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第174話 実行準備
【現実世界・湾岸方面/資材ヤード・朝】
資材ヤードには、仮の作戦卓が作られていた。
作戦卓、と言っても立派なものではない。
樹脂ケースを二つ並べ、その上にノートパソコンと紙資料を広げただけの簡易な台だ。
だが、今はそれで十分だった。
発電機は止めない。
点滅灯も切らない。
ケーブルは一本ではなく、交差させて輪を作っている。
ラストに食われにくい形。
保管棟の崩落から、彼らが持ち帰った答えの一つだった。
日下部は端末の画面を見つめたまま言った。
「まず、やるべきことを順番に並べます」
城ヶ峰、木崎、佐伯、村瀬がその周囲に立つ。
近くでは隊員たちが壊れた機材を整理し、負傷者の確認を進めている。
だが、全員の耳は日下部の言葉を聞いていた。
「一つ目。
現実側の残支点を確認して、落とす」
画面に白い点が出る。
それは湾岸から離れた位置にあった。
学園の“対応点”に近い場所。
以前、現実側で学園跡地が森に変わっていたあの中心に近い。
「二つ目。
補助層三層を維持する」
「三つ目。
学園側と現実側の対応点を使って、固定点を作る」
「四つ目。
主鍵と副鍵二つで、反転の試行に入る」
村瀬が小さく言う。
「……試行」
「はい」
日下部は頷いた。
「いきなり全部を戻すんじゃありません。
まずは狭い範囲で、光路が通るか確かめる」
佐伯が画面を指差した。
「最初の対象は?」
日下部は少しだけ間を置いて答えた。
「駅周辺が候補です」
「人が残っている。
現実側の導線としても重要。
それに、ログ上では学園の次に反応が読みやすい」
木崎が低く言う。
「駅が戻れば、避難導線もかなり変わるな」
「はい」
日下部が答える。
「完全に戻せなくても、駅周辺の座標が安定すれば、人を逃がせる範囲が広がる」
城ヶ峰は腕を組んだまま黙って聞いていた。
そして、短く言う。
「つまり、今の目標は“全部を戻す”ではない」
「まず一部を安定させる」
「そうです」
日下部が答える。
「小さく戻せるなら、次へ進める。
小さくも戻せないなら、全体は危険すぎる」
木崎は遠くの警官列を見た。
ラストは今、見えていない。
それでも、どこかで見ている気がする。
こちらが何を選ぶか。
どこへ向かうか。
それを待っている気配がある。
「急がされてるようで、急ぎすぎると危ない」
木崎が言った。
日下部は顔を上げる。
「その通りです」
「レアの証言とも一致します。
急いで出口を作るとズレる。
先に広げると戻る場所が死ぬ。
だから、細く、重ねて、順番どおりに」
佐伯が紙に書き込む。
残支点確認
補助層三層維持
固定点準備
駅周辺を小範囲で試行
村瀬がそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「やっと、やることが人の言葉になってきた気がします」
日下部は小さく頷いた。
「ここからは、もう“分からないもの”と戦うだけじゃない」
「分かったことを、間違えないように使う段階です」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・朝】
ノノの端末にも、現実側から同じ整理が届いていた。
残支点。
補助層三層。
固定点。
主鍵と副鍵二つ。
そして、最初の試行候補としての駅周辺。
ノノはその情報を見て、すぐに地図を広げ直した。
「駅周辺からか」
セラが横で頷く。
「妥当です」
「学園を固定点として使いながら、まず駅周辺を安定させる。
範囲としても、意味としても大きすぎない」
「大きすぎないって言っても、十分大きいけどね」
ノノは苦笑した。
「人もいるし、兵も残ってるし、向こうの現実側とも重なってる」
「だから試す価値があります」
セラは静かに言った。
「成功すれば、帰還の道が本当に通ると証明できます」
ノノは短く息を吐いてから、イヤーカフを開いた。
『アデル、聞こえる?』
少しノイズが入り、それからアデルの声が返る。
『聞こえる』
『駅周辺を最初の試行候補にする』
『学園側を固定点にして、駅周辺を小範囲で安定させる案』
『分かった』
アデルの返事は早かった。
『北西は一度組み直せている。
こちらから駅へ動かせる兵は少ないが、連絡は回せる』
ノノは地図へ印を入れながら続ける。
『イデール先輩、光具の残りは?』
すぐにイデールの声が入った。
『半分以下。でも使える分はあるわよ』
『学園へ回した分は戻せないけど、駅周辺へ小型の光具なら送れる』
『助かるわ』
ノノが言う。
『無理はしないで。北西がまた来たらそっち優先で』
『分かってる。こっちも倒れたら意味ないからね』
イデールの声は疲れていた。
けれど、芯は折れていない。
アデルが続ける。
『ノノ、駅周辺の守備には伝える。
ただし、希望だけ伝えるな』
『戻るかもしれないと言えば、兵も人も前に出たがる』
「……うん」
ノノが小さく頷いた。
『伝え方は絞る』
『“座標安定化の準備”として回す』
『それでいい』
セラが、そこで静かに言う。
「希望は必要です」
「ですが、希望だけを先に走らせると危うい」
ノノは端末へ新しい項目を書き込んだ。
駅周辺:試行準備
情報共有:限定
希望を煽らない
「……本当に、戻せるかもしれないところまで来たんだね」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
でも、セラは聞いていた。
「はい」
「でも、だからこそ丁寧に進める必要があります」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/北西区画・朝】
北西区画では、短い立て直しが続いていた。
ジャバの姿はない。
獣影たちも、少し奥へ引いている。
ただし、完全に消えたわけではない。
崩れた石壁の向こうには、まだ黒い塊が低く蠢いている。
アデルは、交代したばかりの前列を確認していた。
「槍の折れた者は下がれ」
「術師は光杭を三本ずつ補充」
「治療班の動線を塞ぐな」
兵たちが短く返事をして動く。
ヴェルニは石壁の奥を睨んだまま、肩を回した。
「静かだな」
「ああ、静かだな」
アデルも答える。
「嫌な静けさってやつか」
「そうだ」
そこへ、イデールが後方から戻ってくる。
白い術布の端が汚れている。
顔にも疲れがある。
だが、歩き方はまだしっかりしていた。
「アデル、北西の重傷者は三人下げたわよ」
「軽傷者も前列から外した。少しは回るね」
「助かります。イデール」
「助かるだけじゃなく、次はもう少し早く呼んで」
イデールは少しだけ眉を寄せた。
「片鱗の時、危なかったから」
アデルは素直に頷く。
「ええ。判断が少し遅れた」
ヴェルニが横から言う。
「治療所の裏を狙うとか、性格悪いよな」
「性格が悪いというより、役割を使ってくる」
イデールは答えた。
「兵士の顔で入って、兵士らしい言葉を使って、でも中身は別物。
次も同じとは限らない」
アデルは短く息を吐く。
「だから警戒を切れない」
「そう」
イデールは頷いた。
「ただ、今のうちに整えないと、次はもっと危ない」
その時、アデルのイヤーカフにノノの声が入った。
『アデル、駅周辺の試行準備に入る』
『北西から直接兵は回せなくていい。連絡だけお願い』
アデルはすぐ返す。
「了解」
「こちらは北西を抑えながら駅へ連絡を回す」
イデールが横で聞いていて、目を細めた。
「駅、動かすの?」
「小さく試すらしい」
アデルが答える。
「完全な帰還じゃない。座標を安定させる準備だ」
「……なら、光具を少し回しましょ」
イデールはすぐに言った。
「大きいのは無理。でも小型なら二つ出せるから」
「北西は大丈夫か」
「大丈夫じゃないよ」
イデールはあっさり言った。
「でも、駅が少しでも安定すれば、後でこっちも助かる。
だから出すのよ」
アデルは少しだけ笑った。
「そういうところ、本当に変わらないな」
「そっちもね」
イデールが返す。
「無理だと分かってても、必要ならやる顔してる」
ヴェルニが二人を見て苦笑した。
「先輩後輩ってより、ただの古い戦友だな」
アデルもイデールも、そこには答えなかった。
否定する必要もなかった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】
学園では、レアの外箱がゆっくり整えられていた。
ダミエの内箱。
光具の循環。
結界杭。
ノノとセラの指示。
そして、ハレル、サキ、リオが外側から流れを確認する。
レアは箱の中で、膝を抱えるように座っている。
前より大人しい。
だが、それが油断できる理由にはならない。
サキが紙を持ったまま言った。
「駅周辺から試すんだね」
『うん』
ノノが答える。
『最初から広げない。
まずは小さく座標を安定させる』
リオが腕を組む。
「駅側にはまだ兵と術師がいる。
現実側とも重なってる。
試すには危ないが、意味はある」
ハレルは主鍵を見た。
「俺はここにいるべきか」
その問いに、少しだけ間が空いた。
ノノが答える。
『今は学園』
『主鍵は固定点に近い方がいい』
『駅周辺を直接戻すというより、学園を基点にして駅まで線を通す感じ』
セラも続ける。
『ハレルさんが動くと、固定点が揺れる可能性があります』
『今はここで待つ方がいいです』
ハレルは頷いた。
待つ。
それが一番苦手なことの一つだった。
けれど今は、走ればいい場面ではない。
固定する。
支える。
それもまた役目だ。
リオが右腕の副鍵へ触れた。
「俺もここか」
『リオは状況次第』
ノノが答える。
『副鍵の反応を駅周辺へ伸ばす必要が出たら、動いてもらうかもしれない』
『でも今は学園側で待機』
「分かった」
レアがそこで小さく言った。
「待つの、怖いよね」
ハレルが目を向ける。
レアは笑っているようで、笑っていないような顔だった。
「動いてる方が楽」
「待ってる時の方が、変なものが見える」
「何が見える」
ハレルが聞く。
レアは少しだけ首を傾げた。
「光」
「それと、光の外側」
サキが眉をひそめる。
「外側?」
「そう」
レアはそれ以上は言わない。
ただ、窓から入る朝の光を見た。
「きれいに見える時ほど、外側が濃い」
その言葉に、ハレルは何も返せなかった。
不安を煽る言い方だ。
けれど、今のレアの言葉には、完全な嘘とは違う重みがある。
ダミエが低く言った。
「今は準備だ」
「余計な言葉で揺らされるな」
レアは肩を揺らしただけだった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸方面/資材ヤード・朝】
現実側でも、駅周辺試行の準備が始まっていた。
日下部は画面を二つに分ける。
一つは中枢ログ。
もう一つは現実側の地図。
その上に、異世界側から来た簡易座標が重なっていく。
「まずは通信」
「次に光路」
「最後に固定点との同期」
佐伯が言う。
「駅周辺の現実側避難誘導はどうしますか」
城ヶ峰が答える。
「一度に広げない」
「“異常が薄れる可能性がある”程度で伝える」
「戻る、という言葉はまだ使うな」
木崎が頷いた。
「希望を先に出しすぎると人が動く」
「人が動けば、向こうも混ざりやすくなる」
日下部はそれを聞いて、画面に注意書きを加えた。
避難者を動かしすぎない
駅周辺は現状維持
試行中は情報制限
村瀬が小さく言う。
「本当に、少しずつなんですね」
「少しずつしかできない」
日下部が答えた。
「でも、少し戻せれば、次が見える」
その言葉に、資材ヤードの空気がほんの少しだけ変わる。
希望。
まだ小さい。
でも、ある。
木崎は遠くを見た。
警官列の中に、ラストの姿はない。
ただし、消えたわけじゃない。
次に来る時も、たぶん静かに来る。
音もなく、導線を削るように。
それでも、今は準備を止めない。
「やるぞ」
城ヶ峰が言った。
その声は短い。
だが、全員に届いた。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・朝】
ノノの端末に、駅周辺試行の準備線が一本ずつ増えていく。
学園。
駅周辺。
現実側対応点。
補助層三層。
交差光路。
その全部が、まだ細いながらも繋がり始めていた。
セラが静かに言う。
「最初の試行が通れば、大きいです」
「うん」
ノノが頷く。
「本当に戻せるかもしれないって、全員が思える」
「ただし、慎重に」
「分かってる」
ノノは画面の端に、新しい行を書いた。
第1試行:駅周辺座標安定
そして、少しだけ息を吸う。
ここまで来た。
まだ何も戻っていない。
でも、戻すための最初の手順が、ようやく動き始めている。
黒い影は一度引いた。
王都も現実も、学園も、短い呼吸を取り戻した。
その短い時間を、無駄にはできない。
ノノはイヤーカフを開き、全員へ告げた。
『第1試行、準備開始』
『焦らず、広げず、細く重ねる』
『ここから、本当に戻すための作業に入る』