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第175話 光路起動
【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】
学園の空気が、いつもより静かに張りつめていた。
生徒たちはまだ体育館の奥で休んでいる。
先生たちは声を潜めて動き、ダミエの結界の周りには、
追加された光具と結界杭が淡く光っていた。
その中心より少し外れた場所で、ハレルは主鍵を握っていた。
熱はある。
けれど、戦う時の熱ではない。
細い糸を指先で持っているような、
慎重に扱わなければ切れてしまいそうな熱だった。
サキは少し離れた机の上にスマホと紙を置き、
ノノから届く数値を書き写している。
リオは右腕の副鍵へ手を添え、目を閉じていた。
「焦らず、広げず、細く重ねる」
ノノの声がイヤーカフから入る。
『まずは第一層。
学園から駅周辺へ、光路を細く通す』
『ハレル、主鍵は押し込まないで。
温度が上がっても、そのまま保って』
「分かった」
ハレルは短く答えた。
押し込まない。
広げない。
ただ保つ。
それがこんなに難しいとは思わなかった。
リオが目を開ける。
「こっちは」
『副鍵はまだ待機』
ノノが答える。
『第一層が通ったら、右腕の副鍵で駅側へ軽く合わせる』
『強くやらないで。
駅を引っ張るんじゃなくて、向きを合わせるだけ』
「向きを合わせるだけ、か」
リオは小さく息を吐いた。
レアは箱の中から、それをじっと見ていた。
口を出さない。
それが逆に気味が悪かった。
ダミエが低く言う。
「静かだな」
「そうだね」
サキが答える。
「今のレア、静かすぎる」
レアはそこでようやく小さく笑った。
「だって、今は見てる方が面白いから」
「余計なことを言うな」
リオが言う。
「言ってないよ」
レアは肩を揺らす。
「今はね」
ハレルはレアを見ず、主鍵だけを握った。
今は揺らされる場面じゃない。
ここで揺れたら、駅周辺まで伸ばす最初の光路が乱れる。
体育館の床に置かれた光具が、ひとつ、またひとつと淡く明滅し始めた。
白い光が、床の上を細い線になって走る。
線はダミエの箱には触れない。
その外側を通り、体育館の出口の方へ、さらに校舎の外へ向かって伸びていく。
ノノの声が少しだけ速くなった。
『第一層、起動』
『学園側、安定』
『駅周辺へ送る』
ハレルの手の中で、主鍵が小さく震えた。
◆ ◆ ◆
【異世界・駅周辺/臨時防衛線・朝】
駅周辺では、兵士と術師たちが息を潜めていた。
ここは、現実と異世界の重なりが特に濃い場所だった。
石畳の上に、現実の白線のようなものが薄く浮かんでいる。
異世界の木組みの柵の向こうに、現実の駅の柱の影がずれて見える。
風の向きもおかしい。
異世界の湿った空気の中に、ときどき現実側の冷たいコンクリートの匂いが混じる。
アデルから連絡を受けていた駅周辺の指揮兵は、
部下たちへ必要なことだけを伝えていた。
「座標安定化の試行に入る」
「動くな」
「押すな」
「何かが戻って見えても、前へ出るな」
兵士たちの表情には、期待と緊張が混ざっていた。
戻るかもしれない。
だが、それを口にすれば足が勝手に前へ出る。
だから誰も口にはしない。
術師が小型の光具を二つ、地面へ置いた。
イデールから回されたものだ。
白く柔らかい光が、小さな器の中で揺れている。
「光具、起動」
合図と同時に、器の光が細く伸びた。
最初は何も起きないように見えた。
だが、次の瞬間、駅前広場の端にあった歪んだ柱の影が、ほんの少しだけまっすぐになった。
「……今」
若い兵士が思わず声を漏らす。
指揮兵がすぐに言う。
「動くな」
白い線が石畳の上を走る。
異世界の地面に、現実側の舗装の模様が薄く重なる。
ぐにゃりと曲がっていた標識のような影が、
ゆっくりと本来の形を思い出すように戻っていく。
完全ではない。
まだ半透明だ。
でも、確かにそこに現実の駅前が重なり始めていた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・駅周辺対応点/規制区域内・朝】
現実側でも、変化は出ていた。
駅周辺の規制区域では、警官と対策班が距離を取りながら見守っている。
人は極力動かしていない。
避難者へは「周辺確認のため待機」とだけ伝えられていた。
そのため、現場は奇妙なほど静かだった。
ホームへ続く案内板。
駅前ロータリーの舗装。
落ちかけていた看板の文字。
その輪郭が、ほんの少しずつはっきりしていく。
一人の警官が、思わず呟いた。
「……戻ってる?」
隣の隊員がすぐに言う。
「声に出すな。誘導が動く」
警官は口を閉じた。
だが目は逸らせない。
駅名標の一部が、薄く読めるようになっていた。
今まで異世界の文字とも現実の文字ともつかない歪んだ形だったものが、
現実の文字へ寄っている。
まだ一文字だけ。
それでも、一文字だった。
日下部の声が通信で入る。
『駅周辺、第一反応確認』
『座標の揺れ、減少』
『現実側の輪郭が戻り始めています』
城ヶ峰の声が短く返る。
『人を動かすな』
『見せすぎるな』
『続けろ』
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸方面/資材ヤード・朝】
資材ヤードの作戦卓では、日下部が画面を凝視していた。
駅周辺の数値が、今までとは違う動きをしている。
揺れていた座標の幅が、ほんの少しだけ狭まった。
異世界側と現実側の重なりが、暴れるのではなく、一定の形へ寄ろうとしている。
「……通ってる」
日下部が言った。
村瀬が息を呑む。
「本当に?」
「まだ第一層だけです」
日下部は言う。
「でも、学園から駅周辺へ細い光路が通ってる」
「駅周辺の現実側輪郭が、わずかに戻り始めてます」
佐伯は紙に書き込みながら、少しだけ手を止めた。
「成功……ですか」
日下部はすぐに首を振った。
「成功というには早い」
「でも、失敗ではない」
それだけで十分だった。
木崎は遠くの警官列を見ていた。
ラストはまだ見えない。
だが、今だけはそのことより、画面の中の白い線に目を奪われた。
「……本当に、道が通るんだな」
城ヶ峰も、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「油断するな」
「だが、記録しろ」
「今の一歩は大きい」
日下部は頷いた。
「第二層に入ります」
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】
ノノの声が明るさを帯びた。
『第一層、通った!』
『駅周辺で反応あり!』
『現実側の輪郭が少し戻ってる!』
サキの顔がぱっと変わる。
「本当に?」
『本当に。まだ小さいけど、戻ってる』
その瞬間、体育館の中にいた数人の先生が顔を上げた。
言葉の全部は聞こえていない。
けれど、サキの表情で何か良いことが起きたのは分かったらしい。
ハレルは主鍵を握ったまま、目を閉じた。
熱はまだ細い。
だが、さっきより少しだけまっすぐだった。
「……通った」
自分で言って、胸の奥が少し震えた。
戻せるかもしれない。
本当に。
ただの願いじゃなく、手順として。
リオが右腕の副鍵へ意識を向ける。
『リオ、第二層』
ノノが言う。
『駅側へ向きを合わせる。押し込まないで』
「分かってる」
リオの副鍵が白く光る。
それは攻撃の光ではなかった。
もっと静かで、細く、遠くの何かへ向きを合わせるための光だ。
体育館の光具が一度、呼吸するように明滅する。
レアが箱の中で、ぽつりと言った。
「きれい」
サキが振り返る。
レアは窓から入る朝の光と、床を走る白い線を見ていた。
「こういう時、みんな信じたくなるよね」
「戻るって」
ハレルはレアを見た。
「……戻すんだ」
「うん」
レアは小さく頷いた。
「今のは本当にきれいだった」
その言い方に、いつもの嘲りは少なかった。
だからこそ、ハレルは少しだけ戸惑った。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・朝】
ノノは画面に走る数値を追いながら、思わず笑いそうになっていた。
笑うには早い。
分かっている。
でも、ずっと張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。
「第一層、通過」
「第二層、同期開始」
「駅周辺、揺れ幅減少」
セラも、珍しく目に柔らかい光を宿していた。
「光路が、道として働いています」
「うん」
ノノが頷く。
「まだ細いけど、ちゃんと道になってる」
アデルにも通信を飛ばす。
『アデル、駅周辺で反応あり』
『現実側の輪郭が少し戻ってる』
少し遅れて、アデルの声が返る。
『そうか』
短い。
でも、声の奥に確かな安堵があった。
イデールも回線に入る。
『光具、ちゃんと届いてる?』
「届いてる」
ノノが答える。
「小型二つ、効いてるよ。助かった」
『ならよかった』
イデールの声も、ほんの少しだけ軽い。
『北西はこっちでまだ持たせる。そっちはそのまま進めて』
『了解』
ノノは通信を切らず、もう一度画面を見た。
細い。
本当に細い線だ。
でも、今までのどんな線よりも意味がある。
戻るための道。
光路。
それが、初めて実際に動いている。
◆ ◆ ◆
【異世界・駅周辺/臨時防衛線・朝】
駅前広場の変化は、少しずつ広がっていた。
異世界の石畳の上に重なっていた現実の舗装が、淡い影から少しだけ濃くなる。
現実側の白線が、かすれていた墨のような状態から、細い線として見えるようになる。
歪んでいた改札機のような輪郭が、一瞬だけ本来の形を取る。
それを見た避難者の一人が、口元を押さえた。
「……駅だ」
指揮兵がすぐに言う。
「動かないでください」
「まだ確認中です」
だが、止められないものもある。
人の表情だ。
不安で固まっていた顔に、ほんの少しだけ血が戻る。
泣きそうな顔で駅名標を見る者がいる。
地面へ手を伸ばしかけて、兵に止められる者がいる。
完全には戻っていない。
まだ何も保証できない。
でも、人は希望を見てしまう。
術師の一人が小さく呟いた。
「……本当に、帰れるのかもしれない」
指揮兵は、その言葉を否定しなかった。
肯定もしなかった。
今はただ、前を見ていた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・駅周辺対応点/規制区域内・朝】
現実側の駅前でも、同じ変化が起きていた。
今まで霧のように揺れていた駅前の輪郭が、数秒だけはっきりする。
ロータリーの白線。
バス停の標識。
駅舎の柱。
現実のものが、現実の場所へ戻ろうとしている。
規制線の外にいた避難者たちの一部が、ざわつき始める。
「見えた」
「今、駅が見えた」
「戻ってるんじゃないのか」
警官たちはすぐに声を上げる。
「下がってください!」
「確認中です!」
「前へ出ないで!」
それでも、空気は変わった。
恐怖だけだった場所に、別のものが混じる。
まだ小さい。
でも強い。
希望だ。
木崎は通信越しにそのざわめきを聞いていた。
「……人が動き始めるぞ」
城ヶ峰は即座に答える。
「抑えろ」
「だが潰すな」
「希望を消すな。ただし走らせるな」
その指示は難しい。
けれど、今はそれが必要だった。
希望は力になる。
同時に、危険にもなる。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】
第二層が通った瞬間、ハレルの手の中の主鍵がもう一度震えた。
今度は少し強い。
だが、危険な震えではない。
遠くから誰かが返事をしているような感覚だった。
リオが右腕を押さえる。
「駅側、来てる」
『うん』
ノノが答える。
『第二層、同期成功』
『揺れはまだあるけど、崩れてない』
サキは思わず笑った。
ほんの一瞬だけ。
でも確かに笑った。
「いける……」
その言葉を、誰も止めなかった。
ハレルも同じことを思っていたからだ。
いけるかもしれない。
駅周辺からなら。
小さくなら。
順番どおりなら。
レアだけが、箱の中からその表情を見ていた。
笑っている。
だが、いつものような嘲りではなかった。
むしろ、少し遠くを見るような顔だった。
「……そうだね」
レアは小さく言った。
「いけるかもね」
リオが眉をひそめる。
「その言い方、気に入らないな」
「褒めてるのに」
「お前の褒め言葉は信用できない」
レアは肩を揺らした。
それ以上は言わない。
ダミエが結界を見たまま言う。
「今は喜ぶより、保て」
「通った線は、切れる時も早い」
その一言で、空気が少し締まる。
そうだ。
通ったから終わりではない。
通ったから、守るものが増えた。
ハレルは主鍵を握り直した。
「……保つ」
その声は、自分に言い聞かせるためのものでもあった。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/北西区画・朝】
北西区画にも、その知らせは届いた。
駅周辺で反応あり。
現実の輪郭がわずかに戻り始めた。
第一層、第二層、通過。
アデルはその報告を聞いて、わずかに目を閉じた。
ほんの一瞬だけだ。
次の瞬間には、また前を見ている。
ヴェルニが横で言う。
「笑ったか?」
「笑っていない」
「いや、今ちょっと笑っただろ」
「気のせいだ」
ヴェルニはにやりとした。
だが、それ以上は茶化さなかった。
兵士たちにも、詳しい内容は伝えていない。
だが、指揮官たちの空気が少し変われば、それは伝わる。
一人の若い兵が、隣へ小さく言った。
「駅、何かあったのか」
「知らん」
隣の兵が答える。
「でも、悪いことじゃなさそうだ」
その程度でよかった。
希望は必要だ。
だが、走らせてはいけない。
イデールが後方から通信を聞き、ほっと息を吐いた。
「小型でも、ちゃんと効いたみたいね」
アデルが頷く。
「ああ。助かった」
「まだ礼を言うには早いよ」
イデールは言う。
「通った線を保つ方が大変だから」
「分かってる」
アデルは前を向いた。
北西区画の奥には、まだ黒い獣影が低く蠢いている。
ジャバの姿は見えない。
だが、終わっていない。
それでも今だけは、確かに一つ良い報告があった。
王都は、それを小さく胸にしまいながら、次の攻撃に備えた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸方面/資材ヤード・朝】
日下部の画面に、新しい表示が出る。
《FIRST LAYER / STABLE》
《SECOND LAYER / SYNCHRONIZED》
《STATION AREA / PARTIAL ALIGNMENT》
村瀬がそれを見て、震える声で言った。
「部分整列……」
「駅周辺が、一部だけ現実側へ寄ってます」
日下部が答える。
「まだ戻ったとは言えない。
でも、混ざったまま暴れている状態からは少し抜けた」
佐伯が紙に大きく書く。
「第1試行:初期成功」
その文字を見て、誰もすぐには喋らなかった。
成功。
小さい。
不完全。
仮のもの。
それでも、成功と呼べる何かが初めて出た。
城ヶ峰はしばらく画面を見て、それから短く言った。
「記録しろ」
「次に繋げる」
木崎は遠くを見た。
ラストは見えない。
黒い影も、今は前へ出てこない。
だが、木崎の胸の奥の警戒は消えなかった。
希望が出た時ほど、守るものは増える。
それでも彼は、今の結果を否定しなかった。
「……一歩だな」
日下部が頷く。
「はい」
「一歩です」
◆ ◆ ◆
駅周辺で、世界の輪郭がほんの少し戻った。
まだ完全ではない。
まだ危うい。
人々を動かすには早すぎる。
けれど、確かに光路は通った。
現実側では駅名の一部が読め、
異世界側では石畳の上に現実の白線が浮かんだ。
それだけのことに、誰かが泣きそうになった。
戻せるかもしれない。
その希望が、初めて人々の間に小さく灯った。
だが、灯った光は、守らなければすぐに消える。
ハレルは主鍵を握り、リオは副鍵を押さえ、サキは震える手で記録を続けた。
ノノは画面の前で息を整え、アデルは北西の線を保ち、
現実側では日下部たちが次の手順を読み続ける。
光路は、通った。
まだ細い。
でも、確かに。
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