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ひと寝入りして目を覚ましたのは、お昼過ぎだった。


「うーん……」


ぐっと体を伸ばし、のろのろと起き上がる。


二日酔いはないが、眠りについたのが明け方だったからか、体が重い。


とりあえず何か口に入れようと冷蔵庫を開けた。が、入っていたのは、水とヨーグルト、トマト、卵が二つ。それなのに昨夜、補佐に対して「何か召し上がりますか」などとよく言えたものだ。彼が「うん」と言わなくてよかったと思う。


買い物に行こう。


私は手早くシャワーを浴びると、出かける準備をした。働き出してから習慣となった薄めのメイクは忘れない。玄関のチャイムが鳴ったのは、靴に履き替えようとした時だった。


この部屋にインターホンはついていない。ドアの小さなのぞき窓から外の様子を伺って、すぐに息を飲んだ。そこに山中部長補佐の姿があったからだ。


どうして……?


驚くと同時に、メイクしておいてよかった、などと思う。前髪を指でそろえながら、私はドキドキしながらドアを開けた。


彼は私を見ると、爽やかな笑みを浮かべた。


「こんにちは」


「こ、こんにちは」


目の前で笑顔を見せる彼は、昨夜とは違いカジュアルな格好をしていた。スーツ姿の時とは別人のように親しみやすい雰囲気だったが、それがまぶしすぎる。直視できなくて、私はわずかに視線をそらした。


「えぇと、どうかされましたか?」


動揺を抑えようとしたら、とても平坦な口調になってしまった。無愛想に聞こえてしまったかもしれないと思ったが、補佐にそれを気にした様子はない。


彼は穏やかな声で言った。


「突然ごめんね。――もしかして、これから出かけるところだったかな」


「えぇ、まぁ……」


「実はちょっと忘れ物があって。連絡先を知らないから、迷惑を承知で直接来てしまったんだけど……」


「迷惑だなんて、そんなことはないのですが。ええと、何をお忘れになったのでしょうか?見てきます」


「忘れ物は……」


補佐が後ろ手に持っていた紙袋を差し出した。


「これ。夕べのお詫びに」


「え?」


「たいしたものじゃないんだけど、受け取ってくれない?」


中を覗き込むと、そこにはワインが二本入っていた。


「困ります、こんなの。気を使わないで下さい」


「つい最近友人からたくさん送られてきてさ。一人じゃ飲み切れなくて。おすそ分けみたいなものだから、気にせず受け取ってもらえたら嬉しいんだけど」


「でも…」


なかなか手を出そうとしない私に、彼は悪戯っぽい目を向けた。


「昨日二次会で、ワイン、幸せそうな顔して飲んでたよね。好きなのかと思ったんだけど」


「えっ……」


幸せそうって……。そんな所を見られていたなんて、気づかなかった。


「どっちが好みか分からなくて、赤と白の両方あるけど、大丈夫な方だけでもいいからもらってよ。と、いうか、押しつけみたいで迷惑かな」


「いえっ、そんなことは全然……」


確かに私はワインが好きだ。本当は嬉しいと思ったが、あまり嬉々として受けとるのも恥ずかしいと思ったのだ。しかし、あまり頑なな態度でいらないと言い続けるのも失礼だろう。私はありがたく頂戴することにした。


「――ありがとうございます」


補佐はほっとしたように笑った。


「受け取ってもらえて良かった。それに、礼を言うのはこっちの方だから。夕べは本当にありがとう。もう一度、きちんと礼をしておきたかったんだ。会えて良かったよ。――それじゃ、また会社でね」


「わざわざありがとうございました」


そう言って見送ろうとしたが、心の中に補佐ともう少し話をしてみたいという衝動が湧き起こった。


「補佐!」


私は立ち去ろうとしていた補佐に声をかけた。


補佐は足を止めて振り返る。


私はその傍まで歩み寄り、どきどきしながら言った。


「もしよろしければ、一緒にお昼をいかがですか?せっかくの機会ですので、えぇと、補佐のお話を色々と聞いてみたいな、と」


「えぇと……」


補佐は困惑した顔を私に向けた。


「俺の話なんて、つまらないと思うんだけどな」


あなたのことを少しでも知りたいんです――。


その本心を隠して、私は言葉を選ぶ。


「補佐は会社のエースで、すごい方だと聞きました。そんな方と今後お話できる機会などないと思いますので、記念に、と」


「記念……?っつ……あはは」


思わずと言った風に、補佐が笑い声を上げる。


「記念、って面白いこと言うなぁ。そんなこと言われたの、初めてかも」


補佐は笑いを収めると、目元を緩ませたまま頷いた。


「分かった。それなら、ぜひランチでもご馳走させて?二つ目の夕べの礼としてね」


それから数十分後。私たちは、アパートから最も近い場所にあるファミリーレストランにいた。その前に向かった喫茶店は、満員のため入れなかったのだ。


「結局ファミレスになってしまって、ごめんね」


「いえ。私、ファミレスって好きです。気楽な感じで」


私は辺りを見渡した。ファミレス特有のがやがやした空気にホッとする。ぎこちない私たちには、これくらいの賑やかさがちょうどいいと思った。


料理を注文し終えて入れ違いでドリンクバーに飲み物を取りに行く。


彼が戻って来るまで席に一人でいた私は、飲み物に口をつけながら考えていた。つい勢いで話をしてみたいと言ってはみたはいいけれど、何をどんな風に話し始めればいいのかと悩んでいた。


けれど、そんな心配は不要だった。そもそも補佐は話題も知識も豊富なトップ営業だ。彼のおかげで私の緊張が解けるのは早く、気がつけば彼との会話を楽しむまでになっていた。


その流れの中で会社での話になった。補佐が思い出したように言う。


「白川さんとはうまくやっているようだね」


その名前を聞いてどきりとしたが、私はその動揺を隠して頷いた。


「はい、いつも優しく教えて下さいます。時々はご飯を一緒に食べに行ったり、本当に仲良くしていただいていて」


「彼女は面倒見がいいから、困ったことがあったら何でも相談するといいよ」


「はい」


私は笑顔で返事をしたが、胸の辺りが落ち着かなかった。遼子さんのことを話す補佐の声音に何かしら特別な響きを感じたからだ。


やっぱりあの「りょうこさん」は、遼子さんのことなのだろうか?


脳裏に昨夜のことが浮かぶ。補佐が見ていた夢の中身が気になって、張り付いたような笑顔しか作れなくなった。


「岡野さん、どうかした?」


訊ねられてはっとした。私はにこっと笑う。


「なんでもありません」


けれど補佐は私の顔をじっと見る。


「何か心配事でもある?」


「いえ、本当になんでもありませんので」


補佐の視線をかわして私は目を伏せ、グラスに挿したストローを弄んだ。


「そう?」


補佐は私の顔をしげしげと見ていたが、しばらくすると笑いを含んだ声で言った。


「岡野さんって」


ちょうどその時、近くの席にいた小さな子供たちが喧嘩を始めた。その賑やかさに、補佐が言おうとした言葉の続きがかき消されてしまった。


私の耳まで届かなかったことを残念に思い、身を乗り出すようにして補佐に訊ねた。


「今、なんておっしゃったんですか?」


「いや、たいしたことじゃないよ」


補佐は笑って私の質問をはぐらかす。


その表情の中に照れ臭さがのぞいて見えたような気がした。


気になったが、重ねて訊ねることはしない。しつこい女だと思われたくないから。


食事を終えて、補佐が伝票を手に取った。


「出ようか」


「は、はい」


私は手荷物をまとめて補佐の後に続いた。レジの前で財布を出そうとしたが、彼に止められた。


「これはお礼だから、ね?」


「でも……」


と言いかけて、私は財布をバッグに戻す。ひとまず支払いをお任せして、後日何かの時にお返しすればいいのだ。


「ありがとうございます」


私は礼を言って、少し離れた所で彼が支払いを済ませるのを待った。その間に、あることに気がついた。


同じ会社で働いてはいるが、顔を合わせる機会は今後あるのだろうか――?


「帰ろうか」


補佐に促されて店の外へ出た。


この人とこんな風に会えるのは、これがたぶん最後だ――。


そう思ったら、胸の奥に小さな痛みが走った。まるで棘でも刺さったような痛みだ、と戸惑う。


補佐が足を止めて私に向き直った。


「色々とありがとう。気を付けて帰って」


「はい。私の方こそご馳走さまでした。それではこれで」


補佐との時間はとても楽しかったから、名残惜しさが心の中に広がったのは仕方がない。せめてこの気持ちを彼に伝えておきたいと思った。


それまで私は補佐の顔を直視できないでいた。恥ずかしさが先に当たっていたからだったが、これがたぶん最後になると思った私はこの時初めて彼の顔を真っすぐ見て、心を込めて言った。


「本当にありがとうございました。お話しできて、とても楽しかったです。いい勉強と、記念になりました」


「大げさだよ」


補佐は苦笑し、それから付け加えた。


「岡野さんが天然っていうのは本当だね」


「え?」


聞き返す私に、補佐は少し考えるような目を向けた。


「記念という名の思い出にされてしまうのは、なんだか寂しい気がするな。だから、またね」


補佐は爽やかな笑顔を見せると、くるりと背を向けて私の前から去って行った。


彼の後ろ姿を見送りながら、私は呆然としていた。


「またね、って言った?」


その言葉の響きに、胸がトクンと鳴った。自分に都合のいいように考えそうになるのを止めるために、私は自分に言い聞かせる。


――ただの社交辞令に決まってる。


けれど、それは無駄に終わった。「またね」という三文字の言葉は私の心の中にじわりとしみ込んだ。


恋愛下手の恋模様~あなたに、君に、恋する気持ちは止められない~

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