テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ひと寝入りしてみなみが目を覚ましたのは昼過ぎだった。
ぐんっと体を伸ばし、のろのろと起き上がる。二日酔いはないが、眠りについたのが明け方だったためか体が重い。ひとまず何か口に入れようと冷蔵庫を開けたが、入っていたのは、水とヨーグルト、トマト、卵が二つ。そんな状態のくせに、昨夜山中に対して「何か召し上がりますか」などとはよく言えたものだ。彼が「うん」と言わなくてよかったと思う。
「これは買い物にいかないと」
みなみは一人ごちて、手早くシャワーを浴び、出かける準備を始めた。外出するからと薄めにメイクを施し、靴に履き替えようとした時だ。玄関のチャイムが鳴った。
部屋にインターホンはついていない。ドアの小さなのぞき窓から外の様子を窺い、みなみは息を飲んだ。そこに山中の姿があったからだ。いったいどうしてと驚きつつ、ドキドキしながらドアを開けた。
山中はみなみを見て、爽やかな笑みを浮かべる。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
昨夜とは違い、山中の装いはカジュアルだった。それはスーツ姿の時とは別人のように親しみやすい雰囲気で、みなみの目にまぶしく映った。直視できず、視線を外しながらみなみは訊ねる。
「えぇと、どうかされましたか?」
動揺を抑えようとして発した声は、ひどく平坦なものになってしまった。無愛想だったかもしれないと反省したが、山中がそれを気にした様子はない。
彼は穏やかな声で言った。
「突然ごめんね。あぁ、これから出かけるところだったかな」
「えぇ、まぁ……」
「実はちょっと忘れ物があって。連絡先を知らないから、迷惑を承知で直接来てしまったんだけど……」
「迷惑だなんて、そんなことはないのですが。ええと、何をお忘れになったのでしょうか?見てきます」
「忘れ物は……」
山中は後ろ手に持っていた紙袋をみなみの前に差し出した。
「これ。夕べのお詫びに」
「え?」
「たいしたものじゃないんだけど、受け取ってくれない?」
覗き込んだ袋の中にはワインが二本入っていた。
「困ります。気を使わないで下さい」
「つい最近友人からたくさん送られてきてさ。一人じゃ飲み切れなくてね。おすそ分けみたいなものだから、気にしないで受け取ってもらえたら嬉しいんだけど」
「でも…」
みなみは遠慮してなかなか手を出そうとしない。
山中は彼女に悪戯っぽい目を向けた。
「昨日の二次会で、ワイン、幸せそうな顔して飲んでたよね。好きなのかと思ったんだけど」
「えっ……」
みなみは動揺した。見られていたことに全く気づいていなかった。
「どっちが好みか分からなくて、赤と白の両方を持って来たんだ。二本は多いっていうなら、好きな方だけでもいいからもらってほしい。……それとも、押しつけみたいで迷惑かな」
「いえっ、そんなことは全然ないのですが……」
確かにみなみはワインが好きで、このおすそ分けは嬉しい。しかし、親しいわけではない相手から受け取ってもいいのだろうかと躊躇した。とは言え、せっかくの好意、あまり頑なになって受け取らないのも失礼かと思い直す。結局、みなみはありがたく頂戴することにする。
「では、遠慮なく頂きます。ありがとうございます」
山中の顔にほっとした笑顔が浮かんだ。
「受け取ってもらえて良かった。そもそも礼を言うのはこっちの方だよ。昨夜は本当にありがとう。もう一度、きちんと礼を言っておきたかったんだ。会えて良かった。それじゃあ、また会社で」
「わざわざありがとうございました」
みなみは頭を下げて礼を言い、そのまま彼を見送ろうとした。ところが、なぜか突然心の中に、この人ともう少しだけ話をしてみたいという衝動が湧き起こる。立ち去ろうとしていた山中を呼び止めた。
「補佐!」
山中が振り返った。
みなみは彼の傍まで小走りで近寄って行き、胸をどきどきさせながら言う。
「もしよろしければですげ、一緒にお昼をいかがですか?できれば、補佐のお話を色々と聞いてみたいな、と思いまして」
山中は困惑してみなみを見る。
「俺の話なんて、つまらないと思うよ」
少しでもあなたのことが知りたいという本心を隠して、みなみは言葉を選びながら続ける。
「補佐は会社のエースで、すごい方だと聞きました。そんな方とお話できる機会は滅多にないんじゃないかと思いますので、記念に」
「記念?っつ……あはは」
山中は声を上げて笑う。
「面白いこと言うなぁ」
彼は笑いを収め、目元を柔らかく緩ませて頷いた。
「分かった。それなら、ぜひランチでもご馳走させて?夕べの二つ目のお礼としてね」
こうして、その数十分後、みなみと山中はとあるファミリーレストランにいた。その前に向かった喫茶店が混んでいて入れなかったのだ。
「結局ファミレスになってしまってごめんね」
「いえ。私、ファミレスって好きです。気楽な感じで」
みなみは辺りを見渡し、ファミレス特有のがやがやした空気にほっとする。ぎこちない今の二人にとっては、これくらいの賑やかさがちょうどいい。
料理を注文し終えて、入れ違いでドリンクバーに飲み物を取りに行く。
山中が戻って来るまでみなみは席に一人でいたが、その間考え込んでいた。勢いで話をしてみたいと言ってはみたものの、実際何を話せばいいのだろうかと、その取っ掛かりが思いつかない。
しかし、それはいらぬ心配だった。よくよく考えてみれば、そもそも山中は話題も知識も豊富なトップ営業なのだ。
おかげでみなみの緊張は早々に解け、気がついた時には山中との会話を十分に楽しんでいた。
話の流れで、会社の話題となった。
山中がふと思い出したように言う。
「白川さんとはうまくやっているようだね」
その名前にどきりとしたが、みなみは平静を装って頷く。
「はい、いつも優しく教えて下さいます。時々はご飯を一緒に食べに行ったり、本当に仲良くしていただいています」
「彼女は面倒見がいいから、困ったことがあったら何でも相談するといいよ」
「はい」
みなみは笑顔で返事をしたものの、胸の辺りが落ち着かなかった。遼子のことを話す山中の声音に何かしらの特別な響きを感じたせいだ。昨夜のことが脳裏に浮かぶ。
『あの「りょうこさん」は、やはり遼子さんのことなのだろうか?』
山中が見ていただろう夢の中身が気になった。おかげでみなみは、張り付いたような笑顔しか作れなくなる。
「岡野さん、どうかした?」
山中の声にみなみははっとして、ぎこちない笑みを浮かべる。
「なんでもありません」
しかし彼はみなみの顔から視線を外さない。
「何か心配事でもあるのかな?」
「いえ、本当になんでもありませんので」
彼の視線をかわしてみなみは目を伏せ、グラスに挿したストローを指で弄ぶ。
山中はみなみの顔をしげしげと見ていた。しばらくして笑いを含んだ声で言う。
「岡野さんって」
ちょうどその時、近くの席にいた小さな子供たちが喧嘩を始めた。その賑やかさのせいで、山中が言おうとした、あるいは言った言葉の続きがかき消されて、みなみの耳まで届かない。
みなみは身を乗り出すようにして山中に訊ねる。
「今、なんておっしゃったんですか?」
「いや、たいしたことじゃないよ」
彼は笑ってみなみの質問をはぐらかした。
その表情の中に照れがのぞいたような気がして、気になった。しかし、しつこいと思われたくなくて、みなみは重ねて問うことはやめた。
食事を終えて、山中が伝票を手に取って立ち上がった。
「出ようか」
「はい」
みなみは手荷物をまとめて彼の後に続く。レジの前で財布を出そうとしたが、彼に止められた。
「これはお礼だから」
「ですが……」
ためらった後、みなみは財布をバッグに戻した。ここはいったん甘えて、後日何かの折に何らかの形で返せばいいのだと思い直す。
「ありがとうございます」
みなみは丁寧に礼を言い、レジからやや離れた場所で彼が支払いを済ませるのを待つ。その間、あることにふと気がついた。
『同じ会社で働いてはいるが、果たして今後顔を合わせる機会はあるのだろうか』
「帰ろうか」
山中に促されてみなみは店の外へ出た。彼の背を見ながらふと思ったのは、この人とこんな形で会えるのはこれがたぶん最後だろうということだった。途端に胸の奥に小さな痛みが走る。それはまるで小さな棘が刺さったようなつきんとした痛みだった。
山中が足を止めてみなみに向き直る。
「色々とありがとう。気を付けて帰って」
「はい。私の方こそご馳走さまでした。それではこれで」
彼との時間はとても楽しかった。おかげで名残惜しさが心の中に広がる。せめてこの気持ちを彼に伝えておきたいと思う。
それまでは恥ずかしさが先に立って、山中の顔を直視できずにいた。しかし、もう二度とこんな機会はないと思ったこの時、みなみは初めて彼の顔を真っすぐに見つめた。
「本当にありがとうございました。お話しできて、とても楽しかったです。この時間のことは忘れません」
「大げさすぎるよ」
山中は苦笑する。
「岡野さんが天然っていうのは本当みたいだね」
「え?」
不思議な顔をするみなみに、山中は柔らかな視線を向ける。
「思い出にされてしまうのは、なんだか寂しい気がするな。だから、またね」
山中は柔和な笑顔を残して、みなみの前から立ち去った。
彼の後ろ姿を見送りながら、みなみは呆然と立ち尽くす。
「今、『またね』って、言った?」
ただの社交辞令だと自分に言い聞かせるも、胸の鼓動は収まらない。「またね」というたった三文字の言葉は、みなみの心の中にじわりとしみ込んだ。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!