コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
待ちに待った土曜日。 ようやく休日だ。
体力がない僕にとって、日々の肉体労働をこなしていくためには、この休日はとても貴重なのだ。少しでも疲れを取って、リフレッシュをして、心身共に回復をさせないと体がもたない。しかも、この前は皆川さんの件で大ダメージを受けてしまったから余計に疲れているし。もうあんな目には遭いたくないね。
それにしても、日に日に寒さが増してきているな。冬が近づいているのを如実に感じる。そろそろコタツでも出すか。
「響さん、今度のネームはどうですか? 教えてもらったことを私なりに守りながら描いてるつもりなんですけど」
ローテーブルの前にちょこんと腰を下ろして、白雪さんが不安げにしている。そう、いつもは独りきりの休日だったけれど、今は白雪さんがいてくれるのだ。この前は大人気なく泣いてしまったりと恥ずかしいところを見せてしまったけれど、彼女が僕の癒やしになってくれている。
白雪さんの、存在。
僕にとっての救いの女神様。
「うん、すごくキレイなコマ割りになってきてるよ。ちゃんと『漫画』らしくなってきてる。でも、まだまだかな。というわけで描き直し」
「ま、まだまだ、ですか……。うう、どうしよう……」
ああ、白雪さんが頭を抱えてしまった。ちょっと根詰めすぎだな、疲れが見え始めている。本当のところ、僕はビックリしているんだけどね。やっぱり吸収力がすごい。でも、まだ言わない。オーケーは出さない。たぶんこの子、才能がある。だからこそ、ひとつ自分で気付かせたい。
僕の言ったことを忠実に守っているだけでは駄目だということを。
「ネーム、ネーム……オーケーが出ないぃ、ううぅ……」
あー、思い切り悩んでしまっている。少し外の空気を吸わせてあげて、気分転換させた方がいいかもしれないな。悩むことはとても良いことなんだけれど、このままだとそのベクトルが悪い方向に向いてしまうかもしれない。
「白雪さん、ちょっと気分転換がてら買い物に行かない? スーパーで色々買い出ししに行こうよ。僕が荷物持ちするからさ」
「うう……行く。買い物、行きたいです」
* * *
歩いてそこそこ遠い場所にある、大型スーパー。カートに買い物カゴをセットしたところで、僕達はまずハムやソーセージなどが置いてある畜産加工品売り場へと向かった。僕はウインナーが大好きなのである。
「ウインナーが大好きって、響さんって本当に子供みたいですよね。今度お子様ランチでも作ってあげましょうか? チキンライスに旗もおつけしますよ? あははっ」
「ウインナーを馬鹿にするんじゃない。というか白雪さんの方が子供じゃん。十七才の女子高生じゃん。このお子ちゃまめ」
「むーっ、女子高生をお子ちゃま扱いしないでください。もう立派な大人です」
「ふーん、大人ねえ」
「……響さん、今どこ見てました? 胸見てたでしょ? 女子ってそういう視線に敏感なんですからね、すぐに分かります」
白雪さんは胸を両手で隠し、むーっと頬を膨らませた。ヤバい、バレてた。だって、大人だって言うからどれだけのものをお持ちなのか確認しなければと思ったんだよ。でも、そんなに大きくないんだな、白雪さん。
「……今、私の胸が小さいとか考えてたでしょ」
「い、いや?」
何この子、エスパー? もしくは僕の心の声が漏れてた?
「試食はいかがですか? とっても美味しいウインナーですよ」
と、白雪さんが僕をじとーっとした目で見ているところに、試食のオバサンが声をかけてきた。おお、ウインナーの試食! 子供の頃から試食コーナーに目がない僕である。タダで食べられる上になんか楽しいじゃん、試食って。
「頂いてみようか、白雪さん」
「そうですね、せっかくですし頂きましょう」
僕と白雪さんは爪楊枝に刺さった、一口サイズにカットされたウインナーを口に運ぶ。うん、美味しい。というわけでもうひとつ頂くとしよう。
「……響さん、意地汚いからひとつだけにしてくださいよ」
「なんで? せっかく勧めてくれているわけだし、別にいいじゃん。それに美味しいからもっと食べたくなるじゃん。白雪さんももう一個食べなよ」
「私はいいです、一個で十分です。というか響さん」
そこまで言ったところで、白雪さんが僕にこしょこしょ耳打ちしてきた。小さな声で「たくさん食べたら買わなきゃいけなくなっちゃうでしょ」と注意してきた。いや? 普通に買えばいいんじゃないの?
「だってこれ、ちょっと高いですよ。もっと安いウインナーあるじゃないですか」
「いやいや白雪さん。美味しければ多少高くても別にいいでしょ」
「駄目です。響さんから預かってる食費の中でやりくりしなきゃいけない私の身にもなってください。ほら、行きますよ」
白雪さんに無理やり手を引っ張られて、その場から離れるように促された。高級ウインナーに後ろ髪を引かれる思いである。
だがしかし、この試食のオバちゃん結構やり手であった。立ち去ろうとしていた白雪さんを再び試食コーナーに引き戻したのだ。
「お嬢ちゃん、ほんと可愛いねえ」
オバちゃんの魔法の言葉。それを耳にした白雪さんはピタッと足を止め、くるりと試食コーナーを振り返る。
「そ、そんな。私、可愛くなんかありませんよ」
あせあせと手を横に振って否定する白雪さんだが、まんざらでもない様子。ちょっと照れながら頬を緩めてるし。何この子、チョロイン?
「いえいえ、本当に可愛いわよ。まるでお人形さんみたい」
「そんな、お人形さんみたいだなんて……。あ、そのウインナー頂けますか? ひとつ買わせていただきます」
チョロッ! え!? 白雪さんってこんなに単純な子だったの!!?
「あのー、白雪さん? このウインナー高いから買わないんじゃ……」
「いいんです。他でちゃんと節約すれば問題ありません」
……さっきと言ってることが全然違う。
「お買い上げありがとうございます。それじゃこちら一袋ね。ところでお二人はご夫婦? 新婚さんかしら? それともカップル?」
白雪さんの顔にボッと火が点くのが分かった。みるみる顔が赤くなる。え、マジ? 僕達ってそんなふうに見えるの? 新婚さん? カップル? 十歳も年が離れてるのに? なんか超意外。
「ち、ちちち、違います! 私達、別にカップルとかそんなんじゃなくて!」
「あら違うの? すっごくお似合いの二人に見えたんだけどねえ」
「お、お似合いだなんてそんな……あ、あの、ウインナーもう一袋頂けますか?」
「え!? ど、どうしちゃったの白雪さん!?」
「お買い上げありがとうございます。はい、こちらもう一袋」
白雪さん、暴走モード突入。そんな白雪さんを止めるため、今度は僕が手を引っ張ってその場を後にする。買い物カゴの中には二袋の高級ウインナー。そして売り場の角を曲がったところで、白雪さんはハッと我に返った。真っ赤になった顔を両手でぱたぱた仰いでいる。
「あー、顔が熱い。ビックリしましたよ、カップルと間違われちゃって」
「いや、僕の方がビックリしたんですけど」
白雪さんって褒め言葉に意外と弱いんだな。将来、絶対に悪い男に騙されるでしょ。僕? 僕はわりと無害だよ? むしろ騙される側だしね。皆川さんみたいな人達に狙われたりするしな!
「私達ってそう見えるんですかね? あの、か、カップルに」
「うーん、見えなくもないような気もするけど……」
ただ単に、オバちゃんの術中にハマっただけのような気もする。
「ごめんなさい。嫌ですよね、私とカップルに間違われるだなんて」
「いや、別に? 白雪さんみたいな可愛い子とカップルに間違われても、僕としては嫌な気はしないけど」
「だ、だから! 私は別に可愛くないですって!」
焦って否定するその仕草がまた可愛い。デラ可愛い。だからあの試食のオバちゃんの言葉に嘘はないのだ。商売上手だとは思うけど。
「あれ? 兄さんじゃないですか」
そのとき、背後から聞き慣れた声。なんか、嫌な予感が。 僕のことを『兄さん』と呼ぶのはアイツしかいない。
そして予感的中。振り返れば、小林。
だけど、なんでだ? ここのスーパーって小林の生活圏内ではないはずなんだけど。
いや、僕は別にやましいことをしているわけではないから気にする必要なんてない。それは理解している。でもなあ……なんか色々面倒くさいことになりそう。
「おやー? おやおやー?」
白雪さんの存在に気が付いた小林は、メガネを掛けてもいないのにくいくいっと眉間の辺りを人差し指で持ち上げる仕草を見せた。
「白雪嬢じゃないですか」
「あ、小林さん。ご無沙汰してます。あのファミレスでお会いして以来ですね」
礼儀正しくぺこりとお辞儀をする白雪さん。マジいい子。でも小林なんかに一礼する必要はないぞ。適当にあしらっておきなさい。
「ふむ、そうですな。でも兄さんと一緒ということは、ちゃんと辿り着けたんすね。住所を教えた余に感謝してくださいね」
ん? 住所? もしかして……。
「こ、小林さん! それ、絶対に内緒にしてくださいって言ったじゃないですか!」
「あれ? そうでしたっけ? すまないでござる、余は忘れっぽいのですよ」
白雪さんの慌てよう。そして二人の会話の内容。これだけで推測できる。小林め、あのファミレスで初めて白雪さんに会った時に僕の住所を教えたな。
「白雪さん? 僕のアパート近くで会ったあの時、友達の家に遊びに来てて、偶然僕に会ったみたいなこと言ってたよね?」
「う……」
あー、やっぱりそんな感じか。冷や汗をダラダラ流しながら、目が泳ぎまくってるからすぐに分かるよ。あれは嘘だったって。
それにしても小林の奴め、個人情報を勝手に教えるなよ――とは言わない。逆に感謝だ。だって小林が僕の住所を教えたことで、白雪さんという救いの女神様が我が家にやってきたのだ。小林、今回ばかりはグッジョブ!
「それにしても、白雪嬢はどうして兄さんと一緒に買い物をしているのですか? 余は漫画の描き方を本格的に習いたいからって聞いたから住所を教えたのですよ? なのに何故、一緒に買物を? しかも二人でラブラブしているのですか?」
「ら、ラブラブ……」
その言葉に白雪さんが顔を赤くしたところで、僕は奴にヘッドロックを仕掛けた。黙らせる。何があっても小林を黙らせる。放っておいたらコイツ、もっと変なことを言いそうだ。僕の直感がそう教えてくれている。
「おい小林、お前どうしてここにいるんだ」
「ど、どうしてって、余は母上から買い物を頼まれただけですのよ。ここのスーパー、安いじゃないですか? だから車でここまで来て、頼まれた買い物を済ませるという任務を遂行しに来たのですのよ……く、苦しい!」
「じゃあ早くそれを買いに行け、そして立ち去れ。そもそも安いと言ったってガソリン代の方が高くつくだろ? というか、僕と白雪さんは別にラブラブしてないからな」
「な、なんでムキになっているのですか兄さん……暴力反対!」
小林が本気で苦しそうに腕をタップしてきたので、ヘッドロックを解いてやった。しかしこれが失敗だった。僕はこのまま技を解かずに小林の意識を落としてしまうべきだった。口を封じておくべきだった!
「……兄さん、余が強キャラだったからいいものの、良い子はヘッドロックなんかしちゃいけないですのよ? ところで白雪嬢、ほんとにどうして兄さんと一緒に買い物してるんですの? 何か弱みでも握られたんですか? それとも成り行きで同棲でも始めちゃったんですか?」
「お前の中で僕はどんな酷いキャラなんだよ。人の弱みにつけこむような非情なことをするわけないだろ。あとな、同棲なんかしていないからな」
「す、すみません……私が説明します。響さんにはあれから毎日漫画を教えてもらっているんです。そのお礼に毎日晩ご飯を作ってあげる約束をしまして」
「白雪さん! コイツに余計なこと言っちゃダメ!!」
すると小林、「ふーん」と言った後にニヤニヤしながら僕の周りをぐるぐる回り始めたのであった。そしてピタリと足を止め、僕の顔を覗き込んできた。
「なるほどぉ、事情は把握できましたですよ。ねえ兄さん、女子高生に毎日食事を作らせているのが余にバレてどんな気持ち? ねえ、今どんな気持ち?」
そしてこの挑発である。ウゼえ! 今日のお前、ウザさ半端じゃないな!
「ち、違うんです小林さん! ご飯を作るのは私が好きでしてることなんです! だから響さんは悪くないんです!」
「えっと、白雪嬢? 毎日兄さんに食事を作っているということは、お嬢は毎日兄さんの家に通っているということですの?」
「は、はい、そうですけど」
「それって、通い妻って言うんですのよ?」
「か、かよ……妻っ!!!!」
白雪さんは発火した。一瞬にして顔を真っ赤にさせて、恥ずかしさで手をもじもじ。自分の足元に視線を落としながら。小林! 変なこというんじゃない! 白雪さんがめっちゃ意識しちゃってるじゃないか!
「あと白雪嬢? 兄さんはロリコンだから気を付けた方がいいですのん」
「小林!? お前何言ってるの!?」
「え? ひ、響さんってロリコンだったんですか?」
「そうですよ? 余と一緒にコミケに行った時、兄さんは『魔法少女まどこマギコ』のまどこちゃんの薄い本を買いまくっていたのです。中学生がチョメチョメされるエッチな漫画ですの。そういう趣味をお持ちなのですよ、兄さんは」
「ひ、響さんが……?」
白雪さんがしらーっとした目で僕を見た。
「違う、誤解だ! あれは漫画の資料として!」
まあ、小林の話も半分事実なんだけど。だって、まどこちゃん可愛いじゃん? そういう本があったら、男ならついつい買っちゃうじゃん? でもハッキリと言っておこう。僕は二次元専門だ! 現実の中学生に欲情なんかしたりしない、いたって健全な二十七歳だ! だからロリコンではない!
「白雪嬢、気を付けなきゃいけませんよ?」
「そうですね」
「そこ! 白雪さん、神妙な顔して小林に同意しないでよ!」
なんか白雪さんと小林がうんうん頷き合っている。僕、一人ぼっち。しかも二人と妙な距離ができてるし。え、僕ってそんなにヤバい?
「それでは兄さん、余は母上からの任務を遂行しに向かいますの。ということで、アディオス。あ、白雪嬢もまた今度」
「おいコラッ! 勝手に去ろうとするな! 白雪さんの誤解を解いていけよ!」
小林という名の嵐が去っていった。いや、嵐というよりも台風だね。被害甚大だよ。妙な空気を作っていきやがって。
そして白雪さんと二人切りに戻る。僕は恐る恐る彼女の顔色をうかがった。ちょっと困ったような顔してるし。
「……白雪さん、小林の言っていたことは話半分に聞いてね」
「大丈夫です、私ってそういうことに結構理解あるつもりですから。それに私も禁断の恋愛ものの漫画とか大好きですし。だから響さんがロリコンであっても、中学生にエッチなことをする漫画が大好きでも、私は否定しません」
「だから僕はロリコンではなくて……」
「大丈夫ですよ、安心してください響さん。私は響さんがロリコンでも軽蔑なんてしませんから。趣味は人それぞれですし」
白雪さんは屈託のない笑顔で僕を認めてくれた。でも、誤解はされたまま。
このニッコリ笑顔、今は逆にキッツイなあー……。
* * *
スーパーを出ると、秋空が茜色に染まり始めていた。
僕と白雪さんの目の前を赤とんぼが飛ぶ。漫画編集を辞めてからだろうか、僕はあまり周りの景色だったり四季だったり、そういったものを意識しなくなった。いや、しなくなったと言うよりも、出来なくなった。それだけ、心に余裕がなくなってしまっていたのだろう。
だけども、何故だろう。今日はやけに感じる。今が秋であることを。
「小林さんって面白い人ですね」
「そうだね、ウザいとも言えるんだけどね」
僕が両手に食材の入ったスーバーのビニール袋を持ち、その隣を白雪さんが歩く。彼女の歩幅は小さい。僕はそれに合わせて少しだけゆっくりと歩く。
今まで、僕はこの道を一人きりで歩いてきた。でも、今は違う。それをとても嬉しく感じながら、そして白雪さんが僕の日常に溶け込んでいくことを感じながら、アパートに向かって伸びる道を真っ直ぐに歩いていく。
「響さん、私も荷物ひとつ持ちますよ」
「いいよ、重いから。まあ、荷物持ちなら任せておいてよ。毎日仕事でもっと重い物を持ったり運んだりしてるからさ。これくらいはなんてことないんだ」
「うーん、でもそれじゃなんか悪いなあ」
そう言うと、白雪さんは僕が左手に持つ袋の持ち手の片方を、その小さな手で掴んだ。そして僕に笑顔を投げかける。彼女が夕日でオレンジ色に染まって見えた。
「じゃあ半分こ。一緒に持ちましょう」
「そっか。うん、じゃあお願いするよ」
ひとつの荷物の重みを二人で分け合いながら、僕達は歩く。こういうなんでもない日常が、僕にはとても新鮮だった。今までのささくれた生活の中にはなかった、潤い。それを肌で感じていた。
「でもビックリしました。私達って、他の人からすると新婚さんだったりカップルに見えるんですね」
「そうだね、僕も意外だったよ。こんなオジサンとカップルに間違われて、白雪さんは迷惑だろうけど」
「そんなことないですよ。私、これでも結構嬉しかったりするんです」
それを聞いて、僕は少し気恥ずかしくなる。今まで女性と付き合ったことがない僕にとって、白雪さんの言葉は僕の胸に温かく染み渡った。
「ところで響さん。明日は日曜日で、しかもお天気がいいそうですよ?」
「そうなんだ。白雪さんどこか出かけたい所でもあるの?」
「もーう、忘れちゃったんですか? 取材ですよ、取材。秋晴れの公園を一緒に歩くって、デートの取材としては打って付けだと思うんです」
取材、か。なんだか、ちょっと寂しいな。生まれて初めてのデートが取材という形になるなんて。最初に言われた時はそんなこと微塵も感じなかったのに。
「そうだなあ、じゃあ明日決行しようか」
「そうですね、明日決行しましょう」
あのファミリーレストランで白雪さんに偶然出会わなかったら、僕達の今も、そして明日も存在しなかった。そう考えると、少し運命めいたものを感じてしまう。これでも僕は、運命だとか縁だとか、そういうものを大事にしてきた。だから思う。白雪さんとの出会いは、ある意味、運命であり、奇跡だったのかもしれない。
「じゃあ明日の取材が終わったら、またネームを作ってみようか。取材の成果を生かしてもう一度描いてみよう。きっと、良いネームが作れると思うよ」
「そうですね、頑張ります。ちなみに響さん、私のネームの切り方でまだ直した方がいいところとかありますか? 遠慮なくどんどん言ってください」
「鞭ばかりでごめんね。本当はさ、白雪さんのネーム、コマ割りだとかはだいぶ良くなってきてるんだ。本当に飲み込みが早いよ。どんどん上手くなっていく」
白雪さんは恥ずかしそうに、でも、とても嬉しそうにして頬を朱に染めた。考えてみたら、僕が白雪さんを褒めたのはこれが初めてだったかもしれない。
「褒められ慣れてないから、なんかくすぐったいですね」
「大丈夫、これから色んな人にたくさん褒めてもらえるから。今の内に褒められ慣れておきなさい、白雪麗先生」
「先生って。あ、響さん、ちょうど良かった。私、ペンネームを考えなきゃって思ってたんです。白雪麗じゃなくて、漫画家としてもうひとつ名前が欲しいんです」
ペンネームか。まあ、女子高生が本名で活動するのは確かに色々危険かもしれないな。プロになるならないは別として、ちょっと変わった人がファンになったりした時、人物を特定するために色々調べてきたりするかもしれないし。
でも僕は、それに関して若干気になることがあった。
「でもさ、白雪さんが漫画を描く理由って、お母さんに読んで気付いてもらうためでしょ? ペンネームにしちゃって、お母さん気付いてくれるかな?」
「あ、それは大丈夫だと思います。お母さん、私の絵柄をよく知ってますし。漫画を読んでくれたらそれだけで気付いてくれると思います」
そう自信満々に言う白雪さんだったけど、そんなものかな。絵柄が似ているな、くらいにしか思ってもらえなかったら意味がないわけだし。
「大丈夫です。お母さんはきっと気付いてくれます」
どうしてそこまで言い切れるんだろう。でも、今の白雪さんは真っ直ぐ伸びる道の先をしっかりと見つめていた。道の先――未来を。その目を見ていたら、不思議と僕も彼女の言葉を信じようと思えたのだ。
「じゃあ考えなきゃね、ペンネーム」
「それでですね、実は響さんにお願いがありまして」
「僕にお願い? うん、なんでも言って」
「あの、響さんがペンネームを付けてくれませんか?」
「ペンネームを、僕が?」
「はい、ぜひお願いしたいんです」
漫画家にとって、ペンネームはとても大切なものだ。ブランドになるのだから。それを僕が決めていいのだろうか。産まれた子供に名前をつけるようなものだし。それに、僕が考えたペンネームを、果たして彼女は気に入ってくれるのだろうか。
「いいんです、響さんがつけてくれるのならなんでも。なんだったら『響うらら』にしちゃいます?」
「それじゃ僕と結婚したみたいになっちゃうじゃん」
「あはは、それはそうですね」
白雪さんは楽しそうに笑っている。けれど、僕は僕なりに悩んでしまう。通常、ペンネームは作家さん自身が付けるものだ。新人作家さんを発掘してスカウトする時も、皆んなすでにペンネームを持っていたから僕にとっても初めての経験なのだ。
「ペンネーム、ねえ」
僕は真剣に、そして真面目に考える。彼女が描くのは少女漫画だから、女性の名前でも問題ないんだよな。少年誌だったら性別を分からなくするために、わざと男性っぽいものにすることもあるけれど。
『白雪』という苗字にかけたものにできないかな。すごく綺麗な名前だと思うんだ、『白雪』って。白雪、つまりは雪か。雪を連想できるペンネームにしたい。
そういえば確か、あの言葉って雪のことだったな。それに白雪さんの性格って、まさに『晴天』って感じだし。晴天に舞い散る雪、か。
「風花……」
「え? 風花、ですか?」
「うん、僕なりに考えてみた。風花。『風花うらら』っていうのはどうかなと思って。うららは平仮名で」
白雪さんには言わないけれど、意図的に『うらら』は残しておいた。お母さんがより娘が描いた作品だと気付いてくれるように。
「風花って初めて聞きました。どういう意味ですか?」
「晴天に舞い散る雪、だったかな。それを『風花』って言うんだ。僕にとって、白雪さんはそんな存在だったりするからさ。いつも明るい性格で、天気でいうと晴天って感じで。それに僕としては雪のイメージは外したくなくて。だから風花。どう?」
「風花、風花――」
そう、白雪さんは何度も繰り返し呟いた。
「それにさ、綺麗な名前だし、なんか可愛らしいし。可愛い白雪さんにピッタリなんじゃないかなって」
「ちょ、ちょっと響さん! わ、私って可愛くなんかありませんから!」
「いいや? 僕が知る女の子の中で三本の指に入る可愛さだけど?」
「残り二本が気になりますけど……。風花、風花うらら」
白雪さんは再度確認するように、『風花』と繰り返し呟く。そして「うん」と一人頷き、僕の目を真っ直ぐに見つめた。あまりにキラキラと綺麗なその瞳に、僕はつい見惚れてしまった。
「響さん! 私、今日から風花うららになります!」
「本当にいいの? そんなに急いで決める必要もないし、もう少し考えてみたらどうかな? それに嫌だったら言っていいんだよ? そしたら別のを考えるから」
「いいんです! 風花うらら、すっごく気に入りました! それに響さんが考えてくれた名前ですから。私、嬉しいんです!」
「そっか。気に入ってもらえて良かったよ。じゃあ家に帰ったらサイン考えなきゃいけないね、風花うらら先生」
「先生はくすぐったいですよ。あ、普段はちゃんと白雪って呼んでくださいね」
「はい、分かりましたよ。風花先生」
「もーう、全然分かってないじゃないですかー」
僕と白雪さんは荷物の重みと、そして色んなものを共有しながら家路につく。その間、白雪さん嬉しそうに「かっざはなー、かっざはなー」と、鼻歌のように何度も繰り返し声にした。
彼女の歩幅が、ちょっとだけ大きくなったような気がした。