乃、眠たいんじゃない?」
もう机に突っ伏しそうな莉乃に、俺はそっと手を取り、リビングのソファへと移動させる。
大きなクッションに顔を埋めた莉乃は、ふわっと笑ったまま目を閉じた。
その寝顔は――あまりに無防備で、安心しきっていて。
俺は、言いようのない想いを胸に、しばらくそのままの莉乃を見つめていた。
俺はどうしていいものか思案しながら、とりあえず食べ終わった食器をキッチンへ運び、食洗機に入れる。
洗剤の場所も分からないし、他にできることもない。けれど何かしなければ落ち着かなかった。
リビングのテレビでは、懐かしい映画が静かに流れていた。
帰るべきだ――そう分かってはいるが、眠る莉乃の姿をもう少しだけ見ていたい衝動が勝ってしまう。
どうしてこんなに無防備なんだよ……。
酒、弱いんじゃないか。
小さく苦笑しながら、残っていたワインをグラスに注ぎ、莉乃の隣に腰を下ろす。
ソファで横になる彼女の寝顔と、テレビに映る映画を交互に眺めながら、静かな時間が過ぎていった。
「……うーん」
映画に気を取られていた俺の耳に、かすかな寝言のような声が届いた。
ハッとして振り向くと、莉乃がゆっくりと目を開ける。
「まこと……?」
掠れた甘い声に、俺の心臓が跳ねる。
「……起きた?」
まさかまだここにいるとは思っていないだろう。
俺自身もとっくに帰るつもりだったのに、気づけば隣にいた。
焦りを隠すように、俺はテレビに視線を戻す。
寝顔を見ていたなんて――バレたら、どう思われるか。
そんな俺の気持ちとは裏腹に、莉乃はハッと我に返るように身体を起こし、表情を曇らせた。
「ごめんなさい! 私ったら……」
意外にも、俺がまだいたことを特に気にしている様子はない。
申し訳なさそうな顔で、莉乃は軽く頭を下げる。
「めったに誰かとお酒を飲まないから、つい進んじゃって……」
言い訳のように言いながら、苦笑するその顔は、どこか無防備で、俺の中で何かが揺れる。
「この間もあまり飲んでなかったよな」
あのBARで出会った夜のことを思い出す。
あの時の莉乃は、お酒の席でもどこか距離を保っていたように見えた。
「外ではやっぱり、少しね……」
どこか意味深なその言葉に、俺は言葉を探した。
けれど、次に莉乃が口にした言葉は、それすらも吹き飛ばすものだった。
「私のせいで遅くなっちゃったし……泊まっていって。ゲストルームあるから」
「え?」
俺は耳を疑った。今、なんて?
聞き返す俺に、莉乃は立ち上がって振り向きもせず、リビングを出て行こうとする。
「お風呂、用意するね」
「莉乃!」
思わず声が出た。
けれど莉乃は、キョトンとした表情で振り返るだけだった。
酔っているせいか、あまり深くは考えていないのかもしれない。
冷静に考えれば、「帰る」と言うべきなのは分かっていた――でも、口から出た言葉は違った。
「助かるよ」
莉乃はその言葉に小さく頷くと、そのまま風呂場へと向かっていった。
……やっぱり、俺のことを男として見ていないんだろうな。
ただ、上司を気遣ってのことだ。
そう頭では理解しているけど、莉乃のいなくなったリビングで、俺は頭を抱えた。
無防備すぎる……。
持て余すこの感情をどうすればいいのか。
俺は深く息を吐いた。
「誠、お風呂どうぞ」
少しして戻ってきた莉乃は、さっきよりも酔いが覚めたのか、少し落ち着いた様子だった。
「本当にいいの?」
帰ると言えばいいのはわかっていたが、危機感のないその態度に、俺の口からは思わず少し意地の悪い言葉が零れ落ちる。
「もちろん」
何の躊躇もない様子で返されて、俺は心の中で大きなため息をついた。
――ここまで男として意識されてないのは、人生で初めてかもしれない。
昔からうんざりするほど女が寄ってきた俺にとって、それは逆に新鮮で、すがすがしさすら感じていた。
もちろん、秘書である莉乃に手を出すつもりなど毛頭ない。
「じゃあ、遠慮なく」
そう言って、案内された浴室へと向かう。
清潔感のあるブラウン基調のバスルームには、リラックスできるような柔らかな香りが漂っていた。
浴槽の湯は淡い紫色。きっと入浴剤を入れてくれたのだろう。
普段はシャワーだけの俺も、自然と浴槽に身体を沈めていた。
「……ふぅ……」
自然に息が漏れる。こんなにリラックスできたのは、いったいどれだけぶりだろうか。
莉乃の家だから、というより――莉乃自身がこの空間の居心地を作っているのかもしれない。
湯から上がり、用意されていた着替えに目をやる。
新品の下着に、ブラックのスウェット上下。サイズもぴったりで着心地もいい。
“弟用”と言っていたが――昔の男だったんじゃないか、なんて考えが一瞬よぎり、自分にイラついてため息をついた。
リビングに戻ると、莉乃はキッチンで片付けをしていた。
「誠、ごめんね。食器片付けてくれてありがとう」
グラスを洗いながら俺の方を見て微笑む莉乃に、俺も言葉を返す。
「いや、こっちこそ。久しぶりに湯船につかってリラックスできたよ。ありがとう」
俺の言葉に、莉乃はふと何かを考えるような表情を浮かべた後、口を開いた。
「誠、もう寝る? それとも、もう少し飲む?」
時計を見ると、23時を少し過ぎたところだった。まだ眠くもなかったし、喉も乾いていた。
「もう少し、飲んでもいい?」
俺の言葉に、莉乃はにこりと笑って頷くと、冷蔵庫を開けた。
「ビール? それともワイン?」
どちらも出てくるあたり、普段から飲むのか、それとも俺のために用意してくれたのかはわからない。
「じゃあ、ビールで」
俺がそう言うと、莉乃は軽く頷き、丁寧にグラスにビールを注ぐ。
さらに木製のプレートに、クラッカーやチーズ、生ハムなどを並べてくれた。
「缶のままでもよかったのに」
思わず笑いながらそう言うと、莉乃は意外そうな表情を浮かべて俺を見た。
「誠って“御曹司”って感じがしないね。缶から直接飲んじゃダメって育てられてるのかと思った」
そう言ってくすくすと笑いかけたあと、ふっと視線を外し、真顔に戻る。
「……飲んでて。私、お風呂入ってくるね」
莉乃が“お風呂”という言葉を口にした瞬間、わずかに緊張が走った気がした。
俺もなぜか、返事が妙にぎこちなくなってしまう。
莉乃が姿を消したリビングで、俺は何度目かのため息をついた。