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ついにやってきました、お給料日。
僕が一ヶ月間、死ぬ思いで稼いだ金額は社会保険料等を差し引いて手取り約十五万円なり。少ない……。あんなに辛い思いをして、たったの十五万円だよ? ワーキングプアもいいところだよ。某魔法少女的に言うならば、こうだ。
こんなの絶対おかしいよ!
「どうしたの響くん? 給与明細見ながら渋い顔しちゃって」
休憩室で給与明細を見ていたら、相変わらずの、ふわりと柔らかで優しい声音が耳に入る。皆川さんだった。
「え? 僕そんなに渋い顔をしてました?」
「うん、ものすごく渋い顔だったよー。そんな顔してると幸せが逃げちゃうぞー、なんてね」
幸せが逃げちゃう、かあ。もう荷物まとめて逃げ出しちゃった後のような気がするんですけど、僕の幸せ。いやいや、そんなことはない! 今日のお食事デートで、僕はその幸せ達に帰ってきてもらうのだ。カムバック、幸せ!
「でもいいんですか皆川さん、せっかくの食事がファミレスなんかで」
だだっ広い休憩室に等間隔に置かれた長テーブル。そのひとつに座る僕の真向かいに、皆川さんは腰を下ろした。今日はこの後、癒やし系美女・皆川さんとお食事デートをするわけだが、彼女はなんてことのない普通のファミレスを指定してきたのである。
「いいのいいの、私あんまり気取ったお店とか得意じゃなくて。ファミレスくらいが気楽でちょうどいいんだ。それに、私にとってはファミレスでも十分贅沢だし」
手をひらひらさせながら笑ってみせる皆川さん。なんたる慎ましさ。まさに僕の理想の女性だ。高価なブランド物を着飾る今どきの若い女子全員に聞かせてやりたいね。やっぱり結婚するなら皆川さんのような女性がいいなと心から思う。いや、むしろ皆川さん、これから婚姻届を出しに行きましょう! なんて言えるわけがないよな。
「ところで響くん、お給料どうだった? 結構残業してたでしょ?」
「まあ残業はしてましたけど、それでも全然少ないですよ。早くお給料のいいところに転職しなきゃいけないんですけどね、あはは」
「そっかー、あんなに仕事頑張ってたのにね。ほんと、響くんには幸せになってもらいたいわよ。頑張っている人はちゃんと報われなきゃ駄目だと私は思うの。だから響くん、諦めないで。ファイト! 私、応援してるから」
両手の拳を握って僕を応援するポーズを取ってくれて、なんだか生きていく力が湧いてきた。漲るね。
それにしても、皆川さんの優しい言葉が心に染みる。そうだよなあ、僕も白雪さんみたいに諦めない気持ちを持って、もっと頑張らないと。じゃないと、いつまで経っても駄目人間のままだ。一人の女性を幸せにすることすらできやしない。
「それじゃ、お仕事終わったらまたここで合流しましょ、響くん。楽しみにしてるね」
「はい! 僕も楽しみにしてます!」
こうして、仕事終わりに始まるのであった、僕と皆川さんとの夢のような時間が。夢のような時間。うん、合ってる。でもちょっと違うんだよね。
夢は夢でも、悪夢のような時間だけどな!!!!!
* * *
あはは……いや、もう乾いた笑いしか出てこないね。まさかこんな状況になるだなんて。楽しみにして、そしてちょっとだけ期待していたから余計に。
「私はね、響くんのためを思って言っているの。幸せになってもらいたいの」
職場から結構離れたファミリーレストランに、今、僕と皆川さんはいる。楽しいお食事デートになると思っていた。しかし、違った。
まさに、悪夢だ。
「響くんが幸せになるには、この石が必要なの。私もこの石を買ってから良いことがたくさんあったよ。運気が上がるの。信じられないかもしれないけど、本当なのよ? だから響くん、あなたもこの石を買いましょう。十万円で」
「はあ……」
皆川さんは霊感商法のセールスが目的だったのだ。そこら変に転がっているようななんてことのない石を、僕に一個十万円で売りつけようとしてくる。もう、かれこれ一時間ずっとそんな感じ。「響くんは不幸」とか、「幸せになるにはこの石を買うしかないの」とか、そんなことを延々言われ続けている。
最初は皆川さんの優しさだったり、僕を思う親切心で言ってくれているのだと思った。でも違う。この人はただ単に、僕にこの石を売りつけたいだけだ。
だってさ。
「響くん、だったね。君には十万円は高いと思うのかもしれない。でも、この皆川さんを見たまえ。彼女は今、幸せのオーラに満ちている。安いものだ、この石を手に入れられるのなら。十万円以上の価値があるのだよ、この石には」
皆川さんの隣に座るハゲのオッサンはそう言った。そう、僕と皆川さんの二人きりではなかったのだ。なんなのこのオッサン。ボロボロのスーツ姿に、口髭をたくわえ、鼻毛まで出ている。見るからに胡散臭い。まあ、まともな社会人ではないな。どうしてこんなオッサンにワケワカラン石を勧められなければいけないんだよ。十万円? 給料吹っ飛んじゃうよ!!
「皆川さん……何度も言ってますけど、僕は買いませんよ? お金もないし、そんな石ころに十万円を払うなんて正気の沙汰じゃないですよ」
「何を言ってるの響くん、あなたは不幸に取り憑かれてるのよ? いつも職場でそういう顔をしているじゃない。でもね、そんなあなたもこの石を購入すれば幸せになれるの。安いもんじゃない。それに今日はお給料日でしょ? お金はあるはずよ」
効く。効くぜ、その言葉。不幸に取り憑かれてるって……。皆川さんはいつも僕のことをそんなふうに見ていたのか。そう思うと悲しくて仕方がない。
というか皆川さん、今日の給料日を狙ったな。僕に少しでもお金がある時にこの話を持ちかけようと準備していたな。姑息だよなあ、まったく。しかし、これがいわゆる『洗脳』ってやつなのかね。皆川さんの目がキラキラと輝いている。この人もある意味、被害者なのかもしれない。
付き合ってるだけ時間の無駄だな。
「……もう帰ります」
「帰るって、どうやって? ここ、あなたの家からだいぶ離れてるけど」
そうなのだ。このファミレスは僕の家からめちゃくちゃ離れている。ここまでは皆川さんが運転する車で来た。『職場の誰かに見られたら恥ずかしいから』と言われたので、その時の僕はそれで納得した。確かに二人きりでイチャイチャお食事デートをしているところを誰かに見られたら恥ずかしいだろう。可愛らしい乙女心だ。
なんて、思っていた僕が馬鹿だった。皆川さんはただ単に、僕が帰りづらい状況を作り出すためにこんなド田舎のファミレスを選んだのだ。用意周到。僕の逃げ道を塞ぐためだったとはね。
「……タクシーを呼ぶから大丈夫です」
「結構料金かかると思うけど、いいの? 響くん、お給料少ないんでしょ? 貧乏なんでしょ? そんなタクシー代なんかに使うくらいだったらこの石を買いなさいよ。十万円なんてあっという間に戻ってくるから。それだけ効果があるの、この石には」
「皆川さん。あんた、人としてもう駄目だよ」
「なんですって! もう一度言ってみなさいよ!!」
激昂する皆川さんを無視して、僕はファミレスを出ようとした。
「ちょっとアンタ! 帰るならここの料金ちゃんと払って帰ってよね!」
ムカつく。金、金、金かよ。皆川さんが見ているのは僕ではない。お金だ。お金として、つまりは金づるとしか見ていないんだ。
でも、こんな人に借りを作るのだけはゴメンだね。僕は財布の中から三千円を取り出し、それをテーブルの上に叩きつけた。
天使だと思っていた皆川さんは、妙な石に取り憑かれた悪魔だった。
悲しい。でも、ちょっと同情してしまう。
こんな石にすがる程、皆川さんの精神は参っていたのだろう。
* * *
「もう嫌だ……どうして三時間も歩かなきゃいけないんだよ」
皆川さんに連れて行かれたファミレスから、僕は徒歩で帰ることにしたが、失敗だった。電車を使えば良かった。たぶんショックが大きすぎて正確な思考もできていなかったのだろう。しかも肉体労働後だ。もうへとへと。
「あれ? 電気が点いてる」
やっとのことでアパートに着いたところで気が付いた。僕の家の電気がついている。チラリと腕時計で確認。23時を過ぎたところだった。白雪さんには今日は遅くなるから晩ご飯はいらないと伝えておいたはず。だから白雪さんではない、はずだ。出勤前に僕が部屋の電気を消し忘れただけだろうか。
「ただいま……あれ? 白雪さん?」
玄関を開けたところで、白雪さんがとことこやって来た。手に雑巾を持って。
「あ、お帰りなさい響さん」
「……え? 白雪さん? 今日は帰りが遅くなるって伝えてなかったっけ?」
「いえ、ちゃんと聞いてましたよ、遅くなるって。だからその間にお部屋のお掃除を済ませておこうと思いまして、来ちゃいました」
割烹着姿の白雪さん。まさか掃除をしてくれていただなんて。
そんな彼女の「おかえり」を聞いたら、安心したのか、疲れがどっと出てきた。
「ど、どうしたんですか響さん! 顔色が真っ青ですよ!」
「はは……大丈夫。ちょっと疲れただけだから」
「大丈夫って、フラフラしてるじゃないですか! 何かあったんですか? 私でよかったら話聞きますから」
床にへたれ込んだ僕に視線を合わせるようにして、白雪さんはしゃがみ込む。優しさに身を包みながら。
「え! 響さん、どうして泣いてるんですか!?」
「……泣いてる?」
僕は目の辺りを触ってみる。手が、濡れていた。全く気付かなかった。僕はポロポロと涙を流し、泣いていた。
「……何かあったんですね、響さん」
すると、黙ったままの僕の頭をギュッと抱きしめる。柔らかで、温かで、そして優しさに溢れていて。僕は大人気もなく、声を出して泣いてしまった。嗚咽。
「よしよし、安心してください。大丈夫ですよ、響さん。私がついてますからね。だから、今日はもうゆっくり休んでください。今度、私と一緒にデートするんじゃないですか。そしたらすぐに元気になれますよ」
「う……うう……」
駄目だ、涙が止まらない。
子供の頃を思い出した。嫌なことがあったとき、泣きたいとき。母親が同じように僕を抱きしめ、優しさで包んでくれた時のことを。
「白雪さん……ぐすっ……ごめんね」
「謝ることなんかないです。いいじゃないですか、泣きたい時は泣いた方がいいですよ。大人だからとか、そんなの関係ないですからね」
僕の頭を撫でながら、白雪さんは理由も訊こうともせず、ただただ優しく、僕を少しでも安心させようとしてくれた。僕は黙ったまま、彼女の胸の中で頷いた。何の匂いだろう。甘い匂いがする。その匂いが、僕の疲れ切った心を少しずつ癒やしてくれた。
それはきっと、白雪さんが使った魔法に違いなかった。